薄墨の街 上 斎藤緋七
はじめに
被差別『部落』とは都市部,農山漁村部のいかんを問わず,特別な差別意識により交際,婚姻,就職等々の面での厳しい差別をこうむりつづけてきている集落を指す。
同和地区とは
同和地区(同和地区)とは、同和対策事業の対象となった地区である。
総称であり包括的定義のない被差別部落(あるいは特殊部落)とは異なり、正式な行政用語である。
同和対策事業は二00二年(平成一四年)で終了しているため、日本共産党を中心に旧同和地区という呼び方もされる。
これに対し同和対策事業の対象とならなかった被差別部落は、未指定地区、もしくは未解放部落と呼ばれる。
(以上参考文献)
私の名前は北島未来。被差別部落出身です。私は、同和地区と呼ばれる地区で育ちました。家族は、小学校の先生をしている父と近所にパートに出ている母と、弟と、私です。自分が差別される側の人間であると知ったのは、私がまだ、十歳。子どもの頃です。父は被差別部落出身ですが、母は違います。
私たち家族は父と母の新婚当初から、ずっと、同和地区に住んでいました。あれは、母方の親戚の集まり
があり、同じ市内に行った時の事です。私は十歳でした。私は母とお婆ちゃんの家に行きました。
「おい、未来、お前のお父さんの血が、えらい、汚ならしいんやってな。そんなんやから、同和地区な
んかに住んでるんやろ」
親戚の男の子、宏和くんが喧嘩ごしに話かけてきます。宏和くんは、お母さんの一番下の妹の子ども、私の従兄弟です。最初は言っている意味が分かりませんでした。
「血がどうしたの? 」
私は、突然突っかかって来た、宏和くんに聞きました。答えは返ってきませんでした。
「私のお父さん、汚くなんかないよ。うちのお父さんのどこが汚いんか、言うて見てや」
「お前はあほか」
宏和くんは言いました。
「そうや、こいつも部落民や! 汚いって言うんは見た目やなくて身体の中を流れる血の事や」
「血? 」
私はますます訳が分からなくなりました。
「血なんか汚くなんかないよ。血なんか、赤くて、皆一緒やろ」
私なりに一生懸命、言ったつもりです。そのうち、私の周りには、他の従兄弟たちが、
「なんや、なんや」
「何を揉めているんや」
集まって来ました。一人対九人です。
「だって、お前のお父さん、普通じゃないやろ。被差別部落民ってやつなんやろ」
「そうや、そうや」
「うちの、おかあちゃんも言うとったで」
「おい、皆、こいつ、同和地区に、すんどるぞ! 」
「エタとか、ヒニンって言うらしい」
外野が騒ぐ。
「部落のやつらは牛や豚を殺したり、革を剥いだり、誰もやりたくない、汚らしい仕事してるんやろ」
「そんな、汚い仕事をしてるんが、部落民の証拠なんや」
「そうや! そんなところに嫁に行った、お前のお母さんは一族の恥さらしやって、お婆ちゃんが言うてた。今でも、お婆ちゃん、泣いてるわ」
「お婆ちゃんが可哀想や! 」
「そんな、汚い部落の男なんかと結婚した、お前のお母さんは、一族の恥さらしや、子どものお前も恥さらしや! 」
「恥さらし! 恥さらし! この恥さらし! 」
泣きそうでした。
「あんたら、やめたり」
その時、私よりずっと年上の高校生のお姉さんが落ち着いた口調で言いました。お母さんの真ん中の妹の子どもの、涼子お姉ちゃんです。
「未来ちゃんな。あんたに罪はないけどな。被差別部落の親戚がおるなんて私らの将来の結婚にも関係してくるんよ」
「そんなことを私に言われても困るもん。どうしたらいいのか、わかんない」
「でも、この子らの気持ちも分かってやって欲しいねん」
「わかりました」
お姉さんは従兄弟たちに言いました。
「あんたらええか、この子には、どんだけ言うても分からんわ。第一、この子には責任はないやろ。ほんまに責められるんは、部落の男なんかと結婚した慶子おばさんや」
慶子は私のお母さんの名前です。
「そうや、全部、慶子おばさんの責任やわ。うちのお父さんとお母さんが言っいてたわ。部落民の親戚がおるなんて恥ずかしくて、ばれたら、どないしょうって」
「未来。あんたみたいな部落民なんかと親戚って言うだけで私らまで迷惑してるねんで! 謝りや! 」
私も言い返しました。
「何でもかんでも、私らのせいにしんといてや! 」
お姉さんは呆れるように私に言いました。
「あのな。未来ちゃん、あんたは全然分かってないんやな。あんたみたいな、被差別部落の親戚なんかな、存在そのものが迷惑なんよ」
理屈が分かりませんでした。
「あんたらのせいで、ここの市は税金高いって知らんやろ」
「それは、知りませんでした」
だって、当時私は十歳で、まだまだ子どもで、同和地区の優遇措置に家族で、浸かっていたのです、何も疑問に思わずに。でも、仕方ない、仕方ない事なんだ。謝る必要はない。意地でも謝るもんか。
間違った事を言われていたので、そこだけは絶対に否定しようと思いました。それは、私のお父さんの職業です。私のお父さんは小学校の先生でした。
「私のお父さんは、牛や豚を殺したりしてへんよ。仕事は小学校の先生やで」
「どうせ、部落民のための小学校やろ」
「どえらい、柄の悪い小学校に勤めてるんやねえ。程度が知れるわ」
吐き捨てるように言われました。従兄弟たちは馬鹿にするに、にたにたと笑っています。
「未来ちゃんのお母さんは、あんな男のとこに嫁に行って、恥ずかしくないんかなって、うちのママが言ってたもん! 」
両親が侮辱されてるのは、わかっていました。次第に怒りがこみあげて来て、私が何か言い返そうと思ったら、そこに、私のお母さんが来ました。
「待たせてごめんね。未来、帰りましょう」
「お母さん。あの子たちがお父さんとお母さんの悪口を言うねん」
「分かったよ。言いたい子には言わせておこう。さあ、帰ろう」
私の手を強く握り歩き出すお母さんの背中に向かって、いつもは優しいお婆ちゃんが、
「待たんかいな! 慶子、この恥しらず! 」
大きな声で怒鳴っていました。
「あの男と別れてきたら、何もかも、私が面倒見てやるって言うてんのに! 」
お婆ちゃんの投げたお茶碗がお母さんの背中を目掛けて飛んで来ました。命中しました。
「痛い! 」
お茶碗は地面に落ちて割れました。
「お母さん、お婆ちゃんまでが何で? 何があったん? 」
「慶子! 待ちなさい! 」
「ごめんね、未来」
お母さんは泣きながら言いました。お母さん、私に謝らなくてもいいのに。
「どうしても、わかり合えない」
お母さんは言いました。私もお母さんの手を強く握って歩きました。もう、それ以上は何も聞きませんでした。お婆ちゃんの家の近くまで、お父さんが、車で迎えに来てくれていました。
「お父さん! 」
私はお父さんの元に走って行きました。
「さあ、帰ろか」
幼い弟は助手席で、気持ちよさそうに眠っています。お母さんが静かにお父さんに言いました。
「縁を、切ってきました」
お父さんは、運転しながら、
「すまんな」
一言だけ言いました。
「いいえ、身内とはいえ、私はあの人たちにはついて行かれへん」
お母さんが静かな口調で言いました。
「仕方がないことなの」
「そうか」
「仕方がなかったんや。もう、いい。もう、今度こそ諦めます」
お母さんが泣いています。
「みっともないから帰って来なさい。と母に言われました。どこが、みっともないん? うちの家族は一生懸命生きてるやんか! 」
多分、お父さんは,子どもの頃からずっと今日以上に辛い思いをしてきたのだと、思いました。今日のお母さんがお婆ちゃんに皆の前で怒鳴られて。お茶碗を投げつけられ、痛くて怖くて嫌な思いをしていたみたいに。集団で虐められた今日の私みたいに。
「さあ、嫌なことは忘れてこれからは、親子四人で仲良くやって行きましょうか! 」
明るい口調でお母さんは言いました。私は思い切って聞いてみました。
「お父さん、部落とか同和地区って何の事? 今日、宏和くんたちが言った」
「同和地区は今、未来が住んでいる街の事や」
私は聞きました。
「お父さん、私も部落民なの? 」
私が聞くと、
「来年になったら道徳の時間で習うから。その時に、本を読んだりして、自分でしっかり勉強しなさい。今、お父さんが教えるより、その方がいいと思うからな」
お父さんは言いました。
「お母さんは同和地区にお嫁に行ったから、一族の恥知らずになったの? 」
両親は黙り込んでしまい、返事は返って来ませんでした。
「何で、いつもは優しいお婆ちゃんまでが、あんな事をするん? お母さんの本当のお母さんやのに」
涙がまだ幼かった私の頬を濡らしていました。
「お婆ちゃん、ひどいよ」
お母さんが虐められて可哀想だと思いました。
「何で? お父さん、お母さん」
返事はありません。車は私たちの住む住宅地に入りました。私が自分が被差別部落民であると、知った夜の話です。急に自分が何者なのか分からなくなった、十歳の春でした。
「被差別部落ってなんやろう」
「私は、被差別部落民だった」
その夜は眠れませんでした。
「私はいったい何者なんやろう」
私はパソコンで被差別部落、同和地区について調べて見ました。とても小さな字、複雑な漢字。そして難しい言葉で、長々と書いてありました。
「こんなん、分からん」
そう、思いましたが、数行だけ、なんとか理解できる所が有りました。
― 被差別部落とは、身分・職業・居住が固定された前近代に、穢多・非人などと呼称された、あらゆる被差別民の居住集落に歴史的根拠と関連をもつ現在の被差別地域である ー
「えた(えった)、ひにん」
これが私たちの本当の呼び名なんや。これなら何となくわかる気がします。私は、えた、ひにんについて勉強するようになりました。えた、ひにんが士農工商の商のさらに下の身分だと言う事は分かりました。士農工商なら分かります。同和地区の意味も徐々に解ってきました。私は、学校の図書室に通い詰め本を読みました。
「私は生きていて恥ずかしいことは、何もないはずや」
はっきりとそう思いました。その一方で、私は自分が被差別部落民である事を、新しくできた友達には隠すようになりました。大きな矛盾でした。どっちの私も私なのです。でも、隠せるものなら、隠した方が良かったのです。まるで、汚い物を見るような目で見られるのが、怖かったのだと思います。
私は小さな石をそっと静かに積み上げるように嘘を重ねて生きていく人生を十歳で選びました。それは、両親に対して申し訳なく心が痛むことでした。
「お父さん、お母さん、ごめんなさい」
両親に悪い事をしている気持ちになりました。私は普段、被差別部落民として生活をし一歩街をでると、
「被差別部落? それってなんのこと? 」
すました顔をして暮らしていました。時々、友達との会話の中でその話がでると。
「被差別部落? ああ、学校で習ったよね」
等と答えていました。カモフラージュの為に、自分から話を振る事もありました。私には隣の他県に友達がいて時々遊びに行った時などに
「この辺って被差別部落が多い地域なんでしょ? ものすごく、柄が悪いし怖従兄弟ろだって聞いたけど、ほんまの話? 」
私が言うと、友達に、
「未来、このあたりで、その話は禁句よ! もう、未来は世間知らずなんやから」
私は叱られました。
「よし、まだ、ばれていない」
なんとか、うまく、いっていました。私は生きる為に、世間を欺いていました。
そんな時、問題が起きてしまったのです。それは、私が住む市の話ではなく、隣の市の同和地区で起きました。被差別部落民以外の女性が間違って、自転車でその地区に入り込んでしまったのです。もちろん、悪気なんかありません。ただ、道に迷い戸惑っていたようです。気が付くと何故か女性の乗った自転車は、数台の小型バイクに乗った少年達に追いかけられ、追いつかれ囲まれていたそうです。その上、石を投げつけられ、
「よそ者は、俺らの土地を通るな! 」
「はよ、出て行けや! 」
街から出るまで、追いかけまわされたと言うのです。私が住む市では、
「間違って入って来た、よそ者を追いかける」
「出ていくまで追いかけ回して攻撃する」
こう言う事はありませんでしたが、その話を聞いて、関係のない私まで落ち込んでしまいました。
「被差別部落は皆、同じだと聞いた人は思うだろう」
そういう噂が人の口から口に伝えられて行くことで、被差別部落全体の印象が悪くなり、もっと、部落差別が酷くなる、そう思ったからです。大きくなるにつれて交友関係も広がりました。私も電車に乗り、友人と繁華街にでて洋服を買ったり映画を観たり遊び歩く年頃になりました。帰りは電車に乗って帰るのですが、最寄り駅から家まで歩いて帰る途中で、私は「おかしい」と感じるようになりました。
「あれ。何か変な感じだな」
そう、思ってしまったのです。自分が生まれ育った同和地区に入った途端に、見慣れた筈の街全体が、薄暗く見えたのです。街の色は、お香典袋に書かれている文字と同じ色。薄い墨の色に見えました。
「薄暗い」
自分が生まれて育った街なのに、
― ワタシハ、ハヤク、ココカラデテイキタイ ー
咄嗟にそう思いました。そして、そう思った自分に愕然としました。私の中で何かが変わり始めていたのかも知れません。時々、思う事があります。東日本では、学校の授業で部落問題を扱わないらしいのです。
「なんで、西日本。特に関西では、あえて、教えるんだろう」
自分が被差別部落民である事を知りたくなかった。それが私の本音でした。ずっと、考えていました。
なぜ、何も知らない私たちに授業で学ばせ「寝た子を起こす」ような真似をするのか? 納得がいきませんでした。その時は、知らない方が幸せ、と言う事が世の中には沢山あると私は思っていたのです。
実際、自分が被差別部落民だとは授業で習うまで知らなかった、と言う友達は多かったです。
「聞いたんだけど、未来ちゃんって部落の子なんやってね。なんで今まで黙ってたん? 嘘つき! 泥棒のはじまりや! 泥棒! 」
「嘘はついてないよ! 」
「黙ってたなんて、今まで私のことを騙してたんと同んなじやん。裏切者。もう、話掛けんとって! ママに怒られたくないから! 」
頭を殴られた気になりました。
「未来ちゃんのことで、ママに怒られたくないもん。嘘つきとはもう遊べない。ママが部落の子とは絶対に遊んだらダメって言っていたから。ばれたくない! 」
大好きな友達に言われると辛いです。
「部落の何があかんの? 」
そういう私に、友達は言いました。
「あかんって決まってるやん。それに、部落の人は手癖が悪いし、怖いから、関わり合いになったらあかんって、うちのママが言っていたもん。だって、部落の人たちって何かあったら一族総出で殴り込みに行くんでしょ? 」
「そんな事ないよ」
「あるよ。ママが言ってた。そんな子と友達にはなれないもん。それに一緒に遊んでると同じに見られるでしょ? 私、未来ちゃんなんかと一緒に見られたくないもん」
昨日まで、仲良くしてくれていた友達の言葉です。
「これが、世間なんだ」
昨日まで、仲良く遊んでいたのに。心が氷つきました。世間を知った私は十一歳でした。遅いのか早いのかは分かりません。部落、部落とはやし立てられ不登校になる子もいました。それでも、授業に組み込まれているのです。私は子ども心に
「部落について一切、学校では教えない」
この考え方で差別をなくそうとすることは違う! そう、思っていました。この事は大人になった今でもよく考えます。
「教えた方がいいのか」
「教えずに通り過ぎた方がいいのか」
私は、やはり教えた方がいいと思います。個人の考え方ですが。
「寝た子を起こさずに、そっとしておけば、部落差別はいつの間にか自然になくなるのではないか? 」
「知らなかった人に、あなたは部落民ですよ、と。わざわざ知らせる必要はないのではないか? 」
これも一つの意見です。でも、現実に何も知らないせいで、差別をかえって煽ってしまうことがあるのです。
「一番大切なのは、教育や」
子どもだった私はそう思いました。正しいか、間違っていたかもわかりません。はっきりした答えは闇の中でした。私は被差別部落の抱える問題を、まだ本当に分かっていなかったと思うのです。今の時代、インターネットが有ります。今はインターネット上での被差別部落に対する、ことばのやり取り、インターネット上の、ことばだけのコミュニケーションが、現実社会にまで及び、大きな影響力を及ぼしている状況でもあります。悪意に満ちた情報が、歯止めなく氾濫しています。止めようがないのだと思います。インターネット上では被差別部落のマイナスイメージを激しく助長する表現は決して珍しいものではありません。インターネット上でのことばによるコミュニケーションが現実社会にまで影響力を及ぼしている今の状況下で、私たちは被差別部落民として、同和地区で生活しているのです。様々な資料や本を読んでいると、問題があまりにも古く深く難し過ぎて、
「差別をなくすなんて、絶対、無理」
匙を投げたくなります。突き詰めて考えれば考えるほど、そう思ってしまうのです。
「日本は本気で差別をなくする気がないんじゃないか」
そう、不満に思うこともありました。その一つに、被差別部落民に対する優遇措置の内容が手厚すぎると言うことがあります。中には、子どもの小学校の入学時にランドセルを支給してくれる自治体まであるのですから。美味しい特権に決まっています。必要以上の優遇措置、家賃補助、就職の被差別部落枠、その他、様々な免除。もう、頭のてっぺんから足の先まで、ぬるま湯に浸かっているようなものです。差別をされる側には、差別されているんだから、その分優遇措置を受けるのが当たり前、思考回路があるのです。
私は考えます。被差別部落の私たちにも、問題があるのではないかと。被差別部落の出身であることを利用して、美味しい思いをしている人たちが実際います。部落解放運動を商売にしている人がいるのも事実です。被差別部落民である事を盾に取り、うまい汁を吸って生きている人がいるのです。不正受給者もいます。
私はいつも疑問に思うのです。優遇措置に何も疑問に思わず浸っている。やってもらって当たり前だと思っている。こういう大人たちがいなくならない限り、被差別部落の問題は、なくならないと思います。
はっきりしている事が有ります。要は教育であり学習なのです。
「部落問題なんて知りたくもない」
自分に都合の悪い現状から目をそむけていては、根本的な解決には繋がらない。そう、思うようになりました。目の前の現実の問題を社会全体で見つめた上で、理解をし、差別をなくすための言動を、個人個人とること。それも一つの方法ではないかと思うのです。
例えばえせ同和行為、が有ります。えせ同和行為とは、同和問題は怖い、関わりたくないという人々の意識を利用し、同和問題を口にして、不当な利益を要求したり、義務のないことを求める行為です。同和問題に正しい理解と知識を持たないまま、えせ同和行為に会うと、同和問題に関する誤ったイメージが拡大してしまうことに繋がり、これまで、努力してきた行政や人権団体、民間企業がしてきた教育や啓発が無駄になります。こうした行為は、容認することはできません。真の被差別部落に対する差別をなくす為には正しい理解と知識を広めていく事が大切なのです。
話は大きくそれますが、友人のお父さんは被差別部落の近くの道を通って、勤務先まで通勤していました。ある時、お父さんの乗っていたバイクが被差別部落の中年女性の乗っていた自転車に接触した事が有りました。自転車とバイクですから、どうしてもバイクが悪い、と言う事になってしまいます。これは仕方がありません。友人のお父さんは女性が転んでけがをした治療費を支払い、新しい自転車を買って弁償し、やるべき事はやっているように見えました。でも、この事故の後処理は大変でした。足が痛い、腰が痛いと長期にわたり治療費を請求され、父が弁償の為に買った自転車も、
「気にいらない、私は白い自転車が欲しいんです。それに、中古の自転車ではなく、新車にして下さい。私が自転車を買いにいくので、代金だけ払って下さい。後でレシートを渡しますから」と言って、その店で一番高い自転車を注文されていました。こういう事があり得るのです。
「これは当人同士では解決は出来へん」
思った友人のお父さんは弁護士を雇い、ようやく解決することが出来ました。
「だから、被差別部落の住民はと言われるんや」
話を聞いて高校生だった私は感じました。差別から差別は生まれるのです。冷めた高校生だった私は、より、冷たい眼で自分の住む同和地区、被差別部落を見るようになりました。自分も被差別部落民なのに。
私は一人の被差別部落民です。なにかあると、これやから、被差別部落民は、と言われてしまう被差別部落民なのです。