コメ援助、バングラに実り──貧しさと豊かさを思う(「日本経済新聞」平成6年4月5日)
平成6(1994)年2月、私は全国の神社の宮司さんたち13人といっしょに、南アジアのバングラデシュという国を訪れた。
今上天皇の御即位を記念して、神社界の有志が集まり、「アジアに米を」実行委員会という臨時の援助組織が結成され、バングラの孤児院に日本の米を送る活動が始まったのは、平成3年3月のことである。天皇の即位の儀式である大嘗祭が基本的に稲の祭りであることにかんがみ、全国の農家から各神社に奉納されるお米や神前に捧げられる神饌(しんせん)米による援助活動を展開しようと計画したのである。
わずか3年間の活動ではあったが、8カ所の孤児院に直接、送り届けたほか、井戸を掘ったり、稲作農家に農業機械やヤギをプレゼントしたり、あるいはマングローブの植林に参加したりした。
平成6年のバングラ訪問はささやかな活動の成果を視察するとともに、現地の人たちと交流することが目的で、実行委員会の事務局をあずかっていた私にとっては8回目の渡航であった。
▽1 黄金のベンガル
バングラは日本と同じ稲作の国だが、3度の食事も満足にとれない人が星の数ほどいる。「世界最貧国」といわれるこの国から、ちょうどそのころ繰り広げられていた「平成の米騒動」を眺めたとき、思わずため息が漏れそうになることがしばしばであった。国情があまりにも違いすぎるからである。
日本には「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」という古典的な呼び名があるが、この国には「黄金のベンガル(ショナル・バングラ)」という美称がある。収穫期に訪れると、一面に広がる水田がまさに黄金色に輝いて壮観である。この国の国歌は、アジアで最初のノーベル文学賞受賞者として知られるベンガルの詩聖タゴールが作詞作曲した歌で、この「黄金のベンガル」を心から称える賛歌である。
バングラはアウス、アマン、ボロの3毛作が可能で、91年には日本の約3倍に当たる2860万トンの米が生産されたという。しかしどこでも3毛作が可能なわけではない。93年8月に神職志望の学生たちとバングラを訪れたときは雨期のまっただ中で、ブラーマンバリア県は広大な水田地帯が完全に水没し、まるで湖のようになっていた、ここでは「半年間は稲作ができない」という。
「大自然の恵みはアラーの神が与えてくれるのだから、人間がいたずらに策を弄してはならない」というような宗教的な発想からか、農業技術は未熟で粗放的である。反収はせいぜい日本の半分にとどまる。
コミラ県では東パキスタン時代から政府の手で大規模な灌漑化が進められ、乾期のボロ稲生産が可能になったが、貧しい農民がみずから灌漑設備を整備することは不可能に近い。
果てしなく広がる水田もひとにぎりの地主が所有し、農家の半数以上は所有面積が0.5エーカー(約2反歩)以下の零細農家、もしくは土地なし農民である。小作農は9割もの小作料を地主から求められるというケースもあり、土地なし農民の多くは農閑期には失業状態にあると聞いた。
92年、93年と2年続きの豊作に恵まれ、完全自給を達成したばかりか、「5万トンの米を輸出するまでになった」という情報も伝えられたが、これは比較的天候に恵まれた結果であり、悲願の独立から20年、この国は毎年200万トンもの米を海外からの援助と輸入に依存してきた。「絶対的貧困ライン」を下回る人は国民の2、3割にものぼるというのだから、気が遠くなる。
▽2 チョコリア・ションドルボン
私がはじめてこの国を訪れたのは、1991年5月、巨大サイクロンの襲来で「死者13万人以上」という記録的な被害を受けた直後であった。
被災から10日後のチッタゴンはゴーストタウンのように生気を失っていた。
被災地の中心コックスバザール県チョコリア郡は、当時、水田とエビの養殖場が地平線と水平線の彼方まで広がっていた。1971年の独立後、日本の資本などが導入されて本格化した養殖は貴重な外貨を稼ぎ出したが、反面、「チョコリア・ションドルボン(美しい森)」と呼ばれた広大なマングローブ林は乱伐と新田開発、養殖場建設のため、わずかな歳月ですっかり消滅した。天然の防波堤を失ったチョコリアは、7メートルの高潮と強風の前にひとたまりもなかったという。
被災地から避難してきたという土地なし農民の家を訪ねた。わらぶきの家は縄文時代か弥生時代の竪穴式住居のようであった。内部は6畳一間ほどの土間で、屋根が低くて立ち上がることもできない。家財道具らしいものはなく、それでいて「親子9人で住んでいる」という説明に、涙が出た。
日本を代表する国際的NGO・財団法人オイスカがチョコリアで展開しているマングローブ植林の責任者イスラム・チョードリさんには、何度となく美味しいビリアニをご馳走になった。
香辛料をふんだんに用い、マトンや鶏肉などを炊き込んだご飯で、最高のもてなし料理である。この料理に使われる香り米は最高級の米で、1キロ24タカ(65円)する。日本米に比べれば10分の1程度の値段だが、この国の国民の大半を占める貧しい人々にはとても手が出ない。
この国の人々にとってご飯を腹一杯たらふく食べるというのが何にも勝る最大のぜいたくで、ダッカ郊外のオイスカ農業研修センターでは、若い研修生たちが洗面器一杯ほどのご飯に少しばかりのダールスープなどをかけて平らげていた。けれども、彼らも研修が終わって郷里に帰れば、そうもいかないらしい。
バングラの空の玄関、ダッカ空港に降り立つと、野次馬や物乞いの群れがまたたく間に集まってくる。「ボクシーシ(お恵みを)」と手を差しのべる子供は裸同然である。哀れを誘うような目でこちらを見つめ、手を口元に運んで食べ物がほしいという仕草をする母親の腕には、痩せた赤ん坊が抱かれている。
盲目の人や片腕の人、両足のない人もいるが、「この国では生まれたばかりのわが子の肉体に、親が人為的にハンディキャップを作り上げることもある」と聞いて、私は耳を疑った。「物乞いの子は一生、物乞いで生きていくしかない」というこの国の社会でのぎりぎりの選択なのだという。
人口500万人の首都ダッカには当時、数十万人のトカイ(浮浪児)がいるといわれていた。女性の社会的地位が低いために、夫と死別したり、離婚したりすると、子供たちはたちまちトカイになってしまうらしい。
▽3 明るい子どもたち
しかし彼らはじつに明るい。「ボクシーシ」といって近寄ってきた少女に、逆に「ボクシーシ」と手を差し出したら、彼女はニコニコしながらよれよれの1タカ紙幣(2.7円)を握らせてくれたものである。
フェリーの船着き場などでは、子供が乗船客を相手にコップ1杯の井戸水や野生のバナナなどを売って働いている。どの子供も目がキラキラ輝いてまぶしかった。
フェリーで売られていたバナナは寸胴型の野生種で、種が入っていたが、人工的に熟成させた日本のバナナよりはるかに味わい深かった。バングラの子供たちはこのバナナのような野生の強さを持っている。
ブラーマンバリアのイスラム系孤児院では、神社界の援助に刺激されたのか、子供たちによる稲作や野菜作りが始まった。以前、この孤児院では食事の回数が1日2回だったが、むしろ孤児院の子供たちは恵まれている。十分とはいえないが、衣食住、そして教育が与えられる彼らはこの国の選ばれたエリートなのであった。
一方、「経済大国」といわれる日本は「米騒動」のさなか、今日明日の食べ物に困るわけではないはずなのに、「米不足」の情報に国民はつい動揺してしまう。そんな私たちのことをバングラの子供たちが知ったら、どう思うだろう--と私は考え込んだものである。
追伸 この記事は平成6年4月5日づけ「日本経済新聞」の文化欄に掲載された拙文「コメ援助、バングラに実り」に若干の修正を加えたものです。
文中に登場するイスラム・チョウドリ氏は数年前、鬼籍の人となりました。マングローブの植林にでかけた日本の学生たちをダコイト(銃で武装した強盗)が襲うという事件があり、凶弾に倒れたのです。私にとっては、親族ぐるみでおつき合いいただいた、もっとも思い出深いバングラ人であり、心から冥福を祈らずにはいられません。
チョウドリ氏の死後、コックスバザールには10年の歳月をかけた幅100メートル、総延長60キロのマングローブ植林が完成しました。オイスカのプロジェクトとして進められ、郵政省の国際ボランティア貯金などの支援を受けて展開された植林計画ですが、最初のきっかけはこの記事に書かれている今上天皇御即位記念の孤児院支援でした。
当時、オイスカのバングラデシュ開発団長を務めていた岡村郁男氏が、私たちが資金提供した種籾10トンを被災地の農家に配っていたとき、「マングローブがあったときはこんな災害はなかった」という声を聞いて「それじゃあ、みんなで植えようよ」と村人たちに提案し、植林が始まったのでした。
ほんとうにささやかな援助が日本とバングラデシュの草の根の友好を象徴する大きな森に成長したことを、私は深い感慨をもって受け止めています。
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