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宗派超え鎮魂の祈り。天草市で殉教祭──10月19日づけ「くまにちコム」(平成19年10月22日月曜日)
(画像は島原城)
「くまにちコム」が天草市での殉教祭について伝えています。
〈http://kumanichi.com/news/local/index.cfm?id=20071021200018&cid=main〉
島原の乱の犠牲者を追悼する、昭和31年から続く催しだそうです。
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ところで、島原の乱はしばしばキリシタン一揆と考えられていますが、そうではないという見方があります。
以前、島原を取材したとき、ちょうどその年、島原半島文化賞を受賞された郷土史家の志岐茂夫さんのお話は新鮮でした。乱の舞台である原城跡へと向かう車中で、志岐さんはこう語りました。
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「NHKの『堂々日本史』が取材に来たときも話したのですが、私はキリシタン一揆ではなくて、農民一揆だと考えています」
370年前の寛永14(1637)年10月、キリシタンを取り締まる島原藩の代官が殺害されたのを機に、島原各地の農民がいっせいに蜂起しました。神社仏閣に火を放ち、藩主松倉氏の居城・島原城下に乱入して城を包囲したのでした。
幕府が鎮圧に乗り出し、4万5000人の大軍を仕向けると、一揆勢は原城に籠城しました。原城は有明海に突き出た周囲3キロの天然の要塞で、かつては有馬氏の支城でしたが、藩主が松倉氏に代わり、一国一城の制によって居城が島原城に移ったあとは廃墟となっていました。一揆軍はいちばん高いところに教会を建て、指令を出しました。
難攻不落の原城に対して、幕府軍は二度の総攻撃を加えましたが、数千人の死傷者を出し、指揮官である板倉重昌までが戦死します。代わって司令官となった松平信綱は戦法を兵糧攻めに切り替え、降伏を呼びかけました。
ここで注目すべきなのは、交渉に伝われた矢文です。一揆勢の矢文の多くはキリシタン解禁を求めるものでしたが、それとは異なる内容の矢文が昭和30年代に瀬戸内海の小豆島内海(うちのみ)町の壺井家で発見されたといいます。一揆の指導者には内密に送られた矢文で、「太平の世を騒がして申し訳ない。一揆は領主・松倉長門守の酷い政治に抗議してのこと」と記されていたのでした。
島原は稲作に向かない火山灰の畑地です。そこへ20年前に移ってきたのが松倉氏で、新興外様大名の意気込みと見栄で小大名にしては立派すぎる島原城を築いたのです。そのため農民を絞り上げ、4万石の領地なのに、2倍以上に税を取り立てたといいます。さらに寛永11年以来続く凶作と飢饉が重なりました。百姓一揆は当然の結果でした。
籠城すること80日。取り囲む幕府軍は12万。一揆勢の食糧も武器も底をつきました。最後の総攻撃が加えられたのは寛永15年2月末。原城は陥落し、一揆勢3万7000人は老若男女の別なく皆殺しにされたといわれます(『堂々日本史 4』など)。
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もうひとつ指摘しなければならないのは、プロテスタント国・オランダの果たした役割です。
島原の乱後の寛永16年にポルトガル人の居住・来航が禁止され、徳川幕府の鎖国制度は完成します。カトリック勢が締め出されたあと、残ったのはプロテスタント国のオランダですが、なぜオランダだけが通商相手となり得たのでしょうか。
じつはカトリック国であるポルトガル、スペインの侵略的意図をさかんに吹き込み、両国との貿易停止を幕府に働きかけていたのがオランダだったといいます。バタビア(インドネシア)に本拠地を置くオランダは宗教と経済を分離し、対日貿易の独占を図ったようです。
そのオランダにとって島原の乱はまたとないポルトガル追い落としのチャンスであり、幕府の要請にしたがって階上から一揆勢を砲撃すらしています。やがて幕府がポルトガル船の来航を禁止したとき、バタビアのオランダ総督府では盛大な祝賀会が催されたといわれます(『NHK歴史発見13』など)。
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志岐さんによると、いまでも原城跡のそこかしこから乱で命を落とした人たちの遺骨が出てくるのだそうです。そんな話を聞きながら、海に沈む大きな夕日を眺めていたのを昨日のことのように思い出します。