第10話 初めての災害派遣(鬼怒川決壊)| Saito Daichi
連隊本部に連絡員として派遣され、巨大なスクリーンに表示される東部方面隊の動きをメモしました。
検閲帰りということもあり、年数の浅い隊員は先発で誰も行っていませんでした。
国民が苦しんでいるのに助けられないのは、歯がゆかったです。
訓練幹部に「行かせて欲しい」と何人かで詰め寄りましたが、あまりにしつこいので邪険にされました。
先発隊が帰隊したので、整備工場に水没した小型車両の車載無線機を回収しに行きました。
ドアを開けた瞬間、潮の香りが一気に鼻腔をくすぐった記憶があります。
「膝の上まで入ってきたから後退した」と訊いて、何とも言えない気持ちになりました。
そして、災害派遣に出発します。
入隊して初めて「自衛官になった意味があったんだ」と思いました。
霞ヶ浦駐屯地の体育館に拠点を設け、そこから数日間、行方不明者捜索に従事しました。
主な復興活動には学校の復旧も含まれており、巨大な倒木をブルシートで運びました。
「どうして電柱は直してうちは直してくれないんですか?」と言われ、車列が進まなくなった時もありました。
対面、非対面問わず誹謗中傷にも慣れましたが、大震災から他人に期待しなくなってしまいました。
長靴と作業用のオーバーオールを着て、田んぼに長い園芸棒を突き立てながら横一列で進みます。
そうした活動は「死体」や「遺体」という単語は使えないので、「行方不明者検索」という言葉を使います。
警察では、身元の分かるもの「遺体」、分からないものを「死体」と使い分けます。
「行方不明者」を園芸棒で刺すと「ぐじゅ」っとなるので、それで横一列になって検索するのです。
移動間、水門付近の建造物を見ると、巨大な定規で横に線を引いたような痕が見受けられます。
二階付近まで喫水線が来たという証です。
後輩が入ってくる前に、連隊検閲と災害派遣も経験してしまいました。
帰隊後、何とも言えない気持ちになり、土日を利用して実家に帰省することにしました。
年末年始は営内残留が確定していたからという理由もあります。
海外にもう一度行かせてもらえそうなので、日頃の休日や連休は積極的につくことにしていました。
特急が出ているので、早く帰りたい時はいつもそれに乗っていました。
「ドン!」という音と共に急ブレーキで車両が停止しました
前の座席にぶつかりそうになった記憶があります。
「安全確認のため、しばらくお待ち下さい」というアナウンスが流れてから、40分以上経過しようとしていました。
30分を超えたらさすがに一旦出ようと考えていたので、先頭車両が見える位置まで歩きます。
事故ならその痕跡が残っていると思ったからです。
その時から、頭の片隅で嫌な予測も立てていました。
案の定、先頭車両のガラスにはヒビが入り、ブルーシートを持った消防や救急、警察や鉄道職員が作業していた。
多分、ホームと電車の間から、最初は引っ張り出そうと思ったのかも知れません。
ただ、そんな隙間はありませんでした。
ブルーシートをあまりにも一生懸命、隙間から出そうとしているので、手伝おうと思ってシートに近付き、引っ張ろうかなと一瞬考えました。
一人では無理そうなので、手伝ってくれそうな人がいないか振り返ります。
周囲の人間は、一斉にその場から引いていました。
その瞬間、何となく理解できました。
被災や災害派遣で死をリアルに経験していなければ、興味本位で近付き、しかしリアルに迫ると死から目を背ける――
そういった人間になっていたかもしれません。
悪い事ではありません。
ただ、自分の行動が公務員側になっていたと、改めて感じただけです。
結局、「行方不明者」は車両を迂回し、シートを張って周囲に見えないように消防職員の人達が階段で運んで行きました。
だんごになって運んでいたので、肉片がバラバラにならず、ある程度固まっていたのだと思います。
柩に入った人を運ぶ時も、頭側が重くなるので、そういう意味で力の抜けた人を運ぶのは大変です。
様々な経験を通し、死が何となくイメージできました。
驚くのではなく「どうやって運ぶか」、「息があったら回復体位にするか」、「心臓マッサージ、人工呼吸、AED」という発想になりました。
その後は、確か鈍行の車両で帰った気がします