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[話題]「君が代」の「君」は天皇とは限らない──民衆の歌であり、かつ天皇の歌(2008年03月11日)


▼反天皇闘争を展開する反対派

 卒業、入学のシーズンは憂鬱です。教育の場に政治を持ち込む日の丸・君が代ニュースが、否が応でも飛び込んでくるからです。

 国旗国歌法成立から10年近くにもなるのに、混乱が収まりません。というより、法制化には日の丸・君が代反対派の戦略があったといわれます。法制化を促したうえで、成立後は将来の国旗・国歌変更をにらんで、強制反対、学校行事への定着反対の政治闘争を戦略的に展開しているのです。

 つい先日も東京地裁の判決が伝えられました。卒業式で君が代斉唱などを拒否したことを理由に、教育委員会が再雇用を拒否したのは違法だと判断したのです。教職員に起立・斉唱を求める職務命令は違憲ではない、として判決は原告の主張を却けていますが、メディアの報道はあたかも君が代それ自体に問題があるかのような印象を与えています。

 対立の中心は天皇問題にほかなりません。政府は「君が代」を「天皇を国および国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念」する歌と理解し、天皇制反対派は「天皇の歌」を忌避しています。裁判闘争は反天皇闘争にほかなりません。


▼光孝天皇のお歌も世阿弥の謡曲も

 しかし文学的、歴史的に見ると、「君が代」を単純に「天皇の歌」と理解するのは間違っています。

 「君が代」の歌が最初に登場するのは、古今集巻第七賀部です。賀歌(がのうた)とは40、50、60歳と一定の年齢に達した人へのお祝いの歌で、この歌が賀歌部の冒頭に「題しらず、読人しらず」として掲げられているのは、当時すでに広く知られた古歌であることを意味します。ただ首句は「わがきみは」で、今日と異なります。

 祝賀の対象はむろん天皇とは限りません。光孝天皇が僧正遍昭の長寿を願って歌われた御歌には「君が八千代に逢ふ由もがな」という、よく似たフレーズが用いられています。「君」は必ずしも天皇を指すのではありません。光孝帝は百人一首の「君がため春の野に出でて若菜摘む」の作者でもありますが、この「君」もやはり天皇ではありません。

 首句が「君が代は」に定まるのは鎌倉時代以後といわれますが、この場合も天皇とは限らなかったのです。朝廷に用いれば聖寿万歳を寿ぐ意味になり、民衆に用いれば長寿を祝う歌として神事や仏事、宴席で盛んに歌われたのでした。

 世阿弥が作った「老松」という謡曲は、都の梅津某が夢のお告げに従って、筑前太宰府の安楽寺(天満宮)に参詣し、松の神木の傍らで旅寝していると、神霊が現れ、舞を舞い、「これは老木の神松の千代に八千代にさざれ石の巌となりて」と御代を寿ぎ、鶴亀の齢を「この君」に授けるとの神託を告げ、行く末万歳のめでたきを祝います。「この君」とは天皇と解されますが、曲は今日、一般の祝宴でしばしば謡われています。


▼自然に獲得された国歌の地位

 明治になって新しいメロディーがつけられますが、面白いことに、法的に国歌と位置づけられたわけではありません。

 国語学者の山田孝雄(やまだ・よしお)によると、当時、陸軍、海軍を問わず複数の「国歌」があったようで、宮内省作曲の「君が代」はその一つにすぎませんでした。学校でも「国歌」として教えられたことはないのですが、いつしか「国歌」の第一のものと認められ、「国歌」としての公式の布告もないまま、自然のうちに人々が「国歌」と唱え、認めてきた、と山田は解説しています。

 君が代は民衆の祝い歌であり、かつ天皇の歌であり、他国の国歌とは違って、権力的に制度化されたわけではないのに、千年以上の長い歴史と伝統の中で、国歌としての地位を自然に獲得してきたのです。世界に誇るべき大きな特徴といえます。


 参考文献=山田孝雄『君が代の歴史』(宝文館、1956年)など

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