衝撃の事実!!「立皇太子儀」は近世まで紫宸殿前庭で行われていた──『帝室制度史』を読む 前編(令和2年3月31日)
(画像は紫宸殿。京都御所)
4月に予定される「立皇嗣の礼」の儀礼が立儲令附式(明治42年)とはかなり相違点があるというお話をしてきました。「賢所大前において」(立儲令第4条)行われる神事から宮殿での無神論的儀礼となり、賢所での儀式は「国の行事」(国事行為)ではなく、「皇室行事」となりました。
戦後の政教分離原則を基準とする、「国の行事」=無宗教儀式=宮殿、「皇室行事」=宗教儀礼=賢所という対立の図式はいつ、どのようにして生まれたのでしょうか。
▽1 明治の立儲令こそ非「慣例」的
政教分離原則に基づいて、「国の行事」(または「国の儀式」)と「皇室行事」とに二分され、片や「国の行事」は無宗教儀式とされ、片や宗教儀礼は「皇室行事」とするという二分方式の考え方は、平成および令和の御代替わりでも見られたことでしたが、発生はもっと遡れます。
皇居の奥深い聖域・賢所大前での結婚の儀を「国の儀式」(天皇の国事行為)と法的に位置づけ、したがって宮中祭祀はすべて「皇室の私事」と位置づける戦後の法解釈を一気に打破した一大画期と一般に評価されるのは昭和34年の皇太子御成婚ですが、じつはこれもまた、ほかならぬ二分方式でした。
ただこのときは、宗教儀礼か否かではなく、中心儀礼である「結婚の儀」「朝見の儀」「宮中祝宴の儀」が「国の儀式」とされ、ほかの諸儀式は皇室行事とされました。
【関連記事】「国の行事」とされた今上陛下「結婚の儀」──歴史的に考えるということ 6〈https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/2013-05-19〉
「従前の例に準じて」とする昭和22年5月の依命通牒第三項に従うなら、行事の全体が「国事」とされるべきで、二分方式は不要のはずです。なぜ二分しなければならないのか、依命通牒に基づかない無宗教的「国の行事」はいつ始まったのか、前回は、同27年の独立回復後最初の「国事」となった継宮明仁親王(いまの太上天皇)の立太子礼にその兆しが見えることを、当時の国会議事録から明らかにしました。
答弁に立った宇佐美毅宮内庁次長(のちの長官)は二分方式を説明するなかで、皇室の「慣例」「慣習」とは別に「国事としての儀式」を行う旨、明言しました。宇佐美もしくは宮内庁の判断は、皇太子を立てる皇室の儀式は賢所において神道的に行われるのが慣例(伝統)だったという歴史理解が前提です。一般の理解も同様でしょう。
ところが意外なことに、この理解はどうも間違いのようなのです。少なくとも立太子礼に関して、皇室の「慣習」は必ずしも「神道」的ではなく、明治の立儲令がむしろ非「慣例」的らしいのです。
そのように言える根拠は、「国家神道」時代と一般に考えられている昭和12年から20年にかけて、御下賜金をもとに、帝国学士院が編纂した『帝室制度史』全6巻にあります。第4巻の「第二章皇位継承 第四節皇嗣 第一款皇嗣の冊立」に、「立皇太子儀」はかつて紫宸殿前庭で行われたと明記しています。賢所で宗教的に行われる立太子礼は昭和天皇に限られるということでしょうか。驚くべき事実です。
以下、さっそく『帝室制度史』の記述を読んでみます。なお読者の便宜を考慮し、適宜編集してあります。私のコメントも加えてあります。原文をお読みになりたい方は国立国会図書館デジタルコレクションでどうぞ。
▽2 天皇の「宣命」から皇嗣の「宣明」へ
第四節皇嗣 第一款皇嗣の冊立(『帝室制度史第四巻』199ページから)
「皇嗣は天皇在位中にこれを選定冊立したまふことを恒例とす。『日本書紀』神武天皇42年正月の条に『皇子神渟名川耳(かむぬなかわみみ)尊(綏靖天皇)を立て、皇太子となす』と見えたるをはじめ、歴代天皇はおおむねその例によりたまへり」
『帝室制度史』は「皇太子」とせず、「皇嗣」と表現しています。現行皇室典範も「皇嗣が即位」です。秋篠宮は「皇太子」ではなく、「皇嗣」とされています。慣例優先か、あるいは法律用語優先なのか。
「皇嗣の冊立ありたるときは、その皇嗣が皇子または皇孫なると、皇兄弟またはその他の皇親なるとを問はず、これを皇太子と称す。冊立によりて皇嗣たる身位はじめて定まり、皇太子の称またはじめてこれに伴ふ。ときとしては、皇弟を立てて皇嗣としたまふ場合に、とくに皇太弟と称したまへる例あり」
秋篠宮は「皇太弟」でもいいはずですが、そのようには称されません。やはり皇室典範の法律用語が優先された結果でしょうか。
「皇太子は『ヒツギノミコ』と訓めり。あるいは東宮または春宮と称す。けだし御在所の称より出でたるなり。そのほか儲君、儲二などの別称あり」
「皇太子の冊立にあたり、とくに詔したまへることの国史に見えたるは、『日本書紀』継体天皇の条に、皇子勾大兄(まがりのおおえ。安閑天皇)を皇太子となしたまふにあたり、『よろしく春宮を処し、朕を助け仁を施し、吾を翼し闕を補し』と詔したまへる旨を記せるを最初とす。
『続日本紀』聖武天皇の条にも、皇子の誕生にあたり、『新誕皇子、宜立為皇太子、布告百官、咸令知聞』と詔したまへる旨見えたり。されど当時はいまだ一定の成例をなすにはいたらざりしが、光仁天皇以後は、皇太子の冊立にあたり詔をもって天下に宣示したまふことが、定例となすに至れり」
立儲令では天皇が賢所で勅語を述べられましたが、今回の「立皇嗣宣明の儀」では、宮殿で天皇の「おことば」に続いて皇嗣の「おことば」、さらに総理大臣の寿詞が続くことになっています。天皇による「宣命」ではなく、皇嗣の「宣明」に改変されています。
最大の問題は儀礼の中身ですが、長くなりますので、次回に譲り、今日はこの辺で。
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