借金5000万で売上6000万の会社の保証人になった二代目社長のV字回復ストーリー③
2011年、私は父が創業した『有限会社齋藤アルケン工業』を、事業承継しました。
今現在は、創業時の内装業を基盤としつつ3つの介護事業も展開しています。ただ、ここに至るまでの道のりは険しく、暗中模索する日々が長らく続きます。それを示す一例として、介護事業から自分の給与を生み出せない時期が2年ほどありました。出口が見えないトンネルを歩いているような毎日の中で、幾度にもわたる挫折を繰り返し続けていたために心身ともに疲れ切っていました。
そんな私のこれまでの歩みを、何回かに分けてお伝えしています。前回は、事業の傾きを取り戻すため、農業に参入し挫折したところまでをお伝えしました。
今回はその続き。齋藤アルケン工業が、いよいよ介護事業に参入する頃のことを書き綴ります。
福祉用具のレンタル事業をスタート
齋藤アルケン工業として農業に参入し、ニンニク栽培から3年で撤退した後、新たに介護事業へ向けた業種転換のタイミングが訪れます。
その頃、商工会議所主催の介護事業参入に向けたセミナーがあることを知ります。セミナーを聞いているうちに、介護用品貸与事業であればなんとか介護事業に参入できると思いました。また、偶然にも母親は介護ヘルパーの資格を所持していました。
齋藤アルケン工業が持つ内装業の技術を掛け合わせ、手すりの取り付けなども活かせるのではないかと閃きます。
その後、介護事業をスタートさせるにあたって必要となる資格取得に向けて踏み出します。ただ、内装業の傍らで学習を進めなければなりませんし、何もかもが穏やかではありません。資格取得に向けて走り出せば更に忙しくなることはわかっていましたが『やるしかない』と、そんな気持ちでした。
そして、無事に介護事業進出に必要となる資格を取得。2009年12月、齋藤アルケン工業は内装業と並行し新たに介護用品貸与事業のスタートを切りました。
福祉用具のレンタル事業をスタート後、無給だった2年間
介護用品貸与事業として福祉用具のレンタル事業をスタートするも、2年ほどは自分の給与すら生み出せませんでした。
もちろん、営業もしました。
ただ、介護事業は信用が第一。
信用や信頼は、直ぐに構築出来るものではありません。時間をかけて培うもので、日々の些細な対話などの積み重ねが必要なはずです。それもあってか、突然に内装業から業種転換してきた齋藤アルケン工業に、耳を傾けてくれる人はそう多くはありませんでした。
そうした私の、長きに渡る事業立て直しを見ていたのは両親です。振り返ってみると、血が繋がっているが故に不安は募ったことだろうと思います。
経理を担っていてくれた母からは『長らく給与を払える売り上げがないけど、このままやり続けるの?』と、心配されたことがあります。ただ、それ以上の何かを求めてくることもありませんでした。父は母から全てを聞いていたようですが、何か言ってくることはありませんでした。2人ともずっと私を見守ってくれていました。
見守ってくれていたと書くと、綺麗な過去に聞こえるかもしれません。ただ、両親は年齢的に太刀打ちできない現状だったのだと思います。そうした状況を目の前に、見守ることしかできなかったのかもしれません。
私の元へ、転機の光が差し込んできた
2000年に家業に入り、事業の傾きを取り戻すために多くの寄り道をしました。農業にも参入し3年間もの時間と労力も費やしています。
そしてたどり着いたのは、介護事業。
ただ、介護事業に参入しても、売り上げが上がらない2年間はとてもつらかったです。出口の見えぬトンネルを模索し続けているような感覚でした。せめて、出口の場所だけでも分かっていたら、少しは楽だったのかもしれません。
そんな暗闇にいる私転機がやってきたのは、介護事業をスタートして3年目のことでした。
続は次回に。