女系継承は天皇の制度といえるのか──皇室典範有識者会議を批判する(「正論」平成17年12月号から)
▢ 皇位を国民の下位に置く
初代の天皇である神武天皇以来、日本では天皇の御意向が法であり、天皇と法は同格でした。
ところが、戦国乱世に成り上がった武断の雄・徳川家康は元和元(1615)年、天皇のお務めは学問だと規定する「禁中並びに公家諸法度」を発布し、皇室の政治不関与を後水尾(ごみずのお)天皇に要求しました。武家が制定する法の下に朝廷を従わせ奉ることこそ、下剋上(げこくじょう)の最終段階でした(『中村直勝著作集6 歴代天皇紀』)。
四百年後のいま、同様に、天皇を国民の下位に置いて国会に従わせ、天皇の制度を根本的に変革しようとする、空前絶後の下剋上の企てが公然と進められています。
皇太子殿下の次の世代の皇位継承資格者がおられないという「皇統の危機」を憂える立場から、女帝容認が提起され、その認否をめぐる議論がここ数年、あるいはそれ以上にわたって交わされてきました。ついに政府は平成16年末、内閣総理大臣の諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」(座長=吉川弘之・元東大総長)を立ち上げました。
会議では「男系男子」に限ってきたこれまでの皇位継承の制度を改め、女性天皇の即位のみならず、女系による皇位継承に道を開くことが検討されました。本来は皇家の成法である皇位継承について、皇族はいわずもがな、とびきりの皇室問題の専門家が一人として見当たらない有識者会議がくちばしを挟み、過去の歴史にはまったくない制度改革を推し進めるというのです。
議論の出発点に立ち返るなら、そもそも「皇統の危機」は120代を超える天皇史につねに付きまとってきました。非嫡出による庶系継承が制度的に認められていた時代でさえ、皇位継承は容易ではなく、その事実は女帝を容認する識者自身が
「むしろ危ない綱渡りを繰り返してきたとさえ見られる」(高橋紘、所功『皇位継承』)
と認めています。危機を喧伝(けんでん)するあまり、男系女子のみならず、あえて女系の継承を認めることは論理の飛躍であるばかりでなく、皇統史への不敬きわまる挑戦となるでしょう。
古来、日本人は皇位の男系男子継承を当然と信じてきました。有識者会議では
「なぜ皇位継承は男系でなければならないのか、を説明した歴史的文書などは見あたらない」
「国家統一に際して武力の役割が大きくなって男性優位の考え方が定着した、あるいは儒教の男性優位の考え方が導入されたなどの見方がある」
と事務局が説明したといいます。男系男子継承が当然視された時代に、そのことをあえて合理的に説明する文書があろうはずもなく、文書の不在は父系継承原則の不在の証明とはなりません。
史上、実在する8人10代の女性天皇はすべて男系であって、女系子孫の即位の例はありません。その歴史の事実は軽視されるべきではありません。皇祖神の天壌無窮の神勅に淵源を発する天皇史の本姿に立ち返ろうというならいざ知らず、内閣や国会が介入して皇室典範を改正し、女系の子孫による皇位継承が法律上、認められるとすれば、開闢以来の皇統史に根本的かつ重大な変革が加えられることになります。
そこまでしなければならない理由は何でしょうか。
▢ 皇室と国家と国民の永遠性
日本人は古来、皇位継承が特別そうだというのではなくて、およそ血統といふものが母系ではなく父系によることを、自明のこととして信じてきたのではないでしょうか。
その根拠は、きわめて身近な、もっとも基本的な大和言葉の語彙のなかに見いだすことができます。それは「血=チ」「父=チチ」「命=イノチ」「道=ミチ」などの「チ」です。「チ」には「連続性」「継続性」「永遠性」の意味が込められているのです。
そのことを指摘しているのは、戦前、30年の長きにわたって靖国神社の宮司の地位にあった賀茂百樹(かも・ももき)です。江戸中期に活躍した国学者・賀茂真淵(かものまぶち)の子孫で、神職のかたわら語源学に親しみ、『日本語源』上下2巻を残しています。
賀茂の著書は、日本語の「チ」は
「相互につなぐもの」
を意味する、と説明しています。
「父=チチ」「路=ミチ」「乳=チチ」も同じであり、「血=チ」は「活気を保ち続き、親から子に続く」。「父=チチ」は「血統が続く、が語源であらうか」。「乳=チチ」は「母と子の間を続ける意味である」──と解説しています。「父=チチ」が「血統が続く」の意味なのに対して、「母=ハハ」は「子をはらむ」が語源だと述べています。
道は山や川で隔てられた二つの土地を地理的につなぎ、どこまでも続いています。同じように、血は親と子の二つの生命を世代的に結んでいます。命は血脈を介して、親から子へ、子から孫へと無限につながっていきます。その命の連鎖は父系によって続いていくのです。「父=チチ」という和語はこのような父系継承を前提としています。
しかも日本人が考える父系継承は、単なる生物学的、肉体的な血統のみを意味するのではありません。霊と肉はひとつであり、血統は霊統をも意味したのです。
『神道辞典』などを著した神道学者、国学院大学教授の安津素彦(あんづ・もとひこ)によると、「チ」と「シ」は同じ意味を持つといいます。古語では「シ」は「霊」を意味した、「霊」は「呼吸」でもあり、「血」でもあると信じられた。「シ」が身体を去ること、行ってしまうこと、つまり「シ、イヌ」が「死ぬ」の語源である──と説明しています(安津『神道と日本人』)。
日本人の生命観、霊魂観に関するこのような説明は、神道学者らばかりではなく、国語学者が一般に認めています。「日本最大の本格的な語源辞典」と高い評価を受ける、平成17年2月に出版されたばかりの『日本語源大辞典』(前田富祺監修)に掲載された各時代の国語学者らが唱える「語源説」も、やはり同様の説明をしています。
「父=チチ」については、江戸時代には
「血の道の意味である」(大石千引(ちびき)『言元梯』文政13年)
と説明され、戦前の辞書は
「威力のある神霊を称へる霊=チの音を重ねたもの」(大槻文彦『大言海』昭和7年)
と解説しています。
これに対して、「母=ハハ」は江戸期には
「ハラ(腹)の意味である」(前掲『言元梯』)
とか、
「母を意味する古語のイロハのハを重ねたもの」(藤原比呂麻呂『国語蟹心鈔』宝暦九年写本)
などの説がありました。
これらの語源説に従えば、古来、日本人にとって命とは霊肉一体であり、血統・霊統は男系・父系によって繋がっていくと信じられてきたことがうかがえます。
この古来の生命観、霊魂観によれば、皇祖神の神勅に基づく皇位が男系男子によって継承されるのは当然です。幾多の危機に瀕しながらも、父系継承が固守されてきたのは、皇統の継続性、永続性を求めるからであり、連綿たる皇位がひいては国家と国民の命の永遠性につながるからではないでしょうか。
皇位の女系継承を認めることは、皇統の断絶と日本の歴史の破断を招くことになるでしょう。
▢ 全国に分布する父系継承の根拠
父系継承を正統と考える観念は特定の地域に限られたものではありません。「血=チ」「乳=チチ」「父=チチ」「母=ハハ」という日本語は、古代から現代まで日本全国にほぼ共通しているからです。そのことは、方言学の成果から容易に理解されます。
17年におよぶ隣地調査に基づいて23万語を収録し、「最新・最大の方言辞典」といわれる『現代日本語方言大辞典』(全8巻、1992〜94年)を開いてみましょう。
「父」は各地の方言では何と呼ばれているのでしょうか。
たとえば、秋田では「オド」「アンチャ(若い父親)」「オヤンジ」などと呼びます。栃木は「トーチャン」、新潟は「ツァツァ」「トッツァマ」など、三重は「オトッツァン」「トッツァン」のほかに、古い言い方、卑称として「トト」があります。島根には大正末頃まで「チャッチャ」という古い言い方がありましたが、現在は「オトッチャン」がもっとも多く使われています。熊本は「トッツァン」のほかに、上品な言い方で「トトサン」があります。
古代から現代に至るまで「チチ」という語は不変で、時代的に母音が変化し、「テテ」「トト」などとなり、江戸時代に「オトッツァン」が一般的となった、と説明するのは、杉本つとむ・早稲田大学名誉教授の『語源海』(2005年)です。
父系継承を前提とする「チチ」を語源とする呼び名が、古来、ほとんど例外なく全国的に分布しているということになります。これに対して「母=ハハ」も同様で、古代から「ハハ」は不変で、江戸時代になって「カカ」に変化し、「オカアサン」の源流となった、と杉本教授は説明しています。
父系によって霊統・血統が継承される、と古今、一貫して日本人が考えてきた社会的観念こそ、「男系男子」による皇位継承の前提となります。
けれども、これには同じ方言学者のなかに異論があります。まさに日本社会は最初から父系継承を正統としたわけではない、という指摘です。「チ」は継続・継承を意味するにしても、必ずしも父系継承が正統ではなかった証拠に、地域によっては「チチ」は父親ではなくて、逆に母親をさした。たとえば青森や佐渡、三重県志摩郡の方言にその例が見られる、というのです。
この説では、さらなる「古代」が想定され、日本社会は古代において母系社会から父系社会に変化した、という理解が前提になっています。
「母系制から父系制に移行するときに、チチ=母といふ語がチチ=父を意味するようになった」
と、『国語語源辞典』(1976年)をはじめ、語源に関する多数の著書のある山中襄太氏などは解説します。つまり母親が子供に与える「乳=チチ」が父親を意味する「父=チチ」と同音なのは、古代の母系制の名残だと理解するのです。
古今東西、赤ん坊が母乳を求めて自然に発する喃語(babbling)、つまり「ババ」「マンマ」などの語が「母」を意味するようになった、母系制社会では「母」は「家長、主人、主婦」を意味したが、父系制への転換で「父」を意味するようになった──と説明しています。
この山中氏の説は、先駆的な終戦直後の方言学研究に基づいています。山中氏の説明によると、日本方言学の基礎を築いたとされる東条操・学習院大学教授の研究に依拠しているといいます。たしかに東条教授の『全国方言辞典』(昭和26年)は、青森や佐渡、三重県志摩郡地方では母親を「チチ」と呼ぶ、と紹介しています。
佐渡方言について調べてみると、廣田貞吉『佐渡方言辞典』(昭和49年)や大久保誠『佐渡国中方言集』(1996年)も、羽茂(はもち)地区では母親を「チチ」と呼ぶ、「乳」に由来する──と書いています。かつて佐渡では山を隔てた集落ごとに独自の文化的小宇宙が形成され、農村地域の羽茂地区もまた独特の言語的空間を維持していたといわれます。
けれども今は昔、大久保氏によると、ここ数十年で独特の方言はほとんど死滅してしまった。羽茂地区にかつて母系社会が維持されていたかどうか、誰にも分かりません。
筆者の取材に対して、『佐渡方言の研究』(1999年)の著者・渡辺富美雄・東京家政学院大学教授は、いつの時代に、何を契機として、どのように言葉が変化したのか、民俗学など他の学問研究から追跡する必要がある、と述べていますが、その作業は不可能に近いでしょう。
先述した杉本教授も、母系制から父系制に社会構造が転換したと考える研究者の一人で、「チ」は「父親」などよりも、広く「元祖」の意味だったのではないか、上代では「父母=チチハハ」「母父=オモチチ」の二つの言い方がある、後者がより古い言い方だとすると、母系社会の名残ではないか──と述べています。
けれども、推測の域を出ていません。どのように社会の転換が起こったのか、の説明もありません。
古代史にはロマンがありますが、記憶のはるか彼方にある「古代」にまでさかのぼって、母系社会の実在や父系社会への転換を論じても仕方がないでしょう。極端にいえば、人類発生の歴史から日本の父系継承否定の論理を導いても意味はありません。
母系社会から父系社会に転換したという歴史理解が戦後の反天皇研究と結びついているとなれば、なおのことです。
▢ 男系社会を否定する反天皇制研究
さまざまな分野の文献を駆使して「万世一系説」「女帝『中継ぎ』説」を批判的に検証し、皇室典範改正・女帝容認を提案する、朝日新聞・中野正志記者の『女性天皇論』が話題になりました。
「天皇制を廃止したければ、ただ待っていればよい。天皇制が消滅する日もそう遠くないからだ」
というのが、その書き出しです。
中野記者は、推古天皇以来、実在する八人十代の女性天皇は「中継ぎ」だったとする「女帝中継ぎ」説を批判し、この説の前提には古代日本の家族は男系男子によって運営されてきたという思い込みがある、と指摘しています。
そして、古代の日本が父系社会ではなかった根拠として、考古学者による最近の研究を紹介しています。田中良之・九州大学教授の『古墳時代親族構造の研究』(1995年)です。
田中教授は、歯の縦横の長さを計測し、その比率や組み合わせによって親族関係を割り出すという研究方法を見いだし、この手法を使って古墳から発掘された人骨や歯を調べ、「家族」の仕組みに次のような変化が認められた、と述べています。
第一期(弥生終末期〜5世紀代)=同じ血をひくと見られる男女が性別に関係なく同じ墓に埋葬された=双系制。
第二期(5世紀後半〜6世紀後半)=父親と考えられる男性と子供たちが入り、次世代の家長となる子は別にその子供(孫)たちと一緒の墓に葬られる=過渡期。
第三期(6世紀前半〜現代)=父親と、妻と考えられる女性、その子供たちが一緒に埋葬される=父系制。
田中教授のこの研究は、双系制(広い意味での母系制)から過渡期を経て、父系制の親族段階に移行したことを立証することになります。このため古代天皇制の「男系男子」継承を否定したい中野記者は、
「古代の親族関係は男系から成り立つ」
とする説に大きな打撃を与えた、古代日本は父系ではなく双系的傾向が強かった、古代史学者や戦後の中世史、政治史、文学史研究から双系的な傾向が注目されている──と田中説を解説しています。
けれども中野記者の解説は見当違いを侵しているのではないでしょうか。
田中教授自身が指摘しているのですが、この研究結果は古代史学者たちがこれまで主張してきた双系説に通じるとはいうものの、逆に相違点が多いのです。
従来の双系説では、五世紀後半以降、ウジ(氏)の形成や父系継承が支配層にだけ発生し、他方、支配される側は依然、双系のままだった、支配層に始まった父系継承がやがて徐々に下層へ浸透した──と主張してきました。
これに対して田中教授は、農民層においても家長は父系かつ直系的に継承されていたことが明らかになった、と結論づけています。
田中教授の研究は、中野記者の期待とは異なり、古代日本に男系社会があったことを否定したのではなく、むしろ従来の双系社会説に疑問を投げかけているのではないでしょうか。だからこそ、従来の双系説の立場に立つ、古代学者の関口裕子氏は猛烈に田中教授の研究を批判しています(関口『日本古代家族史の研究 上・下』2004年)。
中野記者は「最新の歴史学の成果」を取り上げ、それらを根拠にして、古代の女帝は指導力が強く、とても「中継ぎ」とはいえない、「中継ぎ」説は近代の性差史観の反映に過ぎない、男系男子による「万世一系説」は歴史学的に成り立たない、女帝を排除した近代の天皇制は明治維新期の政治家の創作である──と主張しています。
律令制以前の古代社会では双系的な傾向が見られ、中世史学者も双系制採用の可能性の強さを挙げている、と強調しています。
けれども、古代の双系制を強調する学説の背景にはもともと天皇制を批判・否定する考えが見え隠れしていて、学問の中立性に疑いがあります。実証的な古代史研究の成果から天皇制のドグマが明らかになったのではなくて、政治的なドグマが天皇制否定の研究成果を導き出しているといえます。
研究の動機に特定の政治性を認めざるを得ない学問を無批判に取り上げるのは、ジャーナリズムとして客観性に欠けることになるでしょう。田中説に対する関口氏の批判は中野記者の著書には取り上げられていません。
中野記者が取り上げた戦後の日本家族論が当初から天皇制批判の傾向を帯びていたことは、研究者自身が認めています。
歴史学者の佐々木潤之介・一橋大学名誉教授によると、戦後の家族論は
「天皇制国家の支柱としての家族主義の解明という現実的課題」
に呼応したものでした(『日本の家族史論集1家族史の方法』所収論攷、2002年)。日本の家族国家観、家制度、家父長制研究は天皇制批判として始まったのでした。
家族史研究の基本文献の一つにされてきたのは、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」であり、マルクス主義の影響は免れませんでした。近年はジェンダー論の影響を受けた研究が、「双系制」という概念を用い、皇統の「男系男子継承」否定に傾くのは当然の流れといえます。
反天皇の立場に立つ研究者らが、古代の父系社会を否定し、双系制の存在を主張しているのに対して、逆に母系制の存在を否定する見方もあります。
民俗学者の江守五夫・千葉大学名誉教授は、柳田国男は古代には妻訪(つまどい)婚が支配的だったが、中世武家社会に嫁入婚が形成されたと説いた、かつてはこれが通説だった、しかし婚姻習俗には南方系の一時的訪婚、北方系の嫁入婚、玄界灘型嫁入婚、北陸型嫁入婚などの類型がある、嫁入婚がすべて妻訪婚から変化したとする一元的な通説には疑問がある──と述べています(江守『婚姻の民俗』1998年)。
マルクス流の単線的、直線的な段階的社会発展説によって、多元的で多様な日本の家族史を論じることに、もともと無理があるのではないでしょうか。いわんや政治的動機から歴史を論じることは、曲学というものにほかならないでしょう。
▢ 絶対無私なる祈りの連鎖
女帝容認を唱道する中野記者は著書のなかで、皇位の「男系男子」継承を皇室の「固有の伝統」と見る見方は、天皇制の研究が進むことによって
「最近ではだいぶ怪しくなってきた」
と指摘しています。古代研究の進展に伴い、歴史の実態が明らかになり、「万世一系」「男系男子継承」という従来の固定的なイメージとは異なる天皇制の古代像が浮かび上がってきた、正しい古代像に従えば女性天皇が容認されるべきだ──という論法なのでしょう。
しかし、中野記者の論理には「伝統」というものに対する誤った思い込みがあるのではないか。中野記者は、伝統主義を、あたかもタマネギの皮をむくように、現代から近代、近世へ、さらに古墳時代、弥生、縄文と過去をさかのぼり、古い時代の有り様を本来の姿と考え、そのような過去を模倣することだ、と誤解していませんか。
過去がすなわち伝統なのではなく、伝統とは歴史的に獲得されたものでしょう。過去をふり返り、先人たちの知恵に学ぶことが伝統主義であり、であればこそ、明治の時代には「復古」の名の下に「維新」が成し遂げられています。そうでなければ、明治の皇室制度はことごとくといっていいほど、非伝統主義の烙印を押されかねないのではありませんか。
そもそもいつの時代を「古代」と考えるのか。天皇の制度が日本社会に発生する以前の「古代史」を研究し解明することが、皇室の伝統を明らかにすることになり得るはずもありません。天皇制成立以前の古代社会が男系社会か否かは、皇位の男系男子継承主義とはまったく無関係です。
反天皇の立場に立つ「古代史」研究がどのように進もうとも、男系男子による皇位継承の伝統は微動だにしないでしょう。
その点、有識者会議が
「伝統とは、必ずしも不変ではなく、各時代において選択されたものが伝統として残り、またそのような選択の積み重ねにより、新たな伝統が生まれる」
としているのはある面、正しいのですが、女系継承に道を開く選択はとうてい承認することができません。皇位継承の伝統の本質を真っ向から否定するものだからです。
朝廷をも従わせようとした家康について冒頭に書きましたが、これに対して後水尾天皇は、徳川三代のたび重なる挑戦に激怒され、譲位の御意向を表明され、落飾されました。けれども、後年はさすがに円熟されたと伝えられています。そのことがうかがえるのは後光明(ごこうみょう)天皇への御訓戒の宸翰(しんかん)で、天皇のもっとも重要なお務めは神事であると明記されています。
「敬神を第一に遊ばすこと、ゆめゆめ疎かにしてはならない。『禁秘抄』の冒頭にも、およそ禁中の作法は、まず神事、のちに他事とある」。
皇室の弱体化を図ろうとする徳川幕府の策謀は百も承知のうえで、僭越(せんえつ)・非道の幕府の措置に従容と従い、平安の境地にまで御自身の御心を磨かれるという至難の帝王学を実践され、武の覇者に天皇の御徳を示され、皇室の御尊厳を守られたのです。
それはやがて徳川光圀(みつくに)が『大日本史』全 397巻を編纂するに当たり、後水尾院の勅許(ちょっきょ)を賜ることにつながり、御志は明治維新の源流ともなったのでした。
諸外国の国王とは異なって、天皇は万世一系の祭り主だといわれます。歴代天皇は、国家と国民のために、たとえ刃向かう者であろうとも、絶対無私の祈りをつねに捧げてこられました。天皇の私なき祈りの連鎖こそ皇位の本質でしょう。
天皇に姓はなく、肉親の葬儀に参列せず、わが子をお手元でお育てになることをされなかったのは、ひとえにこの公正無私のお立場ゆえではなかったでしょうか。あえて俗流にいえば、人の子であれば肉親の情はやみがたいけれども、つねに
「国中平らかに、民安かれ」
と祈られる天皇のお立場には私情を差し挟む余地はないのです。俗人なら自分のため、家族のために祈るのが普通ですが、天皇にはそれが許されないのです。
女性天皇を認め、あまつさえ女系継承を認めれば、愛する夫があり、あるいは身重の女性に宮中祭祀の厳修を求めることになります。
もっとも重要な新嘗の祭りは11月下旬の津々と冷える深夜に行われます。厳重なる潔斎の上、暖房などあるはずもない皇居・賢所の薄明かりのなかで、皇祖神ほか天神地祇と相対峙され、無私の祭りをお務めになることを要求するのは、あまりにも酷というものではないでしょうか。
まして「皇胤」を宿した御妊娠中の女帝に、絶対無私なる祈りが可能でしょうか。
有識者会議では「宮中祭祀の代行」について質疑があったと伝えられます。
「今は昔より妊娠・出産の負担は軽い」
という発言もあったといいます。国の命運を一身に背負われる祭祀の真の厳しさを深く理解せずに、形骸化を促す愚論といえるでしょう。歴史上の女帝が寡婦もしくは独身を貫かれたのは、それでなければ国家第一の祭祀王としてのお務めが果たせないからでしょう。
まして女系継承を認めれば、皇祖神の神勅以来、国と民のためにひたすら祈られる天皇の祭祀の連鎖がとぎれてしまいます。そうまでして従来の制度とは根本的に異なる、もはや天皇の制度とはいえない、いわばネオ象徴天皇制をなぜ創設したいのか、まったく理解できません。
憲法学者の小嶋和司・東北大学教授は明治の時代を振り返り、こう指摘しています。
明治の憲法草案起草が始まった明治9年ごろ、女帝認否は喫緊の課題でした。明治天皇に皇男子はなく、皇族男子は遠系の四親王家にしかおられなかったからです。のちの大正天皇、嘉仁親王が誕生されたのは十二年、以後も皇男子は一方のみでした。しかし明治典憲は女帝を否認したのです(『小嶋和司憲法論集二 憲法と政治機構』1988年)。
明治人の見識の高さをうかがわせます。
その見識が皇室典範有識者会議には感じられないのです。いま皇室典範改正作業は表向きは沈静化していますが、水面下では着々と動いているようです。日本開闢以来の皇統の危機、すなわち日本の危機であることに変わりはありません。(肩書きはいずれも執筆当時)
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