地球上から撲滅された疱瘡──種痘なき時代の素朴な信仰(「神社新報」平成14年2月)
(画像は為朝が描かれた疱瘡絵。東京都立図書館HPから拝借しました。ありがとうございます)
いも神に惚れられ娘値が下がり
「いも」とはあばたの俗称で、いも神は疱瘡をつかさどる神、惚れられたといふのは疱瘡にかかったの意味である。顔にあばたができて、器量が落ちた、とこの川柳はうたってゐるのだ。
疱瘡は多くの場合、通過儀礼のやうに幼児期に罹患し、死亡率は五割と高く、運良く命だけはとりとめても、容貌を著しく損なひ、ときには視聴覚機能を失ふこともあったから、文字通り恐怖の難病であった。
どれほど恐れられたのかは、『南総里見八犬伝』の作者として知られる、江戸後期の読本作家・滝沢馬琴の日記を読めば、一目瞭然である。
◇1 孫娘のために奔走する馬琴
天保二年(一八三一)、馬琴、数へ年六十五歳。孫のお次(二歳)が発熱したのはこの年の二月六日である。夕方になって気分がすぐれなくなり、夜中には差し込み、引きつけを起こし、眠ることもできない。蒼龍丸を与へると、三日目の朝、熱は下がる。疱瘡らしい。顔や頭にそれらしい兆候が現れた。馬琴は矢継ぎ早に家族に願掛けを指示し、茜木綿の単衣や頭巾などを作らせた。赤色が疱瘡を封じると考へられたのである。
翌日は、疱瘡をつかさどるといはれる疱瘡神の神棚が急ごしらへで飾られ、献饌をする。馬琴の妻・お百は、御守を申し受けに、浅草の白山神社に詣でる。
東日本のいはゆる被差別部落とよばれる地域の人たちが信仰する白山神が、疱瘡の治癒に効験あらたかと信じられたのであった。
なぜ白山神か、なぜ被差別部落の神なのか、はひとつのナゾである。
ある研究者によると、白山の神は格別に激しい霊威を持つ客人神であった。疱瘡は渡来人によってもたらされたと考へられ、白山神も中国・朝鮮辺境から渡来したのであった。中国・朝鮮国境付近は流行病の発信地のひとつと信じられてゐた。渡来した白山神は日本古来の病直しの神々と習合した──といふのだが、なかなか難解である。
被差別部落の人々がわが神とする白山神を、部落に住まない者たちがなぜ疱瘡封じの神と信じたのか。この研究者が指摘するやうに、被差別部落の本質や日本人の差別心の構造を解明することなしには、核心に迫ることはできないのだらう。
◇2 医者でさえ手をこまねいた
さてお百は帰路、源為朝の紅絵を買ふ。豪傑為朝を祀れば、疱瘡神も恐れて逃げる、といふ素朴な民間信仰である。
幸ひにも十三日目でお次は全快する。ところが今度は兄太郎(四歳)が発熱する。
日記からは、人気作家で経済的にも恵まれ、十分な医療を受けられるはずの馬琴が、ふたりの孫の罹病にあわてふためいて、応急薬の投与以外、神仏に頼るしか術のない苦衷が伝はってくる。
種痘など予防医学の未発達な時代である。ほとんど治療らしい治療はなされず、病気が少しでも重くなると、医者でさへ手をこまねいて傍観したものらしい。
疱瘡の流行が最初に文献にあらはれるのは『続日本紀』である。聖武天皇の時代、天平七年(七三五)、夏から冬にかけて全国的に「豌豆瘡」が流行り、多くの若者が死んだ、とある。以来、約三十年を周期に流行してゐた疱瘡は、だんだんと周期が短くなり、江戸後期には毎年のやうに流行を繰り返してゐた。孝明天皇が亡くなったのも、疱瘡が原因とされる。
その疱瘡も世界保健機関の撲滅計画の成功で、昭和五十五年に地球上から駆逐された。