180921_【再掲】落語と建築(空間)

※このテキストは、昨年2017年3月に開催した春のはこらくごの(ステマの)ためにFacebookへ投稿したものの再掲(一部改変)です。


縁あって主催している落語会「はこらくご」が近づいてきました。

きっかけは、地元のまちづくり(=自分たちで(勝手に)まちを楽しむ)活動。箱崎宮の放生会に合わせて企画するまちなかイベント、ハコフェスのコンテンツのひとつで、かつ、今は解体されてしまった九州大学の学生集会所「三畏閣」のことを知ってもらうために始まった企画でした。つまりそれは、秋なのだけれど、好評により昨年から春にも開催することとなり、年二回もやることになってしまった。いろいろなご縁が重なった結果なのだけれど、これまで落語素人だった私がどんどんと深みにハマり、経験するにつれてわかってきた、空間づくりの側面から見た落語の魅力について少々記してみます。

落語を構成する空間とは、一見、不思議なものです。

まず、目の前にひとりの和服姿の人間(噺家)が座って喋っている。観客はそれを聴いている。

ただ、それだけ。

次に、噺家の言葉を聴いている方は、聴きながら想像を巡らせ、頭の中でその情景を浮かび上がらせている。そしてそれは、その人の知識や経験、育った環境によって全く異なったものである、はず。話している当の噺家の頭の中ももちろん、また観客の誰とも違っている、はず。にも関わらず、会場全体がある瞬間、一体となって、楽しく笑ったり、しみじみと泣けてきたり、じんわりとあったかい気持ちになったりもする。

結局は聴く側の想像力に委ねられるため、背景や文脈を共有できないと楽しめない、たいへんにハイコンテクストで高度な話芸だ、と言えるものの、英語での落語、なんていうものもあったりして、人間の想像力は万国共通的でもある。

自分としては、ひとりの話をもとに時間と空間を共有することが、こんなにも豊かさを感じられるものか、と、落語家、噺家さんの技術に舌を巻く一方、これは大いに学ばねばならない、と思うのである。
そう、建築を設計するにあたっては、イメージの共有が大切です。プレゼン。このときに、クライアントや施工者、関係各位に何をどう伝えるのか。人の頭の中を覗くことはできず、同じものを見て同じ話をしていても、感じていることは違うのですが、話芸というのはそのズレを埋めるのに大いに役立つと気づいたのです。なんなら、噺を一つ覚えてみたいぐらい。

設計の段階では、まだ目の前に実物があるわけではないので、ひとつのものとして共有するのは、設計者にとっても施主にとってもなかなかに大変な作業。それを補うために、3DCADの導入など、ビジュアルコミュニケーションの強化に取り組み始めたわけですが、言語的なコミュニケーションも同時に強化したいと思っていたりするところです。

それにしても、ことばひとつでその場に豊潤な時間や空間を生み出す落語に、現実の空間は追いつけるのだろうか?などと思ったりするものですが、人は想像の中にあってこそ、豊かな気持ちでいられるのかもしれませんね。饒舌な空間、なんてものに居続けたら、それはそれで疲れてしまうかもですが。

そんな魅力のある落語の世界。笑福亭鶴瓶さんの八番弟子、笑福亭瓶二さんと一緒に、気軽に楽しんでみませんか?ぜひお出かけください。

いいなと思ったら応援しよう!