救護義務

前方車両のノロノロとした右折が青信号を使い切ってしまった事に、私は相変わらず文句を言いながらブレーキを踏み信号を待った。もうすぐアクセルに足をかけようかというとき、先の左折予定の横断歩道に老人が転倒する様子が目に入った。私はそれと関わりたくないと思い、咄嗟にそれより手前のコンビニに左折入庫した。なぜそこまで回避したかというと、その倒れ方がヤバかったからだ。健康な人が躓いて転倒したのではなく、意識を失った転倒に見えたからだ。

まるで老人を轢いてしまったかのような位置関係にあった車両の運転手は、すぐに飛び出し救護するようなタイプではなく、どこからともなく老人に走り寄ってきた数名に合わせる形で救護に参加していた。

もしも、私が老人の転倒現場に一番近かったあの車両の運転手だったのなら、「周りからどう思われるか」という一点にのみ思考が働き、そのまま何もせずに車内から目の前の光景を眺めていた場合に生じる「非人道的な自分」にさいなまれ居心地の悪さに押し潰され、すぐに飛び出し「私が轢いたわけではありませんよ!」のニュアンスを大事にしながら救護にとりかかっただろう。私は「助けたい」と思っているわけではなく、「助けてると思われたい」のだ。

しかし、そもそも救護とはそれで良くて、それで成り立っている部分もあるのかもしれない。

果敢に赤の他人を救護する街の人を見る度に、私のやらざるを得ない時にのみ発動するであろう救護というものが如何に薄情かと思うのだが、意外と私のような心境の人も少なくないのかもしれない。

どのような気持ちであれ、一番近い人が早急に対処すれば、救急車の到着時間に差はないだろう。

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