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マックの150円コーヒーが冷めないうちに

さっき頼んだコーヒーは、もうすっかりぬるくなってしまっている。まだわずかに残る温かさを、カップを包んだ両手に感じながら私はふと考えた。

「もし今会えたら何を話そう。」

ちょうど一週間前、「コーヒーが冷めないうちに」という映画を観た。
とある喫茶店の特定の席に座ると、カップに入ったコーヒーが冷めるまでの間だけ、自分が望んだとおりの時間に戻ることができるというストーリーだった。
ありえないことだとわかっていながら自分だったらどうするだろうと妄想してしまうのは、映画やドラマからすぐ影響を受けてしまう私のいつものクセだ。

私には、もう一度会いたいと思う人がいる。
過去に戻れる「あの席」に座ることができたなら、コーヒーが冷めるまでのわずかな時間でも構わない、私はきっと、叔母に会いに行く。

大好きだった叔母がこの世を去ったのは、2020年の10月。
いつでも優しく穏やかで、周りの人を大切に思い寄り添うことのできる叔母は、どんなときでも私の味方でいてくれた。何をするにも丁寧で品がありとても賢い女性。一緒にいると楽しくて心が温かくなる、そんな素敵な人だった。彼女が好きだった森山直太朗を聴くと、今でも涙がこぼれる。だって、夏の終わりじゃなくったって、私はどんなときでもあなたに会いたいから。

映画「コーヒーが冷めないうちに」は、主に4人の人物のエピソードで構成されているのだが、そのうちの1人に亡くなった妹に会いに過去に戻る女性がいる。
「もし妹のことでみんなが不幸になったら、あの子がみんなを不幸にするために生まれたってことにならない?」
映画の最後、その女性を演じた吉田羊さんのこの台詞が、私は今でも忘れられない。
私は森山直太朗の曲を聴くとき以外にも、ふと、叔母のことを思い出して泣いてしまう夜がある。「私がもし結婚したら」「仕事ですごい成果をあげたら」そんな幸せな未来を想像したとき、「もしそばにいたらなんて言ってくれただろう」と考えてしまう。泣くといっても、もうおんおん言って大泣きしたりはしない。涙が2〜3粒、ツーッと流れる程度なのだけれど、そのときに私の頬を伝う涙は、なんだかいつも温かい。

最初に叔母の余命を聞いたとき、私は受け入れることができなかった。あのとき、私以外の家族もみんな同じ気持ちだったと思う。それは私の中で次第に「なぜ叔母だけがこんな目に」というどこにもぶつけることのできない怒りに変わり、自分が身代わりになれたらと願うようになった。そんなことを考えても事実は変わらず、「それ」は避けられないものなのだと悟り、そしてとうとう「その時」を迎えてしまった。叔母がいなくなったことを、いつ受け入れられるようになったかは、正確には覚えていない。時間をかけてゆっくり、私の人生の中に溶け込んでいったように思う。
そしてようやく、今はまた叔母のことを考えて温かい気持ちになることができている。
いま私の頬を伝っている温かい涙は、映画の台詞の通り「叔母がみんなを悲しませるためにそこにいたわけではなかった」ということを私に教えてくれる。

もし今会えたら何を話そう。
本を読むのが好きだった叔母に、私が最近エッセイを書き始めたことを話したい。本当は感想も聞きたいところだけど、きっとその前にコーヒーが冷め切ってしまうと思うから、それはまた次の機会に。「おじいちゃんが最近通販番組にハマってること」とか、「2ヶ月前に弟が初めて彼女を家に連れてきた話」とか、お正月に親戚一同が集まって祖父母の家で話すような、そんなたわいもないことをたくさん報告したい。またあの頃みたいに、私の話を笑って聞いてほしい。

ぬるくなったコーヒーを手に、深夜のファストフード店でこんなにも妄想を膨らませてしまう自分が好きなときもあれば、ほとほと呆れてしまうときもある。さぁ、気持ちを切り替えて熱々のコーヒーでも飲もう。
実をいうと私はコーヒーがあまり得意ではない。最近は「カフェインを強制的に摂取するため」に飲むことがほとんどだけれど、これからは少しだけ特別な時間に変わりそうだ。冷め切る前の、ぬるいコーヒーを飲み干すときは特に。

カップに残ったコーヒーはもうとっくに冷めている。いつか叔母に結婚や仕事についての良い報告ができるよう、明日からも頑張らなくちゃ。その時の私はきっと、苦手なコーヒーを飲みながら、温かい気持ちになっているんだろうな。


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