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借金5000万で売上6000万の会社の保証人になった二代目社長のV字回復ストーリー②

2011年、父が創業した『有限会社齋藤アルケン工業』の事業承継をしました。

今現在では、創業時の内装業を基盤としつつ3つの介護事業も展開します。ただ、ここまでの道のりは一筋縄ではいかなかったです。

今回は、前回の続き。家業の傾きと直面してからの私の歩みについてを書き綴ります。

立ち往生する日々

バブル崩壊の影響によって事業が傾く、齋藤アルケン工業。
多額の借金が圧し掛かる上に、仕事も減り続けていました。

このまま同じことを続けている訳にはいきません。とはいえ、すでに60歳を過ぎていた両親には新規事業に取り組むエネルギーがありません。

動くべきは私だと感じていました。しかし、内装業の仕事の傍ら、何から取り組めばいいのか分からない状況が続きます。そうした状況と向き合わなければならない日々に、正直なところ心的にも体的にも疲れ果てていました。

補助金を活用した農業への参入

2006年から2007年にかけ、多くの建設業界が農業に参入するようになります。『補助金を活用した農業への参入』を推奨した施策が打ち出されたことが背景にあります。

齋藤アルケン工業もその流れに乗ろうと、農業に挑戦しました。品種は、高単価で管理しやすいとされる国産ニンニクを選びます。

けれども、いくら国産ニンニクが高単価とはいえ、内装業で作った多額の借金を返済するにあたってニンニクの単価は気が遠くなるような途。無念にも、3年で撤退しました。

前途多難は続く

上手くいかないことは続くもので、その間に離婚も経験します。当時、就学前だった子どもは私が引き取りました。

育児をしながら、事業立て直しと向き合うことは本当に大変でした。ただ、それが良かったと感じることもあります。結果論として言っているのかもしれませんが、息子の存在が私自身を『前へ前へ』と、奮い立たせてくれる一因でした。

上手くいかないことが続いても、なんとか息子のために頑張りたいという気持ちが、既に弱り切っていた私を一歩ずつ前に踏み出させてくれていたのだと思います。

起こす行動全てが音をあげない中でしたが『諦めるわけにはいかない』と言う意欲に繋がっていました。

行動を起こす中で、新たな感情が芽生えていた

諦めるという選択もあったのかもしれませんが、私は諦めきれませんでした。そうやって行動を起こしているうちに、新たな感情が私の中に芽生えるようになります。『人の役に立ちたい』と。

というのも、それまでの私は自分のためにだけに頑張ってきたように思います。

ですが、挑戦と失敗を繰り返す日々の中で、その歩みの中でしか出会うことの出来なかった人や景色を知りました。その一つ一つの経験が、事業を営む上で大切な『人の役に立つ』ことの大切さを、改めて気付かせてくれたのかもしれません。

人は、平穏なときに自分を変えていくことは難しいものです。ただ、苦境に立たされたときに、普段では選ばないような道に進みます。そうしたときは大抵の場合、ゴールの見えない不確実なものを選ぶケースも多いのかもしれません。そうした窮地の選択が、未開の地を切り開くきっかけとなる人も多いのではないでしょうか。少なくとも私は、そうでした。

この後、私は介護事業に踏み出します。
ただ、ここからも順調とは言えない日々が暫く続きます。

続は次回に。


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齋藤憲嗣
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