日韓の情緒の近さを語り続けた佐藤邦夫 by 佐野良一(イベントプロデューサー、2006年5月7日)
映画プロデューサー・韓国文化研究家であった佐藤邦夫(1915~96年)の没後10年の本年、生前の佐藤の仕事に再照明を当て、功績を偲ぶ集い「追悼・佐藤邦夫先生を語る夕べ」が去る4月26日、高田馬場「プラザカフェ」で開かれた。
佐藤の生涯は韓国の映画、歌謡曲、レヴューなどエンターティメント列の大衆文化を日本に紹介することでほぼ費やされた。しかし彼の生きた時代は、日韓文化コンテンツビジネス面から見れば、実りの少ない冬の時代であった。そのため佐藤の仕事は広がりを持たず、自分の人脈と資金で賄う自己完結で終わることも多かった。しかしそんな彼の周辺には少なからぬ同好の士が集り、次第に門人たちによる“佐藤組”と呼ばれるゼミが形成された。
佐藤は1930年代に宝塚歌劇のレヴュー作家として芸能界に踏み出すが、その後、映画配給会社の東和商事(現東宝東和)に転身する。ここで「漢江」や「家なき天使」など幾つかの感銘深い朝鮮映画と出会い、それを契機に1941年に映画プロデューサーとして京城に赴くが、その後、彼が召集時まで係わった仕事はレヴュー(朝鮮楽劇団)の総務職であった。
ここでいう楽劇とは、ミュージカルやバラエティを含むレヴュー風舞台である。それらの多くは宝塚や松竹(SKD〈松竹歌劇団〉、OSK〈大阪松竹歌劇〉)のシステムを真似ていた(ただし男性も加入)。戦前、上海がジャズの都であったことは知られているが、同時期の京城は楽劇の都であり、多くの劇団とスターが生まれた。楽劇育ちの芸能人たちの多くは戦後も韓国芸能界に君臨した。佐藤邦夫が晩年まで持っていた韓国芸能界との太いパイプの核はこのような戦前の映画、楽劇人脈であり、これは余人の追随を許さなかった。
楽劇の面白さを、佐藤は門人たちに「民族衣装の踊り子が激しく長鼓〔チャンゴ〕(首から懸けて両手の撥で演奏する胴の長い太鼓)を打って踊っていると、そのリズムにドラムが被ってゆき徐々にスイングになるんだよ。そのうちにチョゴリシスターズという3人娘が出てきてジャズを歌うんだ」と語っていた。楽劇の仕事のさ中の1943年、佐藤は召集を受け、中国戦線に出征するが、楽劇団の仲間は舞台で「海征かば」を歌い、彼を送ったという。
戦後復員した当初、佐藤は大阪で京マチ子や笠置シヅ子を擁するOSKの仕事をしていたようだが、1960年代には東京へ戻り、ビクター芸能社でフランク永井や、橋幸夫、三田明らビクターレコード所属歌手たちのプロデュースを担当した後、1970年代中盤にはフリーとなって韓国映画の日本紹介役に徹するようになる。
戦前戦後を通して韓国文化が日本で社会現象になることは先ずなく、特に芸能界には長く“韓国モノは当たらない”というジンクスが蔓延っていた。反対に、楽劇にしても映画や歌謡曲にしても、この間の韓国の大衆文化の源はいち早く西洋風に近代化した日本にあり、戦前戦後を通じて韓国は日本型の近代社会が続いている。上記“韓流”は日本型大衆文化が見事に韓国化した成功例だと見ることができる。
エンターティメントという最も情緒が作用する業界で仕事をしてきた佐藤邦夫は、日韓の情緒の近さを誰よりも熟知していた。そのため言わずもがなの“友好”、“交流”などの薄っぺらな言葉を使うことはなかった。近い情緒を根底としたビジネスライクで冷静な関係を標榜していた。しかし自分自身はそれが全くできない人ではあった。
佐藤邦夫の語り続けた“日韓情緒の近さ”は、今、“韓流”が証明した。
斎藤吉久注 筆者の佐野さんは令和6年7月13日、逝去されました。