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「A級戦犯」東郷茂徳元外相は朝鮮陶工の子孫──「戦争犯罪者」の烙印を押して顧みない韓国政府(「神社新報」平成17年2月)

(画像は元外相東郷茂徳記念館。日置市HPから拝借しました。ありがとうございます)


 小泉首相と盧武鉉(ノムヒョン)韓国大統領との首脳会談が昨年十二月、鹿児島県指宿(いぶすき)市で開かれた。自由貿易協定交渉の促進、日韓国交正常化四十周年の今年を「日韓友情年」と位置づける交流計画、北朝鮮問題などが話し合はれたと伝へられる。

 翌日、大統領は同県東市来町美山(苗代川)に薩摩焼の十四代宗家、韓国名誉総領事の沈寿官氏を訪ねた。

 緑の中に低い石垣と瓦を連ねた民家が並ぶ集落は、秀吉の時代、「茶碗戦争」といはれる文禄・慶長の役で島津勢の捕虜となり、日本に連れてこられた陶工たちが住み着いた歴史的土地柄で、沈氏はその子孫である。

 一昨年、ソウルでの大統領就任式に駆けつけた沈氏に、大統領は「大変だったな」と声をかけた。薩摩焼の里での再会では、異国の地で独自の発展を遂げた陶磁器の美しさに驚嘆し、「我々の誇り」と賞賛したといふ。

▽ 檀君を祀る神社


 沈氏によると、宝石や玉を産しない日本では、室町以後、陶磁を頂点とする美の体系が組み上げられた。

 折しも朝鮮に出兵した武将たちは、李朝の陶磁の見たこともない美しさに目を奪はれた。陶工たちが日本に連行されることを余儀なくされた理由はここにある。

 時代が変はり、日朝の和平が成立して、陶工たちの帰国が約束されたが、帰還者は集まらなかった。囚はれの身のはずが、名字帯刀までも許され、保護されてゐたからだ。故郷への思ひがなかったはずはないが、儒教社会の朝鮮に帰れば、工人といふ最下層の身分に戻される。帰りやうがなかった。

 苗代川にとどまった陶工たちは、丘の上に檀君を祀る神社を建て、はるか沖合に浮かぶ甑島の島影に望郷の心を慰めた。

玉山神社(鹿児島県神社庁HPから)


「♪寝ても覚めても、神がどうして忘れられやう」

 秋祭りには故国の礼服を着て、歌ひ、舞ひ踊った。現在は神社本庁傘下の玉山神社(玉山宮)を、藩は庇護した。

 境内の大灯籠に、寄進者の名前が「朴寿勝」と刻まれてゐる。

 明治初期の陶芸家で敬神家。大東亜戦争開戦および終戦時の外相を務め、その後、二十八人の「A級戦犯」の一人として訴追され、東京裁判で禁固二十年の刑を受けて獄死した東郷茂彦元外相の父である。

 長男茂徳氏は明治十五年、苗代川に生まれた。

 東郷姓に変はるのは五歳の時。明治維新で藩の保護を失った上に、平民に編入されることになった朴家は、新時代を生き抜くため士族株を購入したのだ。

 明治天皇崩御の年、外交官試験合格。郷里では全村民を招待しての宴が一週間続いた。初任地は満洲の奉天。まもなく第一次大戦が始まる。やがて満洲の権益をめぐる日中間の溝が深まっていった。

 妻はベルリン在任中に知り合った独人エディータ。一人娘いせは夫婦で参宮したころに授かったことから命名されたといふ。

 ワシントンの日本大使館主席書記官時代、日本人移民排斥問題で日米関係は大きく緊張してゐた。盧溝橋事件の年に駐独大使。ナチスの絶頂期だった。信条的に相容れぬ東郷はベルリンを追はれた。次の任地はモスクワ。日独防共協定成立以後、日ソ関係は最悪の状況で、つひにはノモンハンで武力衝突する。

 外相としての初入閣のとき、玉山神社では健康と奮闘を祈る祈願祭が行はれ、境内は参列者であふれた。日米開戦への道を回避するために心血を注ぎ、非戦に努力することを約束しての入閣だった。あへて火中の栗を拾ったのだが、日米交渉が行き詰まり、戦争が始まる。

 大東亜省設置に反対して辞任。野に下ったとき、娘いせが結婚。相手の親戚筋の祖先は朝鮮に出兵した武将だった。歴史の妙である。

▽ 生家に建つ頌徳碑


 東京裁判でも戦ひは続いた。

 東郷氏は問ひかける。「日本が戦争を企てたと捉へるのは皮相な見方だ。戦争責任が侵略戦争の開始にあるのなら、日本だけが責任を問はれるべきだらうか」。

 なぜ日米は開戦したのか。日本は世界でもっとも海外依存度が高い。自由に利用できる資源を求めて大陸や南方に進出したのが戦争の原因だ。日米戦争は中国の資源と市場をめぐる争奪戦である。

 日米交渉はなぜ失敗したのか。米政府は日本の暗号電報をすべて傍受解読してゐた。ところが致命的な誤訳があった。日華事変解決のための最重要提案とされてゐた甲案は、英語訳のミスのため、不誠実な日本が米国を誤魔化すために交渉を続けてゐるといふ印象を与へてゐた。交渉決裂は当然だった。

 弁護側は正確な英訳を証拠として提出、受理されたが、判決は一顧だにせず、誤訳の電文をそのまま掲載した。

 全体的共同謀議と侵略戦争遂行の責任を問はれ、禁固二十年が宣告された。弁護に渾身の努力を傾けた米人ブレイクニーは判決後、決定の放棄を訴へたが、マッカーサーは却下した。

 獄中で歌作が始まる。その一首──。

あまそそる高千穂の峯は雄々しくも遠つ昔の姿なりけり

 かつては玉山神社から高千穂の峰が見えたといふ。

 もう一首──。

すめろぎに凡てを捧げまつらむと定めし心今も揺るがず

 獄死のあと、服役中のA級戦犯十五人は「ラジオで訃報を聞き、驚きました。御愁傷に察し申し上げます」との手紙を遺族に書き送った。葬儀は神式だった。

 生家の庭に建つ頌徳碑は、終戦時の内閣書記官長・迫水久常の筆になる。裏面の経歴は「終戦工作の主役を演じ、大業を完成し、国家と国民を救った」と結ばれてゐる。

 昨年暮れの日韓首脳会談後の記者会見で歴史問題についての質問が出たとき、盧大統領は「歴史を学ぶのは正しい理解のため」と答へた。だが、日韓の歴史を学ぶ良き教材であるはずの玉山神社にも、東郷氏の生家にも、足を向けることはなかった。(参考文献=萩原延壽『東郷茂徳』、東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』など)

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