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「靖国神社」賀茂百樹宮司の「道」──戦争を防止するのが「惟神の武」(「神社新報」平成10年1月12日号から)
国民の多くが「南京陥落」に湧いていた昭和13年春、大阪朝日新聞は陸海軍省の後援で、阪急西宮球場と外園を会場に、「支那事変聖戦博覧会」を開催した。来観者は145万人に上ったという。
朝日新聞の縮刷版によると、4月1日の開会式に先立って、モーニングや軍服姿の100名の名士が外園の杉木立のなかに謹設された、靖国神社遥拝所の修祓式に臨んだ。
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開会式後の祝賀野宴で朝日新聞の村山会長は、
「聖戦博を貫く精神は一に靖国の社頭に額ずく精神にある」と挨拶した。
当時の大新聞は必ずしも言論弾圧の結果とはいえない積極さで戦争政策に協力したことが指摘されている(江口圭一『日本帝国主義史論』)が、一方、「軍国主義」の片棒を担いだかのように一般には考えられている神社人は、この時代、逆に、きわめて冷静に時代を見つめていた。
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◇病床で口述
「聖戦博」の靖国神社遥拝所修祓式の神事を奉仕したのは、同社第3代宮司・賀茂百樹である。
賀茂は明治42年に宮司に就任し、「聖戦博」開会式の数週間後に老齢で引退するまで、じつに30年もの間、その職にあった。
存命中は多くの書を著したが、戦争を煽り立てるような文章は見当たらない。鼓舞したのは神道的精神であって、戦意ではない。
9年末に著された「私の安心立命」という冊子が残されている。前年とその年、賀茂は2度、脳溢血で倒れた。再度の大患を家族が嘆くと、賀茂はこう語った。
「これ生きたる人の行程なり。われ知り得たるカムナガラの道を語り聞かせん」
「道を語るばかり楽しきものは無い。道高くして、ますます安く、勢い高くして、必ず危うしといえり。高遠なる道を語るはとくに心うれしきものである」
こうして病床で口述されたのがこの一篇だという。
賀茂は語る。
──日本人は非常時局という国患を前に迷い憂えているのではないか。宗教復興、教育改善、政党解消、囂々(ごうごう)たるありさまだ。これは日本人としての安心立命がないためで、戦の前に箭(や)を削(は)ぐことを語っているのではないか。
──軍人は神ナガラの道の真剣の実行者である。カムナガラの武は智仁勇の三徳を教えとし、三徳を全備することを期する神武である。カムナガラの武備は戦争のための武備ではない。戦争を未発に防止し、平和を保障するのが最上である。国を取るとか、資材権利を獲得するためではない。
16年5月に賀茂は75歳でこの世を去るのだが、死の翌年に刊行された『神祇解答宝典』の巻末には、次のような文章が載っている。
12年に支那事変が勃発すると、賀茂は時局を深く探った。敬神思想の善導を怠ってはならない。敬神崇祖の思想を普及させ、神社中心の施策を講ずることが緊要である。それで『宝典』の出版が企画された、というのである。
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◇神職の道
『宝典』には遺構となった「神職道」心得書が「附録」として添付されている。
「神職の道は、惟神(かんながら)の道に従いて神に奉仕し、人を和するにあり。神に対しては民衆に代わりて日夕奉仕し諄辞を奏上し、民衆に対しては神の表現者を致して神命を伝うるにその身を以てす」
「神職は堅実なる信念を持って体とす」
「神職の術は、祓禊と鎮魂にあり」
「神職の仁、美化にあり」
「神職の礼は真にあり」
「神職の心は明清に存す」
「神職の大本は忠に止まる」
「神職の言、真のみ」
「神職の行、正の一字のみ」
誠の心、真の言は生死の境にそのまま現れる、とは賀茂の言葉だが、最晩年の一神職の命と信仰のほとばしりは、名言・箴言といわずしてなんであろう。
賀茂は戦時体制下、靖国神社の祭祀が軍人祭祀に引きずられていくのを深く憂えていたとも伝え聞く。
今日、たとえば「法の番人」たちは、「津地鎮祭訴訟」「愛媛玉串料訴訟」で、「明治維新以降、国家と神道が密接に結びつき……種々の弊害を生じた」という判決文を書き続けている。「社会の木鐸」を自認するメディアもまた同様だが、歴史の事実はけっしてそうではないことを、賀茂の言葉が示している。