「親日派」金玉均の朝鮮独立運動───歴史理解を歪める韓国人の日本蔑視(「神社新報」平成17年8月)
(画像は青山霊園内にある金玉均の墓)
日韓の歴史の溝がいっこうに埋まりません。
4年前(平成13年)、歴史教科書問題が沸騰しました。
そのことをきっかけに、両国首脳の合意に基づいて、正確な歴史事実の確定と認識を通じて日韓の相互理解を促進しようと、翌年14年春に日韓歴史共同研究委員会(事務局=日韓文化交流基金、日本側座長=三谷太一郎東大名誉教授)が発足しました。
両国の歴史研究者らによる3年間の活動が実を結び、17年6月に報告書の全文が公表されましたが、とくに近代史について、研究者の見解や主張が鋭く対立し、歴史の断絶感は縮まるどころかかえって尖鋭化しています。
どうしてこうも溝は埋まらないのでしょうか。その理由を、朝鮮近代史を彩る一人の歴史的人物を通して考えたいと思います。
▽1 安らぎの場を失う近代日本の恩人たち?
東京・青山霊園のほぼ中央に、129基の洋風の墓石や十字架が肩を寄せ合う外国人墓地があります。
近代日本の代表的なキリスト者である内村鑑三や新渡戸稲造に洗礼を授けたプロテスタント宣教師M・C・ハリス、切手や紙幣の印刷技術を指導したお雇い外国人E・キヨッソーネ、日英通商航海条約の改正草案を作成した駐日英国公使H・フレーザーなど、明治の日本を愛し、近代国家建設に寄与した恩人たちなどが眠っています。
歴史人物名鑑の趣さえあるこの外人墓地に、16年秋、白い「お知らせ」の看板があちこちに立てられました。管理者である東京都が、霊園再生計画に基づいて無縁墳墓の改葬に踏み切ったからです。
5年以上、管理費の納入がない墓地は「申し出がなければ無縁仏として改葬」される。対象は全体の6割に当たる78基。期限は翌年9月末日ですが、「いまのところ祭祀継承者からの照会はない」(都霊園課)というのです。
宣教師のように生涯独身なら「祭祀継承者」がいるはずもなく、宗教団体や学校、大使館などには墓地の継承は認められていません。都では「歴史的墓地空間として残す」可能性を模索中ですが、近代の先駆者たちの御霊(みたま)が安らぎの場を失いかけています。
▽2 日本の支援を期待。甲申事変に失敗し亡命
撤去が心配されるなかに金玉均(1851─94)のひときわ大きな自然石の墓があります。親日派の朝鮮独立運動家ですが、その波瀾万丈の生涯は今日、日本ではほとんど忘れられています。
金玉均が生きた李朝末期、朝鮮は対外的には中国・清の属国であり、国内的には国家崩壊の淵に立っていました。
当時の朝鮮は厳しい身分社会で、自分でキセルを持つことすらしない不労支配階級の両班が、驚いたことに、人口の過半数を占めていました。
四書五経を学んで悠々とし、社会に寄生するばかり。体を動かさないことが両班の両班たる所以で、それが国王所有の土地を預かり、農民を収奪し、常民の妻や娘、財産をいつでも奪うことができました。
官職は公然と売買され、両班は常民の犠牲のうえに増殖し、党派抗争にふけりました。
行政機能は麻痺し、百姓一揆が慢性化していました。
宮廷内部には国王・高宗の実父・興宣大院君と王妃・閔妃一族との骨肉の争いがあり、閔妃の策略で復古派の大院君が追放されたあと、朝鮮は1876(明治9)年、日朝修好条規締結によって開国したものの、実権を握る閔氏一派は清国に従属する事大主義に固執しました。王室の権威は地に墜ちていました。
欧米列強のアジア進出という国家存亡の危機に直面して、朝鮮は中国を中心とする華夷秩序を破壊し、東アジアの世界秩序を緊急に再構築する必要がありました。明治維新を成し遂げた日本と連携することによって、封建社会の改革、近代化に乗り出した青年たちの指導者が金玉均です。
▽3 福沢諭吉らと親交
両班出身、21歳で官吏登用試験の科挙に首席で合格。若くして頭角を現し、国王高宗にもその才覚を認められました。20代半ば、同じく両班出身の朴泳孝らと憂国慨世の士を糾合して、開国・開化を目指す独立党を組織します。
明治15年、高宗の命に従い初来日しました。福沢諭吉や自由民権運動の立役者・後藤象二郎らと親交を結び、外務卿・井上馨と意気投合。金玉均は明治維新後の日本の驚異的発展に強く刺激され、日本を手本とした朝鮮近代化の必要性に確信を抱きました。
17年、金玉均は福沢の多大な影響のもと、武力による閔妃政権転覆、開化派政権樹立の秘密工作に着手します。
決起日は12月4日。事大党の有力者を暗殺、国王を擁して親日改革派の新内閣を組織するや、清に囚われの身となっている大院君の帰国、清への朝貢廃止、門閥廃止など14カ条の政綱を発表しました。
けれども防衛を要請した日本公使館側の積極的支援が得られないまま、6日には閔妃と内通した守旧派の要請で、清国駐在武官袁世凱が2000人の兵を率いて王宮に闖入、国王は清国兵営に拉致されます。
衆寡敵せず、わずか400人の日本軍は竹添進一郎公使の命令で撤退します。日本政府は中国との衝突を回避する方針をとりました。開化派は孤立無援に陥り、金玉均らは日本に亡命します。
このとき清兵の略奪に朝鮮人暴徒が加わり、在留邦人へのすさまじい虐殺暴行が朝鮮各地で多発しました。これが世にいう甲申事変です。
▽4 国王高宗が暗殺を命令。上海で凶弾に倒れる
まさしく三日天下。朝鮮政府は亡命した金玉均らの引き渡しを要求しましたが、日本政府は犯罪人引き渡し条約がないこと、国際法上、国事犯を引き渡す例がないことを理由に拒否します。
すると今度は金玉均暗殺の刺客を朝鮮政府が送り込んできました。しかし結局、未遂に終わります。
一方、政変失敗後も福沢、後藤、井上角五郎、頭山満らの日本の民間人は金玉均を庇護しました。
そんな折も折、旧自由党員が朝鮮独立運動支援と日本の立憲政体樹立とを結びつけようとして計画した大阪事件が発覚します。日本政府は金玉均の事件関与を認め、小笠原さらには北海道に移送します。
日本政府は甲申事変後、金玉均を厄介者扱いし、国外退去を望んだのですが、国内世論の高まりと欧米の批判とを恐れて、配流処分としたのです。日本政府の冷淡さに強く反発する金玉均を拘束するのが真の狙いともいいます。
一方、玄洋社の来島恒喜らはその後も金玉均への支援を惜しみませんでした。
24年に赦されて東京にもどり、朝鮮改革の機会をうかがう金玉均を暗殺するため、朝鮮政府は2人の刺客・李逸植と洪鍾宇を日本に送り込みました。
暗殺はかつて金玉均を頼みとした高宗直々の命令で、国王は計画遂行のために莫大な内帑金を下賜したともいわれます。
洪鍾宇はたくみに甘言を用いて金玉均を中国の上海に誘い出します。
頭山や福沢は「ただのネズミではない」「命が危ない」と注意しましたが、金玉均は朝鮮守旧派の背後に清の李鴻章がいることを知りつつ、日本での政治活動の自由が制限されている中で、李鴻章を直接説得し、朝鮮維新への一歩を歩み出そうと決意し、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と頭山らに語って上海に向かい、27年3月28日、洪鍾宇の凶弾に倒れます。
暗殺までの経緯は、『明治天皇紀』にも記載されています。
その後、金玉均の遺体は、李鴻章の命令により、清国軍艦で朝鮮に送られました。朝鮮政府は遺体の首をはね、肢体を切り刻み、「謀叛大逆不道罪人玉均」の標札を立てて野ざらしにするという凌辱刑を加えました。この惨刑は日本に伝わり、朝野を憤激させました。
民間有志によって5月20日に浅草本願寺で営まれた葬儀には、犬養毅、尾崎行雄ほか2000余名が参列した、と当時の読売新聞が伝えています。
遺髪と衣類の一部を納めた棺は青山墓地に葬られ、10年後、犬養や頭山らの支援で墓碑が建てられました。日韓併合に際しては、畏きあたりから遺族に金1万円を賜い、生前の功労が追賞されたと伝えられます。
▽5 日本の横暴を強調する韓国の国定歴史教科書
今年(17年)の外人墓地「撤去」報道で、日本の朝日新聞や韓国の朝鮮日報などは、北朝鮮系の元朝鮮大学校教授・琴秉洞氏に取材し、「酷薄無情な措置」「あまりにも無慈悲で冷酷」と語らせています。
しかし、その怒りは現代日本の行政機関にだけ向けられているのではありません。
驚くべきことには、琴秉洞氏は自著『金玉均と日本』で、金玉均暗殺は従来いわれてきた朝鮮と清国の謀議ではなく、日本を加えた三国共同の政治的謀議である、と結論づけています。
その根拠に、大阪の豪商・大三輪長兵衛が資金5万円を提供していたことをあげ、その出所は日本政府ではないか、と論理を飛躍させています。
ちなみに大三輪は戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦の外祖父に当たり、日本初の手形交換所を創立し、朝鮮の貨幣制度改革に取り組むなど内外で活躍しました。
さらに、日本語訳の発行が約40年前と少し古いのですが、本家本元・北朝鮮社会科学院の歴史研究(邦訳『金玉均の研究』渡部学編)では、「金玉均が上海に渡ったのは朝鮮を侵略しようとする凶悪な日本侵略主義者の野望と妥協することができなかったためであり、刺客洪鍾宇による金玉均の暗殺は朝鮮、日本、清国の反動勢力の庇護と指図のもとで実行された」と説明されています。
そのうえ巻末の年表には「頭山満が金玉均に上海行きの旅費を提供するとウソの約束をした」「頭山は刺客の李逸植らと密談を進めた」と記述され、金玉均を支援した日本人が逆に悪者に仕立て上げられています。
しかも、朝鮮人自身が金玉均を冷遇した歴史についての記述は見当たりません。
▽6 何が何でも日本を「侵略国」にしたい
むろん北朝鮮の研究だけではありません。韓国の国定高校用歴史教科書もまた歪んでいます。
たとえば、「甲申政変後、日本の強要によって朝鮮は賠償金支払いや公使館新築費負担などを内容とする漢城条約を日本と締結した」と記述し、日本の横暴を強調するのでした。
けれども、日韓歴史共同研究のメンバーでもある近代日韓関係史の専門家、首都大学東京・森山茂徳教授によると「日本政府は甲申政変に対する日本の関与を否定して、責任は朝鮮にあり、という方針をとり、他方、清国代表・李鴻章が日本との平和的解決を望んだ結果、日本は朝鮮側の謝罪と損害賠償などの成果を得た」のでした。
「日本の強要」などとはいえないのです。
また、韓国の歴史教科書は、「清・日両国軍の撤収、将来、派兵する場合には事前に相互通告することなどを内容とする天津条約が締結され、これによって日本は清同様の派兵権を得た」とあたかも日本が朝鮮侵略の足がかりを得たかのような書きぶりです。
けれども、森山氏によると「伊藤博文の渡中で同条約が締結され、日中間の緊張が一時小康を得た。天津条約は確かに朝鮮に対する日中の権利の平等を承認したのだが、そのあと中国は『宗主権』の強化を推し進めて日本を圧迫し、日本もこれに対抗したことから、同条約は成立直後から空文化した」のです。
韓国の教科書は何が何でも日本を「侵略国」としたいようです。しかし、日本が「侵略」するはるか以前に李朝は国家破綻していたのではないでしょうか。
▽7 日本人を野蛮と見る華夷思想を脱せず
『韓国併合への道』などの優れた朝鮮近代史研究で知られる呉善花・拓殖大学教授はこう指摘します。
〈金玉均を批判する韓国人の多くは、金玉均が日本の力を借りたことについて「日本の侵略意図を見抜けなかった」「日本の侵略に手を貸した」と断じ、「親日売国奴」とこき下ろす。一方、支持派は「金玉均は親日家ではなく、日本に頼ったのでもなく、日本を利用したのだ」と弁護する。批判者も支持者も、「日本人は野蛮」と決めつけて蔑視する華夷思想、小中華思想から脱していない〉
近年は、「朝鮮ではじめて近代的な改革を推進した人物」という評価が定まり、「売国奴」の汚名は晴らされましたが、「日本の裏切りで政治改革を挫折させられた金玉均」という歴史認識は、日本を悪者と見ることにおいて変わりがありません。
朝鮮独立の理想を実現するために、東アジアで唯一、華夷秩序破壊の意思を持った日本との提携にかけた金玉均の見果てぬ夢は皮肉にも華夷思想を抜け出せない人々によってなおも歪められ続けています。
日本人の多くは、日韓双方が互いに歩み寄ることによって歴史認識の溝を埋めることができる、と単純に考え期待しています。ところが韓国・朝鮮ではそれはあり得ません。
呉善花氏が主張しているように、韓国・朝鮮人は、「神功皇后の三韓征伐以来、日本民族は野蛮で侵略的な性格を持ち、朝鮮を蔑視している。日本人に野蛮な性格を気づかせ、謝罪させ、反省させ、直させなければならない」と固く信じ込んでいます。
韓国・朝鮮人のいう日韓歴史問題の「解決」方法には「歩み寄り」は想定されていません。
「日本人は朝鮮を蔑視している」との見方は韓国・朝鮮人自身の「日本蔑視」の裏返しに過ぎないのですが、事の本質に気づかない日本人は「謝罪」に明け暮れ、それが「平和友好」への道だと思い込んでいます。
日本が根っからの侵略国なら、一時の謝罪で何が変わるでしょう。改められなければならないのは韓国・朝鮮人の身に染み付いた華夷思想です。しかしこれも変わりようがありません。
だとすれば、歴史の溝は埋めようがありません。
100年前、明治維新に成功した日本との提携によって朝鮮維新を成し遂げようとした金玉均なら、現代の歴史問題をどのように見るでしょうか。
さて、話をもとに戻します。
甲申事変のあと、金玉均の実父は捕らえられ、息子の暗殺後、同様の極刑に処せられました。
李朝では国家反逆者の家族は一族郎党、凌辱刑に処せられるのが常で、そのため母親と上の妹は服毒自殺、下の妹は流浪の人生を強いられました。したがって、祖国独立革命の志半ばで客死した金玉均の墓所を継承する子孫を見いだすことは容易ではありせん。
子孫縁者でなければ継承できない、とされるその墓地の行方はどうなるのでしょうか。
(参考文献=黒龍会『東亜先覚志士記伝』、森山茂徳『日韓併合』、呉善花『「日帝」だけでは歴史は語れない』、崔基鎬『日韓併合』、鄭鳳輝「甲申政変百二十年」など)
追伸 1950年代、イギリスが植民統治していたケニアの独立運動を弾圧したことについて、イギリスが賠償することを決めたようです。
朝鮮日報は5月8日の社説でこのニュースを取り上げ、まるで鬼の首でも取ったかのように、日本はどうなのか、と声を荒げています。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/05/08/2013050800789.html
どうやら韓国人は、日本が独立運動を弾圧したどころか、日本人がアジアの独立運動家たちを支援してきたことを知らないものと思われます。
日本の神道人たちが朝鮮独立運動家・呂運亨を支援し、そして李承晩派の韓国人が 呂運亨を暗殺したのでした。
上の拙文は平成17年8年、宗教専門紙に書いたものですが、この記事の掲載をきっかけに、その後、東京・青山にある金玉均の墓で、心ある日本人による墓前祭が毎年、行われるようになりました。
金玉均の祖国独立への思いを共有しようとする日本人がいまもいることを、朝鮮日報の記者たち、そして韓国人はどう思うのでしょうか?(2013年5月9日)
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