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総督府が斎行した朝鮮の祭祀──日本統治下での知られざる宗教政策(「神社新報」平成12年10月9日号から)

(画像は忠烈祠。釜山市観光サイトVisitBusanから拝借しました。ありがとうございます)


 数々の感動のドラマが展開されたシドニー・オリンピックが閉幕した。

 期間中の最初の見せ場は、韓国と北朝鮮の選手団が「統一旗」を掲げ、同じユニフォームで合同入場行進を果たした開会式で、(平成12年)6月の平壌での南北首脳会談以降、朝鮮半島で進展を見せる緊張緩和への動きをいまさらながらに強く印象づけた。

 しかし雪解けはムードばかりが先行し、南北間の軍事的緊張と不信は何も変わらない。北朝鮮の核ミサイル開発も拉致疑惑も、解決の道のりははるかに遠い。

 日朝間では、(平成12年)8月に国交正常化交渉が再開されたが、北朝鮮大使は案の定、「植民地支配に対する謝罪と補償」を強硬に求めた。

 日韓関係も同様である。先月(9月)に来日した金大中・韓国大統領が「年内実現」を要請した永住外国人の地方参政権付与問題の背後には、「強制連行」問題がある。

 ということで、今回は、日韓・日朝の和解の前に立ちはだかる「歴史の重荷」の1つ、日本統治時代の宗教政策を考える。

▢1 「日帝」が「神社参拝を強制」という歴史理解は正しいのか


 近年、韓国の小・中・高校の国定歴史教科書が日本国内で翻訳出版されるようになった。

 試みに中学校の教科書を開いてみると、「日帝」批判のオン・パレードである。

 ──朝鮮民族と朝鮮文化を抹殺する政策を実施した。内鮮一体と皇国臣民化などのスローガンを掲げ、韓国人を日本人にして韓民族をなくそうとした。韓国語の使用を禁じ、日本語の使用を強制し、韓国史の教育を禁止した。韓国人の姓名を変え、日本式の姓と名を使うよう強要した。各地に日本の神社を建てて参拝させ、子供たちに皇国臣民の誓詞を覚えさせた。

 相変わらず、厳しい批判である。

 同様の歴史理解は、韓国の国定教科書に限らない。

 たとえば朝日新聞は、森首相の「神の国」発言騒動の際、一般記事のほか社説やコラムなどを総動員し、

「国家神道が軍国主義と結びつき、アジア侵略を正当化する理論的支柱となった」というような批判を繰り返し加え、

 論説委員のコラム「窓」などは、森首相の「妄言」について、韓国紙が大報道を控えたことを、韓国の「成熟」と評価し、エールを送った。

「戦前を知る韓国の人々はかつて日本がしたことを忘れたわけではない。日本風の姓名を押しつけ、日本語の使用を強要したばかりではない。『皇国臣民の誓詞』を暗記させ、学校では日本に向かって宮城遥拝させた」にもかかわらず、という論理である。

 こうした常識論的な天皇批判や神道批判、歴史批判の誤りについては、この連載で何度か取り上げてきた。

 たとえば「創氏改名」については、日本風の姓名を押しつけたのではなく、朝鮮の家族制度を「家」制度に再編するため、家の呼称である「氏」を創設することで、男子血統の記号である朝鮮の「姓」や本貫が廃止されることではなかった、とする在日の研究者による最新の研究についても紹介した(金英達『創氏改名の研究』)。


 面白いことに、朝日新聞はこの(平成12年)夏、都内のある大学に朝鮮総督府高官の肉声テープが保管されていたとするスクープ記事を掲載したが、その際、「創氏改名」について、「氏の設定を日本風にするかどうかは任意。名を日本風に変えることもできた」と「朝日的」ではない説明を載せていた。

 同じ朝日新聞でも、記者個人によって、歴史理解の度合いがかなり異なる。

「日本語の強要」も、たとえば金大中氏は、『私の自叙伝』に、

「朝鮮語の正規の授業がなくなった……学校内では、朝鮮語を使うことが禁止されました」

 と書いているが、その一方で,同書には補足説明として、昭和13年に第3次朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は「随意科目」となった。朝鮮語の授業を廃止した小学校が多かったが、金大中少年の6年生の成績簿には朝鮮語の成績が10点となっている。週一度程度の朝鮮語の授業があったことをうかがわせる──という記載がある。


 さて、それならば、「神社参拝を強制した」と批判される朝鮮総督府の宗教政策とは、実際のところ、どのようなものだったのだろうか?

▢2 賀茂百樹・靖国神社宮司が見た殿・陵・祠・院の国家的祭祀


 戦前、30年間の長きにわたって靖国神社宮司の職にあった賀茂百樹(かも・ももき)が昭和6年、満州・朝鮮を旅行した。そのときの印象が全国神職会の広報紙的存在であった「皇国時報」に載っている。

 全国神職会は神社本庁設立母体の1つ、大日本神祇会の前身だが、賀茂は朝鮮伝統の祭祀がほかならぬ朝鮮総督府の手で厳修されていた、と書いている。

 賀茂の「朝鮮の殿・陵・祠・院の祭祀──満鮮旅行記2」(「皇国時報」昭和6年7月11日発行)は、

「朝鮮には国家の儀制として享祀の典礼が行われる殿と陵があり、行うことを公認された祠と院とがある」という書き出しで始まる。

「殿」というのは、朝鮮総督府が昭和10年に発行した『施政二十五年史』などによると、上古から高麗朝までの歴代王朝の始祖、および特別な功徳のある先王の遺霊を祀り、追還報徳の誠敬を致す斎場で、次の八殿がある。

①崇霊殿(享祀者=檀君および高句麗始祖東明王)
②崇仁殿(箕子)
③崇徳殿(新羅始祖朴赫居世)
④崇信殿(新羅王昔脱解)
⑤崇恵殿(新羅王金味鄒)
⑥崇烈殿(百済始祖高温祚)
⑦崇善殿(駕洛国始祖金首露王)
⑧崇義殿(高麗太祖王建および顕宗、文宗、元宗)

「陵」は、上古より高麗朝に到るまでの歴代王の遺骸を埋葬した墳墓で、その所在が明らかになっているものが98か所あるが、享祀が斎行されているのは次の6陵である。

①箕子陵
②新羅始祖朴赫居世王陵
③新羅金味鄒王陵
④高句麗始祖東明王陵
⑤新羅昔脱解王陵
⑥高麗太祖顕陵

 賀茂によると、総督府はこの八殿・六陵に対して、国家として祀典を定め、春秋2回、奠幣供饌の祭祀を儒教形式で、国費をもって挙行した。「内地」の官社がそうであるように、大祭日には道知事が派遣された。

 また各殿陵には参奉と守護人の各1名が奉仕のために置かれ、とくに参奉は享祀者の子孫もしくは有縁の者が採用されたという。祀典に預かれない、残る92の王墓にも守護人が置かれていたという。

 これら国家によって享祀の典礼が斎行される殿陵のほかに、公認された祠(17か所)と書院(27か所)があった。いずれも名儒賢臣の遺霊を祀り、その学徳を追慕し、徳化を報謝するための祭祀が励行される斎場であった。

 祠廟のなかで、とくに注目を引くのは、「忠武公」李舜臣を祀る忠烈祠(慶尚南道統営郡)である。

 李舜臣は豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に攻め入ったとき、水軍を率いて、これを打ち破った。この「朝鮮の英雄」の祠廟が、じつに「日帝」時代に公認されていたのである。

 これもまた、「韓国国定教科書」的な「日帝」支配のイメージとはだいぶ温度差がある。

 ただ注意を要するのは、これらは厳密には、神社と同様、「祭祀」であって、「宗教」ではない。総督府は「祭祀」と「宗教」を峻別していた。

▢3 祭祀と宗教に対する理解の相違。一神教と多神教との神観の相克


 神社参拝に関連して、賀茂はこう指摘している。

「満鮮の神社は内地人の神社で、目的は内地人に限られているようだ。祭日には内地人は身を浄め、衣を替えて参拝するのに、満鮮人は薄汚れた衣服のままで物見半分にやってくる。不愉快を感じさせるので、追い払っていると聞いた。現状ではやむを得まい」

 賀茂の満鮮旅行は昭和6年の初夏で、満州事変が起こる数か月前のことだった。

 そのころはまだ「強制参拝」どころではなかったらしい。

 そのうえで賀茂は、朝鮮人は同じ「日本国民」であるから、神社参拝を勧めることが「内鮮一体化」の実をあげることになる──と主張するのである。


 だが、歴史の皮肉なのか、戦時体制化が進展するにつれ、「神社参拝の強制」が朝鮮人の反発を呼ぶようになる。そして在野研究者・韓晳㬢氏の『日本の朝鮮支配と宗教政策』によれば、

「神社参拝強要は学校から始まった」という。

 韓氏によれば、昭和7年9月、秋季皇霊祭の日に平壌で満州事変戦没将兵慰霊祭が挙行された。各学校の生徒たちは参拝を求められたが、キリスト教系の学校が拒否し、問題化する。

 その後、当局から全国の学校に国民儀礼としての神社参拝を厳守するよう通達が出されると、アメリカ系プロテスタント教会は反発を強めた。

 昭和10年11月、平安南道知事が道内の中学校長を招集し、平壌神社参拝を命令したが、崇実中学校長マキューンと崇義女子中学校長スヌークらがこれを拒否し、当局と宣教師との関係がこじれていく。

 同じキリスト教でも、天主教(カトリック)などは参拝していたが、プロテスタントの長老派協会は、参拝拒否を機関決定し、知事に回答した。やがてマキューンとスヌークは校長職の認可を取り消され、アメリカに帰国する。

 これが果たして「強要」といえるものなのかどうか?

 当局と教会とのすれ違いの背後にあるものは、つまるところ、「祭祀」と「宗教」に対する理解の相違、一神教と多神教の神観の相克であり、日本、朝鮮、そしてアメリカの宗教文化の違いではなかったか?

 当時のキリスト者のなかには、そのことをよく理解する人もいた。長老派が反対色を強め、総督府が「弾圧」を強化していったとき、昭和13年6月、説得のため渡鮮した日本基督教会大会議長の富田満牧師は、

「いつ日本政府はキリスト教を捨て、神道に改宗せよと迫ったか。国家は国家としての祭祀を国民に要求したに過ぎない」と語っている。

 この富田氏の姿勢が戦後のキリスト者には「卑屈な恫喝」と映るのだが、少なくとも朝鮮総督府の統計を見るかぎり、「受難」どころか、キリスト教の教勢は拡大し続ける。

 朝鮮における各宗教の信徒数の変遷(出典は朝鮮総督府刊『朝鮮総覧』『施政三十年史』。ここでいう「神道」とは教派神道八派のことである)


 総督府の官僚は神社非宗教論に固まっていたが、神道人は必ずしもそうではない。朝鮮神宮初代宮司の高松四郎は、神社のあり方をめぐって、総督府と激論を闘わせている。

 官僚たちは、

「神社は倫理的な施設であり、祈願や祈祷、神前結婚もすべきではない。神符、守札も不都合だ」と主張したのに対して、

 高松は、

「神社とはけっしてそのようなものではない」と反論し、総督・総監の御前会議さえ求めたといわれる(手塚道男「朝鮮神宮御鎮座前後の記」=小笠原省三編『海外神社史 上巻』所収)。


 高松は大正14年の朝鮮神宮遷座祭直前に、「朝鮮の始祖および建国功労者」を合わせ祀ることを首相に建議した気骨ある神道人有志の1人であった。

 朝鮮神宮は、北海道開拓を含め、海外の神社に国魂神を配祀しない、悪しき先例といわれる(『近代神社神道史』)が、もし朝鮮神宮に朝鮮の祖神が奉斎され、国家的祭祀が斎行され、日本人・朝鮮人の別なく、拝礼する風が築かれていたとしたら、その後の歴史はどう変わっていただろうか?

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