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おれがあいつであいつがおれで
日本人が言葉をすぐ崩して造語を多用するのはどうやら本当らしい。
もちろん、どの国にもそういった習慣はあるだろうし、スラングもいくつかあるだろう。
だが、外国人の友人に聞くとやはり日本人は少し異常なのだそうだ。
「例えば英語で「私」は「I」だけです! 日本は「私」もいーっぱいありますぅ」と困り顔で言ってきたことがある。
確かに一人称ひとつとっても膨大な量がある。
「私」「あたい」「うち」「あーし」「あっし」「あちき」「俺」「おいら」「わし」「わい」「わて」「拙者」「それがし」「ぼく」「ぽっくん」「ぼき」「ぼくちゃん」「ぼくちゃんちん」「イゴール•ボブチャンチン」など枚挙に暇がない。
まあ、後半はちょっとふざけたけど、それでもまだまだある。
小生の甥っ子などは一人称が「おいらちゃん」だったし、その友達は「おいらーまん」だった。
なぜこのような事態になってしまうのだろうか。
日本特有の風土が関係しているのかもしれない。
日本といえば島国であり、過去に他国に占領されたことが一度もない国である。あの元ですら占領できなかったシーパワー半端ない国なのである。
他国からの侵略に怯えることがないので、当然興味、関心は内に向かう。つまりコミュニケーションを取る相手は限りなく狭まるのである。
吾輩も経験があるのだが、仲間内で「言語」がどんどん簡略化していきそのうち「記号」となり、他のグループが聞いてもなんのことだかちんぷんかんぷんになる、という現象がたびたび起こる。
こういった現象はひょっとすると日本特有のものなのかもしれない。
つまり、仲間内だけで伝わる暗号のような「崩し言葉」が絆を確認するための道具になっているのではないか、ということである。
島国は周りを海で守られているので比較的安全である。
と、言われればなんだか「選ばれし民」みたいで嬉しくなってしまうが、よくよく考えたら、「ひとりぼっちの寂しい国」とも言える。
だから中で過ごす人々は肩を寄せ合い、仲間であることを確認するために敢えて言葉を崩し、その地域だけで通じる言葉に変換し、安心しているのではないか、と思う。
「日本は南北縦に長い国ですから」と言う人もいるが、それにしても方言が多過ぎる。
兵庫県と岡山県なんて隣り同士なのに全然言葉が違う。
高校時代、兵庫県の高校と野球の練習試合をしたことがあるが、向こうのベンチからは「やったれやったれ! いてこましたれ!」とガヤが飛び、自軍ベンチからは「なんならぁ、やってみりゃえかろぉがぁ!」とガヤが飛んでいた。
その時はマウンドのあたりが県境に見えたものだ。
寒い地方で口を開くのも億劫なので、「私」のことを「わ」と言う、などはまだ理由があるので許せるが、気候も風土もそこまで変わらないのに一方では「〜ばい」と言っていて一方では「〜じゃけん」と言って、また一方では「〜やでぇ」と言ってるのはやはり違和感がある。
島国の中でさらに小さなコミュニティを作り、そこで結束をして言葉を作る。そういった作業を繰り返してきた民族なので、これだけ多くの「造語」が生まれたのではないか、とミーは思うざんす。
今回、当方の考えをつらつらと書き綴りましたが、あくまで一個人の考えであり、おそらくそんな事実はないと思われますので、どうか適当に読み流してください。
麿の戯言に最後までお付き合いいただき、朕は嬉しいぞよ。
では、また。