「皇太子を望まれなかった」? 皇太弟は何をお悩みなのか、『帝室制度史』から読み解く(令和2年11月23日。新嘗の祭りの日に)
新型コロナの影響で延期されていた「立皇嗣の礼」が今月8日、挙行された。次の皇位継承者が名実ともに確定される国家的慶事であるが、まさにその当日、あたかも冷水を浴びせるかのようなコメント記事が朝日新聞に掲載された。なんと皇太弟ご本人が「皇太子を望んでいない」というのだから穏やかではない。
コメントを寄せたのは、女性天皇・女系継承容認派として知られる御厨貴・東大名誉教授、御公務御負担軽減に関する有識者会議の元座長代理である。
御厨氏によれば、「今回の立皇嗣の礼は異例」だという。「これまで立太子の礼は、次の天皇を可視化させる儀式だったが、今回は違う」「秋篠宮さまは天皇陛下の弟で同世代なので、次の天皇という確定的な見方はできない」と仰せで、さらに以下のような爆弾発言も飛び出した。
「(有識者会議の)途中で政府高官から、秋篠宮さま自身が『皇太子の称号を望んでおらず、秋篠宮家の名前も残したい意向だ』という趣旨の説明があり、皇位継承順位第1位の皇族であることを示す『皇嗣』という称号に落ち着いた。秋篠宮さまの真意は今も分からない」
つまり、殿下の立皇嗣の礼は次の皇位継承者を名実ともに確定させるものではないということになる。気の早い人たち、とくに女系継承の望みを捨てていない方たちは当然、浮き足立つことになる。
しかし、皇嗣は皇太子ではないという理屈は成り立たないのではないか。少し文献を紐解けば一目瞭然だと思う。むしろ私は、弟宮への継承を阻もうとする女系派の印象操作を疑う。
▽1 御厨東大名誉教授は『帝室制度史』をご存じない?
第一に、前にも書いたように、皇太子と皇嗣が違うなどということはない。
『帝室制度史』(帝国学士院編纂、昭和12-20年)は、全6巻すべてが「第1編 天皇」に当てられ、「第2章 皇位継承」の「第四節」は「皇太子」ではなくて「皇嗣」とされている。本文には以下のように書かれてある。
「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす」
「皇嗣の冊立ありたるときは、その皇嗣が皇子または皇孫なると、皇兄弟またはその他の皇親なるとを問はず、これを皇太子と称す」
つまり、歴史上、皇嗣=皇太子であり、皇太弟も皇太子なのであって、御厨氏の言うような理屈は成り立たない。御厨氏はむしろ政府高官に『帝室制度史』を示し、意味がないと諭すべきではなかったか。
『帝室制度史』はまた、反正天皇以来、「皇兄弟の皇位を継承したまへるもの、合はせて24例に達せり」(第3巻)、「時としては、皇弟を立てて皇嗣としたまふ場合に、とくに皇太弟と称したまへる例あり」(第4巻)と述べている。
さらに『帝室制度史』は驚くべきことに、一款を立てて「皇嗣の改替」にまで言及し、さまざまな理由から「ひとたび皇嗣冊立のことありて後も…遂に皇位に即きたまふに至らざりしこと、その例少なしとせず」と記述している。
皇太子ではなく皇嗣だから、次の天皇に確定したわけではないという論理は成り立たないことが理解される。御厨氏は『帝室制度史』をご存知ないのだろうか。
▽2 明治の皇室典範制定による「重要な変革」
朝日新聞の報道を狼煙の合図に、案の定、女性天皇、女系継承容認派が蠢き出したらしい。その1人が皇室研究家の高森明勅氏である。あまり他人の文句は言いたくないが、あえて書くことにする。
高森氏は、デイリー新潮の記事のコメントでは、「皇嗣は、現時点で皇位継承順位が第1位であることを意味する。従って、立皇嗣の礼は、次の天皇を確定する場ではない」とはっきり断言している。
しかし既述したように、少なくとも『帝室制度史』は、皇嗣は皇太子にあらず、などとは書いていない。皇室研究家として著名な高森氏がまさか『帝室制度史』を知らないはずはない。デイリー新潮の記事の誤りかとも思ったが、自身のブログにも同様に書いてある。
とすると、皇嗣は皇太子にあらずとする根拠がほかにあるのだろうか。立皇嗣の礼は天皇の名で、国の行事として行われ、そのことは賢所大前にも奉告されたが、神ならぬ人間がこれを否定し、暫定的だと断定する根拠はどこにあるのか。
御厨氏は「殿下が皇太子の呼称を固辞された」とも語っているが、そうだとして、殿下は何をお悩みなのか。ふたたび『帝室制度史』をめくってみると、興味深い記述があることに気づかされる。
『帝室制度史』は近代以降、皇室典範の制定で、「皇嗣の冊立」が4つの点で、「重要な変革」を遂げたと指摘している。すなわち、以下の4点である。
1、皇嗣は冊立ではなくて、法によって一定に定まることとなった。皇太子不在の場合は儲嗣たる皇孫を皇太孫とすることと規定された。
2、旧制では皇嗣冊立ののち皇太子の称号が授けられたが、新制では儲嗣たる皇子は生まれながらにして皇太子と称されることとなった。
ここまでは容易に理解される。注目すべきなのは、このあとである。
3、旧制では皇太子の称号は必ずしも皇子に限らなかった。しかし新制では皇太子の称号は儲嗣たる皇子に限られる。儲嗣たる皇孫の場合は皇太孫と称される。皇兄弟その他の場合は特別の名称を用いない。
4、旧制では立太子の儀によって皇嗣の身分が定められた。しかし、新制では立太子礼は皇嗣の身分にあることを天下に宣示し、祖宗に奉告する儀礼である。傍系の皇族が皇嗣にあるときはこの儀礼は行われない。
▽3 『帝室制度史』の中身を熟知するがゆえに?
少なくとも御厨氏が『帝室制度史』を知らないだろうことは想像にかたくない。日本国憲法を唯一の根拠とする非宗教的な象徴天皇論者には、126代で紡がれてきた皇位継承の歴史など関心がないからである。知る必要がないからである。
しかし、ご本人に確認することは不可能だが、殿下は『帝室制度史』の存在をすでにご存知で、内容を十分に把握しておられるのではないかと私は拝察する。
殿下は「次男坊」としてお生まれになり、青年期までは「気楽な弟君」として過ごしてこられたのだろう。しかし兄君はご結婚も遅く、皇子は生まれなかった。よもやご自身が次の皇位継承者になるとは予想もしなかったのではないか。青天の霹靂である。
次の世代の皇位継承者がいないとの危機感に後押しされて、殿下は高齢を押して男子をもうけられたが、そのことは傍系への皇位継承を一段と推し進めることとなった。兄君との仲も詮索されることとなり、さぞやおツラい胸中であろう。
『帝室制度史』には、皇太子の称号は皇子に限られ、皇兄弟には特別の名称を用いない。傍系の皇嗣は立太子礼は行わない、と記される。殿下の「固辞」の理由はここにあるのではないか。
問題は、殿下の真意を捻じ曲げ、我田引水的に利用しようとする女性天皇・女系継承容認論者の存在なのであろう。もともとが現実主義の固まりだろうから、陛下が、そして殿下が皇祖神の大前で祈りを捧げたことの重みなど、一顧だにしないに違いない。
さて今日は、殿下にははじめて、神嘉殿の殿内で新嘗祭を奉仕される。これまでは幄舎での御拝礼のみだった。皇室第一の重儀を、兄君のおそば近くでお務めになることは、御感慨も一入かと拝察される。
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