沈黙した政治学者・橋川文三──知られざる「象徴天皇」論争 その3(2009年9月15日)
先週お休みした橋本明『平成皇室論』の批判を続けます。
その前に、ひとこと申し上げます。新連立政権の発足を直前にひかえ、羽毛田長官が先週の10日、記者会見で、皇室典範の改正問題に取り組むよう要請する意向を表明した、と伝えられます。
http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091001000994.html
つまり、男系男子に限定している現行の皇室典範を改正し、女性天皇のみならず、女系継承をも認める法改正を推進しようというわけです。
一点だけ手短に申し上げます。「歴史上、女性天皇がおられるのに、なぜ認めないのか」とおっしゃる方がしばしばいますが、不正確な歴史理解だと私は考えます。
なるほど推古天皇以来、女性天皇は古代から近世まで、8人10代おられます。しかしすべて未亡人か未婚で、独身を貫かれています。夫をもつ女性、あるいは妊娠中や子育て中の女性が即位した歴史はありません。この事実が重要です。
理由は何か。祭祀が天皇第一のお務めだからでしょう。私心を捨て、国と民のために、ひたすら公正無私なる祈りを捧げることを最優先するからです。
女性が夫を愛することは大切です。命をかけてでも子供を愛する女性は美しい。その価値を認めるならば、祭祀王にはふさわしくありません。女性に祭祀が務まらないというのではありません。女性差別でもありません。むしろ逆です。
天皇の切なる祈りの継承によって、国の平和と民の平安を築いてきた文明のかたちを深く理解するならば、女性天皇容認、女系継承容認の法改正は反対せざるを得ません。宮内官僚らが進める皇室典範「改正」は、日本の歴史と伝統を破壊し、天皇を完全に名目上の国家機関化する「ネオ象徴天皇国家」への変質を招きます。
▽1 これまでのおさらい
さて、当メルマガはvol.91から、皇太子殿下の「廃太子」を進言する「ご学友」橋本明・元共同通信記者の『平成皇室論』を取り上げ批判しています。vol.94からは、約50年前に「思想の科学」誌上で展開された、知られざる論争を紹介しています。
目的は、政治体制の歴史を世界史的に単線的にとらえる一方で、国の安定性の要因を君主の倫理性に求める橋本さんの皇室論の誤りを、浮き彫りにするためです。
簡単におさらいすると、同誌昭和37年4月号の天皇制特集号に載った、戦後唯一の神道思想家・葦津珍彦(あしづ・うずひこ)の論文は、唯一の天皇擁護論で、敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に一様に移行する、というようなドグマに根本的な疑問を呈しました。
これに対して、明治大学教授で評論家の橋川文三による批判論文が同年8月号に載ります。しかし内容は批判とはほど遠いものでした。橋川は真正面からの論争を避け、自分の十八番(おはこ)の政治学、政治思想史の分野で天皇制批判を試みます。
つまり、(1)近代天皇制は、悠久の天皇史とは異なる、明治時代の創作ではないのか、(2)明治以後の国体論は膨張主義、帝国主義のシンボルだったのではないか、と指摘するのでした。
▽2 根拠をつまみ食いする非科学的態度
葦津の問題提起を避け、橋川は自分の土俵に引き込もうとします。これに対して、葦津は翌年10月号で、相手の土俵のうえでの論争に真っ向から応じ、具体的に丹念に批判します。
まず第1点。明治の「国体」思想は無からの創造だったのか否か。橋川と葦津の見方を以下、対比させてみます。
まず、思想を科学する手法について、です。橋川は「老人のつぶやき」に耳を傾けます。
橋川 明治維新は上からの革新で、それまで日本人の生き方になかった要素を加えた。宮本常一『村里を行く』にあるように、「昔は良かった」というのが終戦までの老人たちのつぶやきのほとんどだったが、終戦後はまるで変わった。「昔は良かった」という者はほとんどいない。明治維新と敗戦のあいだにあったものが過渡的な異物であったことを暗示する。
しかし葦津は、この橋川の姿勢を、根拠のつまみ食いであり、「非科学的」と批判します。
葦津 幾人かの老人の言葉から解釈を引き出し、明治維新の問題を提出するのは、まったく非科学的だ。同じ手法で異なる言葉を引用すれば、まったく反対の説がたやすく展開される。橋川氏も宮本氏も「昔は良かったという者がほとんどない」と思っているようだが、私はそうは思わない。たとえば、憲法改正論が多数派を大きく揺り動かしている。
次は、明治維新をどう見るのか、です。橋川は「国体」の創出者として伊藤博文を取り上げます。
橋川 伊藤博文らが起草した明治憲法は、国民的統合の創出を最大の任務としていた。それは現代では想像もつかない困難な課題であった。「国家の基軸」とすべきものが欠如していたからである。そこで伊藤は、国体の憲法を作ろうとした。学校や鉄道、運河と同じように、「国民」を作り、「貴族」を作り、「国家の基軸」を創出した。近代国家となるには、自然的・伝統的天皇と異なる超越的統治権者の創出が必要だった。この国体は、民衆の宮廷崇拝やおかげ参りの意識とは異質のものだった。
これに対して葦津は、伊藤の人物論からはじめ、橋本の言い分をほとんどコテンパンに否定します。
▽3 基軸として存在するのは皇室のみ
葦津 橋川氏は伊藤を明治帝国建設の英雄と見ているらしいが、大久保利通亡き後、閣内で有力だったのは保守的岩倉具実と進歩的大隈重信の2潮流である。伊藤は欧化貴族主義者で、議会の無力化に熱心なだけだった。そのことは中野正剛が『明治民権史論』に書いている。伊藤は俗物的官僚主義者に過ぎない。「国体を創造」するような政治思想家ではない。
橋川氏は「我が国にありて基軸とすべきはひとり皇室のみ」という伊藤の演説を引用するが、基軸が現存しないから、新しく創出するという意味ではない。基軸としてすでに存するのは「皇室」だけだということである。『憲法稿本』の朱書にみずから明記しているのを見ても疑う余地がない。伊藤に国体創出のアムビションがあろうはずはない。
橋川氏は、伊藤が仏教や神道の力を軽視した点に興味を示しているが、問題にするほどではない。伊藤は全野党から極端な欧化主義を糾弾された。神道や仏教を軽視したのは怪しむに足らない。宗教問題を検討するなら、伊藤1人の見解ではなく、憲法そのものの神道に対する公的関係をこそ究明しなくてはならない。
橋川氏は伊藤と金子堅太郎の「国体」論争を引用しているが、2人の論争は用語論争であって、思想的対決があったわけではない。結局、伊藤は金子説に同意している。しかるに橋川氏は、議論の一致した事実を知らないかのように書いている。事実を知っていながら故意にゆがめるような修辞法は、科学的論文の上では認めがたい。
帝国憲法の制定によって国体価値が創造された、という説には無理がある。しかし明治維新によって、統治権者としての天皇の本質が創造された、との説をとる学者は少なくない。江戸時代には統治権者としての性格がなかった、という説で、新憲法を弁護する御用学説として現れた。佐佐木惣一博士と和辻哲郎博士の論争が有名で、橋川氏が江戸時代の宮廷崇拝と明治の天皇制とは異質だと主張するのと通ずる。
私は、佐佐木説の方が正しいと思う。最近、西田広義氏が詳細な研究を発表し、江戸時代における天皇の統治権総覧者としての地位を明快に論証している。そのほか、オランダ商館長など、江戸時代の日本を見た外国人が、天皇を「精神的帝王」と表現している。日常の行政に直接関与しないというだけで、最終の国家統治権は天皇に属すると認めている。
江戸時代の宮廷崇拝が政治と無縁だったと考えると、明治維新の政治思想史は理解しがたいものとなる。ひな祭りに見られる天皇崇拝と天皇統治の神国思想とは結びついており、現代まで脈々と続いている。伊藤が「創造」したと言うほど、根の浅いものではない。
しかし「伊藤が貴族を作り出した」とする橋川氏の主張には反対しない。明治の貴族制度は伊藤の創出したものと解釈していい、根の浅いものだったが、国体意識の根の深さはまったく異なる。
▽4 異民族解放と結びついた国体論
第2点目として橋川が提起したのは、日本の国体と植民地の人々との関係でした。
橋川 明治の領土拡張のあと、国体は普遍的価値として、「八紘一宇(はっこういちう)」の根源的原理として現れている。単に日本の歴史的特殊事情に基づく国柄という域を超え、人類のための当為─規範の意味を帯びるに至った。膨張主義的規範であった。
国体論は、「帝国主義」権力そのものの神義論という本質をもっていた。宗教と政治の無差別な一体性の空間的拡大ということが日本の帝国主義の顕著な特質であった。日本の「国体論」はこの百年の歴史について責任を負っている。
一方、葦津は、橋川のあげた例を否定はしないが、それだけでは不十分だと批判します。
葦津 第1に、明治以来の日本の国体思想家とアジア解放運動との関係を見ていく必要がある。アジア解放の思想と植民地朝鮮・台湾問題とがどのような関係にあるか。頭山満や内田良平、北一輝らアジア解放運動に不惜身命(ふしゃくしんみょう)の活動をし、命を捧げた人もいる。ロシア革命の援助に熱意を示した人もいる。橋川氏のように「帝国主義権力そのものの神学という本質をもっていた」と割り切れない。
問題は複雑である。内田良平は「日韓合邦」の推進者の筆頭で、典型的な帝国主義者とされているが、韓国農民の指導者・李容九は内田と結び、一進会百万人を動員して日韓合邦のために努力した。しかし、理想は裏切られ、「朝鮮併合」となり、李容九は悲劇的な死を迎えた。国体思想と植民地問題を究明するにのに、もっとも大切な点だ。
第2に、大戦中の国体論者として、満州国建国の推進者・石原莞爾の国体論は無視できない。満州国を日本の軍と官僚の専制支配下に置くことに反対した石原は、朝鮮・台湾の民族解放に熱意をもっていた。そのため植民地解放を望んだ朝鮮人のなかにも熱心な東亜連盟員がいた。また石原の東亜連盟思想は日本の軍官民にかなりの影響力を持っていた。熱心な仏教的国体論者の石原を、主流派は「反国体的」と評したが、石原は主流派の権力思想こそ「反国体的」と猛烈に批判した。それほど同じ国体論でも性格が異なる。
神道的国体論についていえば、神道神学者の今泉定助や神兵隊指導者の前田虎雄は、朝鮮独立運動指導者の呂運亨を熱心に支援した。背景には、朝鮮神宮に天照大神を奉祀すべきではないとするなど、異民族の信仰強制に反対してきた思想の流れがある。橋本氏が書いているような側面だけではなく、使命感としての国体論が、異民族解放の論理と結びつくケースもある。
▽5 国体意識の多様性
葦津 第3番目として、社会主義者の国体論を無視してはならない。たとえば幸徳秋水は、皇統が一系連綿たるのは、歴代天皇がつねに社会人民全体の平和と進歩、幸福を目的としたため、繁栄を来したのである。これこそ東洋の社会主義者の誇りでなければならない。社会主義に反対するものこそかえって国体と矛盾するものではないか、と書いている。仁徳天皇を社会主義と一致するとし、国体を誇っている。これらは当時の社会主義者のあいだでは、不思議な現象ではなかった。
大正・昭和の安部磯雄にも共通性がある。満州事変後の無産党の国家社会主義的転向時代にはこの論理が著しい。積極的に「国体明徴」を望んだわけではなく、国体論的権力による社会主義思想の圧迫を回避する目的で国体論を利用したと理解するのが自然だろう。つまり、社会主義者たちは国体意識のなかに、みずからの主義主張を防衛しうるもの、政治権力の圧迫を防ぎ得る側面のあることを認識していた。そのような認識を引き出す要素が国体意識のなかにあったのだ。
このように、日本人の国体意識というものは、途方もなく複雑で、相反するような多様の思想が錯綜(さくそう)している。これを分類整理して、植民地の人々とのあいだにどのような意味を持ったか、論理づけることは容易ではない。けれども、だからといって2、3の例だけで割り切ってしまえば、「思想の科学」は成り立たない。
政治学、政治思想史の専門家である橋川は自分がもっとも得意とする分野で、一介の市井の神道思想家に過ぎない葦津に完膚無きまでに批判されました。そしてこれに対して、橋川がその後、再批判を試みたのかといえば、どうもそうではなく、完全に沈黙してしまいました。天皇制を思想として科学する機会は、尻切れトンボに終わったのです。
さて、話を橋本論文批判にもどします。すでに繰り返し申し上げているように、ポイントは、(1)議論の手法、(2)天皇・皇室観、(3)事実認識の3点です。葦津・橋川論争を踏まえて、次週は橋本さんの著書を読み進むことにします。