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「風よあらしよ」の感想。「悪者になってはならない」は女性にとっては、もはや呪いに近いのではないか。

 野枝が大杉栄と出会うまでは凄く良かった。
 子供時代、十代の野枝はとても魅力的だ。
 何としても学校に行き勉強がしたい、このまま田舎の片隅で平穏に暮らす一生で終わりたくない、世の中が見たい、自分の力を試したい。
「風やあらしは強ければ強いほど、それに立ち向かえる」
 野心と克己心、上昇志向、自分の可能性を追求したいという情熱と渇望、その反動としての焦燥と鬱屈がこれでもかと伝わってくる。

 自分が十代の野枝が好きなのは、負の感情も持っているところだ。
 叔父の家に押しかけるようにして世話になっておきながら、従姉を「自分がいかに恵まれているか知りもしない」と見下し嫉妬して、ライバル心をむき出しする。
 従姉のおっとりとした気質や好意すら、うざったく思い雑に扱う。
 そういう気質だから、当然周囲からの風当たりは強い。

 自己主張や自己探求を徹底してやろうとすれば、当然周囲から疎まれるし軋轢が生まれる。
 その軋轢があるから「自他の境界(社会性を差し引いた自己)」がそこに確かに存在するとわかる。社会から「自己」という幻想を切り出し、確立させる、その輪郭を自分で描いて形を与える。
「自己を確立する」とはこういうことだと自分は思う。

 特に女性は「他人に配慮し受容的であれ」「他人と競争して場を荒立てるのではなく、自分を抑えて協調せよ」という性規範の圧力が強い。
 自分に辛く当たるわけでもない、むしろ好意的な従姉に対してさえ「お前みたいに恵まれている、そのことに気付きさえしない人間には絶対に負けない」と怒りと競争心をむき出しにする。
 読者にとってさえ「嫌な奴」である野枝の描写を見て期待が高まった。

 ところがである。
 そんな野生の獣のようだった野枝が、最初の夫になる辻潤と恋に落ちたあとはその魅力を失っていく。
 中身が入れ替わったのかと疑うレベルだ。

「風よあらしよ」の伊藤野枝は、野上弥生子の評の通り、パートナー次第でどうとでも変わる人間に見える。
 物語の終盤で「辻潤とは思想の違いで別れたのだからそうではない」という謎の擁護がなされていたが、辻潤と思想が対立したのは、大杉栄と会い、既に辻に幻滅し始めたあとなのでまったく説得力がない。
 実際、足尾銅山事件への考えで辻と対立した時に、「大杉だったらこうは言わないのでは」と考えてすぐに手紙を書いている。
 
時系列は大杉栄に会う→辻に幻滅する→辻と思想的に対立する
なので「思想が対立したから別れた」のではなく「辻に男としての魅力を感じなくなったから、思想的に対立するようになった」と考えるのがむしろ自然だ。
 何年も一緒にいてこれまでは思想の対立がなかったのに、急にそこに気付いたと言われても信じがたい。

 また大杉の神近市子への扱い(言動)は、どう考えても擁護しようがない。
 神近の支援を受け取りながら、神近が野枝との恋愛について勘ぐったことを言うと、「君は遅れている(←現在で言うところの『価値観のアップデート』と同じ発想)」と説教し出すところなど、読んでいてうんざりする。
 同じ女として野枝は、大杉の神近への仕打ちをどう思っているのか。
と気になるが、恋に夢中で特に何も思っていない。

 恋愛(人の感情)は身勝手なもので、理屈などふっ飛ぶものだ。
 辻に魅力を感じなくなった、大杉を好きになり、大杉の妻である保子や愛人である市子のことなど気にせず自分の気持ちを押し通す。
 それは構わない。
 だが「ただの恋ではなく同志的な結びつきだ」だのと言いだして、二人の関係を正当化しようとすることにはうんざりする。
 ツッコミどころ満載の主人公二人の自己正当化を、周りの人間が何故か必死に擁護する。
 
また独裁国家か。さすがに多すぎないか。

 自分の目から見れば(「風よあらしよ」の)大杉栄と辻潤は、どちらも鼻もちならない人間であり、伊藤野枝はそんな男たちに教導されることが好きな女性である。
 
前述した辻と大杉への気持ちから思想まで影響されるところを見ると、時代設定の問題ではなくそういう人間なのだと思うしかない。
 実際、平塚らいてうは男に影響を受ける描写はなく、むしろ自分の思想についていけない男を軽蔑する描写が多い。

 この時代の左翼は女性を女性として利用する姿勢がかなり顕著だった。
 作内の大杉と神近の関係など自分にはそうとしか見えないが、恋愛にのめりこんでいる野枝は仕方がないにしても、もう少しその点に批判的な文脈にならないのか。
 
女性利用主義で男が主導する関係を無批判に受け入れる女性を肯定的に描くこと自体は創作なので別にいいが、読んでいてだいぶうんざりした。

 女性を抑圧する性規範が「常に周りを見て自分よりも他人に配慮しろ→自分を殺してでも他人に協調しろ」であるとするなら、女性が奪われているものは悪性(社会と対峙する力と意思)なのではないか
 自己と対立する「社会」は男だけではない。
 大杉と恋愛するにあたって、理不尽に傷つけることになる保子や市子などの他の女性、捨てることになった辻との間の子供(このあたりの描写はほとんど何もされていないことが気になる)などすべてである。

 自分は大杉のような人間は嫌いだが、そういう読者(他者)と見解が違うからこそ「自己」なのだ。
 そこを引き受けずに、「大杉は魅力のある男だ」「彼と自分の関係はただの恋ではない」「彼は魅力のある男で、その魅力がわからない人間がおかしい」「辻との間の子供の描写は『本当は手放したくなかった』のひと言で終わり、あとは話に出さない」など文脈によって、事実(作内で起こったこと)を「野枝(ついでに大杉)は悪くない」という風に見せようとするのは何故なのか。

 不倫して子供を捨てて、女性を利用して捨てるような男に走るということをしてすら、なお他人からよく見られたい。
 正しくは「悪者になれない(自分の中の悪性を認められない)」だと思うが、ここまでくるともはや呪いに近い。

「社会(含読者)と対峙してでも(悪者になってでも)自己を打ち立てる女性」を描く女性作家は、自分が知る限りは桐野夏生くらいだ。
 探しかたが足りないだけだ……と思いたい。


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