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天皇学への課題──二本松落城直後、小手郷で生まれた曾祖母のこと。新たに作られる天皇の物語。情緒的天皇論の限界(2010年3月2日)

(画像は二本松城。福島観光情報サイト「ふくしまの旅」から拝借しました。ありがとうございます)


 まずお知らせからです。

 佐藤雉鳴さんの連載「『国家神道』異聞」が前回で終了しました。敗戦後、占領軍に過酷な神道撲滅政策をとらせ、政教問題が泥沼化して、今日に至っている原因は、日本人自身の誤った教育勅語解釈にあることを、佐藤さんが資料的に明らかにしてくれました。

 さて、明日は3月3日の桃の節句、楽しいひな祭りです。

▽1 二本松城落城後に生まれた曾祖母


 男女一対のお雛様は、天皇と皇后がモチーフです。それは内裏雛(だいりびな)、つまり皇居のお雛様という呼び名が端的に示し、天皇だけに許される立纓冠(りゅうえいのかん)や黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)を見れば、男雛がまさしく天皇であることが分かります。

内裏雛@ひな祭り文化普及協会HP
〈http://hina-matsuri.jp/top.php〉

 天皇を模した雛人形を飾り、ぼんぼりを灯し、白酒をささげ、女の子の健やかな成長と幸せを祈る伝統行事は、日本人の深い天皇意識に支えられ、今日まで続いています。

 日本人の天皇意識は一様ではありません。それぞれの地域に伝えられる天皇の物語がそのことを教えてくれます。私が生まれ育った土地にも天皇の物語が語り継がれています。それは私個人のルーツとも関わっています。

 私の母方の曾祖母は、奥州二本松城落城から2週間後に生まれました。『二本松藩史』は落城前夜、老幼子女たちが城を脱出したこと、その中には身重の女性が何人かいたことを記録していますが、そのうちの1人が曾祖母を生んだ女性なのかと想像します。

 朝廷に楯突く賊軍とされ、身分を隠して生きながらえるほかはなかったであろう、曾祖母の正確な出自を証明する資料は、残されていません。叔母の手元に代々、大切に伝えられる脇差しがある程度です。

 曾祖母はいくつも山を越えた山里の農家にかくまわれました。当主は天台宗の菩提寺の檀家総代を代々、つとめ、地域内の共同墓地は一族の墓で埋め尽くされています。

▽2 崇峻天皇の妃が伝えた養蚕と機織り


 子供のころは奥座敷に一日中、正座していたという曾祖母は、30を過ぎて、その家の次男の嫁となりました。2人のあいだに生まれたひとり息子が私の祖父ですが、曾祖母は「武士の子」である誇りを忘れぬよう言い聞かせ、育てたのでしょう。長じて結婚した祖母と夫婦喧嘩するときは、決まって「平民の子」とののしったのでした。

 賊軍の末裔が逃げ延び、生きながらえた理由の1つは、この土地が幕府直轄の天領である一方で、古くから朝廷との関わりが浅からぬ土地柄であったことがあげられます。

 この地方は古くは「小手郷(おてごう)」と呼ばれ、小手姫(おてひめ)伝説が伝えられています。崇峻天皇暗殺事件ののち、北海に流されたわが子・蜂子(はちのこ)皇子のあとを追い、この地に落ち延びた天皇の妃・小手姫は、人々に養蚕と機織りを教えました。

 70歳のとき、姫は泉に身を投じ他界します。遺骸を葬ったとされる山は女神山で、女神神社が鎮まり、山から流れる川は女神川と呼ばれます。地域には小手姫を祀る機織神社が点在し、人々は機を織った織り留めを神社に奉納することを習わしとしました。

 小倉百人一首に、嵯峨天皇の皇子・河原左大臣の歌が収められています。

みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに

 小手郷の絹織物は、平安期には都の殿上人や僧侶たちに愛用される特産品として知られていたようです。

 時は移り、明治末期には福井、石川と並ぶ日本屈指の機業地に発展し、大正時代には特産の羽二重(はぶたえ)は全国生産量の1割を占めるまでになり、県唯一の工業地域といわれたのですが、これを支えていたのは小手姫伝説に象徴される天皇意識であり、わが祖先が追っ手を避けて生き延びられたのも皇室との関わりが浅からぬ土地柄だからでしょう。曾祖母が身を寄せたのは女神山のそばでした。


▽3 情緒的天皇論ではすまない


 天皇の物語は各地にそれぞれ伝えられています。しかもそれはけっして過去の産物ではありません。新たな物語が現代という時代にも生まれています。

 たとえば、平成7年の阪神大震災のとき、ワシントン・ポスト紙は、今上天皇が被災者を見舞われたことを大きく取り上げ、村山富市首相が震災2日後に被災地を訪れたときに「あざけりと不平に迎えられた」のとは対照的に、感謝と感動の言葉が聞かれた。両陛下の訪問であたたかい気持ちが芽生えた。震災後、迅速で果敢な救助・救援活動を実行することができず、5100人の人々を犠牲にした政府に対する批判や非難に歯止めがかかった、と書きました。

 国と民のために捧げられる天皇の祈りは、神戸市民のような進歩的都市住民の心に響き、強く共鳴します。天皇と国民は濃い感性で結ばれ、天皇の文明は天皇意識に支えられ、続いてきました。

 しかし、そのような情緒的天皇論ではすまない状況がいま目の前にあります。感性論的な天皇論は目前の課題を見落とし、あまつさえ反天皇論者に与(くみ)し、オウン・ゴールを招きかねません。口先だけの尊王論はなおのこと、百害あって一利なしです。

 その昔、わが二本松藩では最後の決戦を前に、家老丹羽一学は「降るも亡び、降らざるもまた亡ぶ。亡は一のみ。むしろ死を出して信を守るに若(し)かず」と悲壮なる檄(げき)を飛ばしたといわれます。主力を欠いたまま絶望的な抗戦を強いられ、藩を滅亡させた主因は、結局、時代が見えなかったからだろうと私は考えます。二本松少年隊の悲劇はそのあとに続きました。

 時代を見失ってはなりません。新たな天皇学の構築が求められるゆえんです。

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