日本文化としての『天皇』とは──上田篤名誉教授のご主張を批判する(2006年5月12日)
◇1 駒桜
桜前線が津軽海峡を越え、函館、札幌でもソメイヨシノが開花したようです。
東京では彰義隊が壊滅した上野が桜の名所ですが、函館では戊辰戦争の最後の戦いが繰り広げられた五稜郭が桜の名所になっています。花は桜木、人は武士。繚乱の桜は1つの時代を駆け抜けたサムライたちの挽歌です。
先月、帰郷した折、平地ではソメイヨシノなどが満開でした。
山の方に最近、売り出し中の桜の大木があるというので連れて行ってもらいました。女神山の山すその急斜面に、ポツンと1本たっているエドヒガンザクラで、樹齢は400年ともいわれ、町の天然記念物です。その昔、乗ってきた馬をここで返したことから、「駒桜」という名前が付いたとのことでした。見頃になるとたくさんの花見客が集まるそうですが、そのときはまだつぼみで、人もまばらでした。
◇2 小手姫伝説
駒桜が咲く、標高600メートルの女神山は、県の百名山の一つに数えられる秀峰ですが、ここには皇室にまつわる悲しい物語が伝えられています。
この地方はかつては「小手郷(おてごう)」と呼ばれ、つい最近まで養蚕と機織りが盛んでした。
言い伝えによれば、暗殺された崇峻天皇(6世紀末)の妃・小手姫は、北海に流された王子のあとを追って旅に出ました。この地方に落ち延びた姫は、土地の人々に蚕を飼い、機を織ることを教えたことになっています。町には姫が70歳のときに身を投じたとされる池があり、そして遺骸が葬られたとされるのが女神山です。もちろん小手郷の地名も姫の名前にちなみます。
明治以後、小手郷は日本屈指の機業地へと発展し、大正期には県唯一の工業地帯ともいわれるようになりますが、産業の隆盛を精神的に支えていたのは、美しくも悲しい小手姫の物語でした。
こうした物語が伝えられているのは小手郷だけではありません。日本各地にそれぞれの皇室の物語があって、それらが多様で豊かな日本の文化を形成してきたのでしょう。
◇3 ヒメの霊力
さて、雑誌「諸君!」6月号に、京都精華大学名誉教授の上田篤氏が「男系・女系論争の前に、『日本文化としての天皇』を語れ」という論攷を寄せています。
上田氏は、日本の風土に着目し、天孫降臨神話を解剖し、歴史を振り返って、日本文化としての天皇は、「女系原理の巫女制」「男系原理のヒメ・ヒコ制」に次いで、前天皇制をふくむ二千年つづいた天皇制の流れを受け継ぐ「天皇の長子継承制」という第三の局面に入った、と見ていいのではないか、と書いています。
縄文時代から古代の氏族社会、大和国家成立の時代を追い、女系社会が男系社会に変わり、前天皇制のヒメ・ヒコ制から男性原理をもったヒメ・ヒコ制へと変わり、ヒメの霊力をもったヒコとしての天皇が登場し、1300年間、つづいてきた、と上田氏は解釈します。
そして、男系原理が導入されたとはいえ、父系家族が出現したわけではなく、天皇は実質的には独身だった。ところが、現在では「天皇家」はふつうの家庭になってしまった。したがって男系にこだわる意義も条件もない、と議論を発展させ、この際は「血統」を尊重して長子継承で行くのがもっとも明快である、と結論づけています。
上田氏は、近代の天皇制は、日本文化としての天皇がまったく消し去られた悲劇の歴史であるとまで述べていますが、それは日本文化としての天皇の本質を古代の巫女制に源を発する「ヒメの霊力」と見ているからなのでしょう。
◇4 歴史の事実
いくつか問題点を指摘させていただければ、第一に、歴史時代の皇位は男系男子によって継承されてきたことはまぎれもない事実です。前史時代の神話解釈によってあらためて千数百年の天皇の歴史を読み直し、男系男子による継承制度に変更を加える必要がなぜあるのか、私には理解できません。
第二に、「一夫一婦制を前提とした男系主義で行くと、男子の産まれる確率は低い」という断定は明らかにいいすぎで、だから「長子継承」がいい、と飛躍するのではなく、男系が絶えないような工夫が求められるのではないでしょうか。「第三の局面」の提唱は歴史時代の天皇の制度を根本的な変革をもたらすものです。
第三に、「ヒメの霊力」を天皇の本質と見る上田説に従えば、「ヒメ性」を否定した近代の天皇制は「悲劇」と映るのかもしれませんが、逆に近代において天皇の祭祀が整備され、制度的に確立されたのもまた事実でしょう。「霊力」が否定されているわけではありません。
◇5 当たり前のこと
第四に、上田氏の議論は、天皇制の実態が明らかにされていない、国民は日本文化を知らない、という知的認識の欠落を出発点に置いています。
しかし、日本文化としての天皇が学問的に必ずしも明確になっていないのは、天皇の存在が日本人にとって当たり前のことだからでしょう。当たり前のことはあえて知的に理解する必要はありません。江戸時代の国学にしても、外国文化との接触が契機となり、知的自覚が要請されたからだと聞きます。
当たり前、ということは、知性のレベルで日本文化としての天皇を理解せずとも、感性のレベルでは天皇・皇室は日本人の身近な存在であり続けたということでもあります。冒頭に述べた小手姫の物語は一例に過ぎません。
ほかの例を挙げるなら、ひな祭りがいい例ではありませんか。内裏びなは天皇そのものです。毎年、3月になると、日本国中でお雛様を飾り、女の子の幸せを神に祈る、これが日本文化なのではありませんか。「現代の日本人から日本文化が失われた」などと簡単にいうべきではないでしょう。
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