近代の神祇行政 (略年表) by 阪本是丸──氷川神社御親祭150年記念講演の資料から 5(2018年7月15日)
▽1 仁孝天皇の仏式追祭と神式例祭
・弘化三年一月二十六日崩御、四年二月六日一周聖忌を般舟三味院・泉涌寺で営む。
・文久二年二月二日から六日に十七回聖忌、清涼殿で懺法会、常御殿前庭に下御、泉涌寺山陵を遥拝。
・明治三年一月二十六日 仁孝天皇二十五年祭を神祇官で執行、明治天皇は賢所南庭で山陵遥拝、山陵に勅使差遣、祭典執行、また泉涌寺・般舟三昧院に中山慶子を差遣・代香、以後両寺の勅会法事を廃す。
・明治四年一月二十六日 神祇官神殿で例祭
・同年十月 「四時祭典定則」制定※により、仁孝天皇祭を式年の大祭とする。
因みに、同時に後桃薗天皇祭と光格天皇祭も大祭とされたことにより、後の皇室祭祀令に規定された「先帝以前三代の式年祭」(大祭)、「先帝以前三代の例祭」(小祭)へと繋がることになり、また神武天皇祭と孝明天皇祭は元始祭・皇大神宮遥拝・新嘗祭とともに天皇親祭の祭祀とされ、これまた皇室祭祀令に採り入れられていることはいうまでもない。
※「四時祭典定則」(及び「地方祭典」)については、改めてここで詳論するつもりはないが、これが皇室祭祀・神宮祭祀・神社祭祀の原型となる近代初の体系的国家祭祀の嚆矢であることはいうまでもない。
▽2 明治初年の神祇行政
(1)神祇官再興と神仏分離に向けての立案と実施
→津和野派国学者と平田派・守旧派公家層との軋礫・構想 (拙著『明治維新と国学者』大明堂、平成 5年、参照)。
・慶応三年十二月九日 王政復古の大号令 幕府・摂関制の廃止、諸事「神武創業」、三職(総裁・議定・参与)による新政府の樹立。
・慶応四年一月七日 神祇事務科 総督有栖川宮、中山忠能、白川資訓 掛 六人部是愛、樹下茂国、谷森善臣→津和野派(亀井茲監、福羽美静、大国隆正)は未だ登場せず。
・同二月三日 三職八局制 神祇事務局の設置(督白川、輔亀井、吉田良義、判事平田鉄胤、権判事植松雅言、谷森、樹下、六人部)→津和野藩主亀井の登場により、津和野派と平田派(矢野玄道等)との軋轢・主導権争い激化。
・同三月十四日 天神地祇誓祭→木戸孝允、福羽美静等の連携により天皇親祭体制を創出。
・同三月十五日 キリシタン邪宗門禁制の高札→浦上キリシタン問題による国民教化政策、信教自由問題が出現する端緒となる。
・同三月十七日 別当・社僧の還俗令。
・同三月二十八日 仏号による神号廃止、仏像の神体廃止。
・同四月十日 神仏分離による社人の粗暴を戒め、廃仏毀釈の趣旨ではないことを告知。
・同四月二十二日 浦上キリシタン処分を説諭で行うことを告知。
・同四月二十四日 菩薩号廃止。
・同閏四月四日 キリシタン宗門と邪宗門を改めて区別して禁制を掲示。
・同閏四月四日 還俗の別当・社僧は神主・社人と称し、還俗しない者は神社退去
・閏四月十七日 キリシタンの諸藩お預け
・閏四月二十一日 政体書神祇官の成立(律令二官制ではなく、太政官を議政・行政・神祇・会計・軍務・刑法の七官に分ける)→古代の神祇官・太政官再興を目指す守旧派勢力と志士官僚・津和野派等との駆け引き・抗争がこれ以降激化する。
・同六月二十二日 真宗各派に神仏分離は「廃仏」ではないことを改めて告知。
※戊辰戦争、大阪行幸、即位式、改号(一世一元の制・「明治」)、東京行幸、氷川神社御親祭など明治元年には多くの出来事があり、かつ未だ国内は不安定な時期であったのであり、各府藩県の地方官が中央政府の意向を無視した政策・行政を執行した
→各地の「廃仏毀釈」も地方官の行政を無視しては語れないことに注意。東京行幸、東京の「帝都化」(武蔵一宮氷川神社御親祭の有する意義)、東京・京都の主導争いを巡る神道家・国学者同士の角逐が神祇・宗教行政にも影響を与える。
これは、明治二年まで持ち越され、再度の東京行幸 (途中、史上最初の神官親拝)と戊辰戦争の終結により、ようやく新政府は少しく安定した体制となる。
(2)神祇官・宣教使による神道政策
・明治二年七月八日 神祇官・太政官再興
→神祗官は祭典・諸陵・宣教・祝部・神部を管掌することになり、古代の神祇官と異なり、山陵祭祀と神道(惟神の大道)を国民(キリシタンは無論)に教導する宣教という新たな使命を有して発足(伯・中山、大副・白川、少副・福羽、大祐・北小路隋光、権大祐・植松、少祐・小野述信、平田延胤)。
ただし、この時点では守旧派と津和野派等の痛み分けであり、これ以降、祭政一致体制を巡って激烈な主導権争いが展開する。
・同年九月十七日 諸陵寮設置→後の宮中三殿の皇霊殿と共に山陵祭祀による皇室の「敬神崇祖」の基盤となる。
・同年九月二十九日 宣教使官員設置→次官・福羽美静が主導権を握り、宣教使教官として多数の国学者を動員するが、教義・思想・学問的系統の相違等で内部統一が不能となり、国民教化を実施するまでに至らなかった。これが、仏教勢力を動員した国民教化政策への転換の要因となる。
・明治三年一月三日 神祇官神殿(東座・天神地祇、中央・八神、西座・歴代神霊)で祭典を執行し、「宣布大教詔」が出される。※明治五年からの元始祭の原型となる。
・同年八月九日 民部・大蔵を分省し、民部省に社寺掛を設置→同年閏10月 20日 に寺院寮と改制。
・明治四年一月五日 社寺領上知令。
・同年五月十四日 神社は国家の宗祀であり、社家の世襲禁止。社格制定。
・同年七月四日 郷社定則、氏子取調規則(六年二月二十九日施行停止)。
・同年七月十二日 神宮改革(内外両宮の差等、御師大麻廃止等)。
・同年八月八日 神祇官廃止、神祇省設置。宮中祭祀要員として大中少掌典等を置く。
・同年九月十四日 神器・皇霊の宮中遷座(近代皇室祭祀の原点)。
・同年十月二十九日「四時祭典定則」制定。
・同年十一月 大嘗祭、東京で斎行。
・同年十二月二十二日 神宮大宮司による神宮大麻の頒布。同日、左院は伊勢神宮の神器奉遷や教部省設置などを建議。宗教は教部省、祭祀は式部寮に分掌することが狙い。なお、左院が主張する神宮遷座論はその左院が廃止されるまで執拗に唱えられた。
※明治元年(慶応四年)三月の神仏分離以来、各地で廃仏毀釈が勃発し、それに危機感を抱いた各宗の僧侶たち(福田行誡・鵜飼徹定など)が明治元年12月に「諸宗同徳会盟」を結成したことは辻善之助以来著名であるが、その辻は「神仏分離・廃仏毀釈」に触れて、以下のように述べている。
「神仏分離に伴ふ廃仏は、その弊害ばかりでなく、一面に於て多少の利益をも齎したといはねばならぬ。即ち僧侶の不健全なる分子を篩ひ落し、之を淘汰した。之により、教界における一種の浄化作用が行はれた。僧侶は惰眠より覚めたのであつた。
若しかの処分がなかつたとするならば、その結果は如何であつたであらうか。生温い保護を明治政府が仏教界に与へて居たとしたらば、如何であらうか。仏教界は全くその活動力を失ひ、中風患者の如くなつたであらう。江戸時代における僧侶は、最早世間より全く厭き果てられ、棄て去られ、心ある者よりは指弾せられ、軽賤侮蔑の的となつて居たのであるから、明治時代になつては、尚甚だしく、全く世に歯せられざるに至り、仏教の衰微の極に達したであらう。」(『明治仏教史の間題』、立文書院、昭和24年)
これに対し、柏原祐泉はこう述べている。
「また翌年(三年)八月、浄土宗浄国寺徹定の公挙議案中に、「朝命」で各宗学徳端潔な者二、三名を選び、「暁諭師」として巡廻、策励させることなどの文献をみると、朝権による教団再建の意図が明らかにうかがえる。
したがって、会盟の議題の多くに再出発の理想的な項目が並んでいても、その主体的・自主的な実体化への努力は期待しがたく、特に旧態からの脱皮による自覚的仏教の確立などはのぞむべくもなかった。
したがって所詮は護法・護国・防邪の一体観に集約されることになるが、しかし近代の出発点に当って、まず諸宗が連帯した会合で、右のようないくつかの自省的議題を懸げえたことは、近代仏教の刺戟となったことを認めてよいであろう。」(『日本仏教史 近代』、吉川弘文館、平成2年)
このように、「諸宗同徳会盟」の意義についてはそれなりの評価がなされているのであるが、いわゆる狂信的な神道家・国学者による「神仏分離」=「廃仏毀釈」=「法難」という図式的理解で、明治初年の宗教政策が割り切られるものではないことだけは明らかであろう。
▽3 教部省・式部寮による国民教化運動と国家祭祀再編成
左院建議などを受けて、明治五年三月十四日に設立された教部省が、我が国におけるはじめての近代的かつ本格的な宗教行政専門官衙であったことはいうまでもないが、その最大の歴史的意義は、教導職制・大教院体制による神仏宗派(教団・宗教団体)の近代的再編及び創設であろう。
また教部省設置とともに旧神祇省の祭祀関係事務を継承した式部寮が明治八年制定の「神社祭式」制定に尽力したことは、周知の通りである。
(1)国民教化運動関係
・明治五年三月 神祇省廃止・教部省設置、祭祀関係事務は式部寮管轄
・同年四月二十五日 教導職設置。
・同年四月二十九日 神官教導職東西に区分。
・同年四月三十日 神仏各教宗派に教導職管長設置。
・同年六月十日 神宮大麻頒布の地方官関与を督励。
・同年八月八日 すべての神官、教導職兼補。
・同年十一月二十四日 大教院建設、全ての神社・寺院を小教院として氏子・檀家を教導。
・明治六年一月七日 法談・説法を「説教」に改称。
・同年一月十五日 梓巫市子憑祈祷狐下げの禁止。
・同年一月三十日 神道東西部廃止、一般に「神道」と呼称。
・同年二月十日 神官・僧侶以外も教導職に薦挙。
・同年二月二十二日 切支丹宗禁制等の高札撤去。
・同年三月十四日 大教院事務章程・教導職職制制定。
・同年十月二十日 大教院規則を制定し、「敬神」の実を挙げるため、教院に造化三神・天照大御神を奉祀。
※以後、教部省は大教院での神仏教導職による三条教則の合同布教を推し進めようとしたが、島地黙雷らの強力な反対運動などにより、明治8年5月3日には4月30日付け教部省宛太政大臣三条実美の発書を受けて大教院での神仏合同布教が差し止められ、同年11月27日には神仏各管長宛に「信教自由の口達」が発出された。
この大教院解散により神仏教導職は各派独自の布教体制を布くことになり、神道教導職は神道事務局を創建、明治9年1月には三部(第一部大教正千家尊福、第二部久我建通、第三部稲葉正邦)、同年10月23日には第四部を設け、大教正田中頼庸を引受(管長)とした。
また同日付けで黒住講社を神道黒住派、修成講社を神道修成派として別派特立を許可した。これらの一連の措置によって、教部省はその役割を終え、信教自由・政教分離論が台頭する中、十年一月にはその事務を内務省社寺局が継承することになるのである。
なお、教部省時代の宗教政策については、かつて「日本型政教関係の形成過程」(井上順孝・阪本是丸共編著『日本型政教関係の誕生』、第一書房、昭和62年)で、やや詳細に触れたことがある。
私の結論としては、明治初期における政府の宗教政策の基本は、仏教を排斥するものではなく、あくまでも啓蒙的専制主義とでもいうべきものであったと理解すべきである。
無論、政府といっても、一枚岩ではなく、政府内部の力関係によって、当の宗教政策や行政が揺れ動いたことは事実である。
実際、その「事実」を検証することなく、あたかも政府(国家)が明治維新以来、「直線的な神道国教化」政策を推進し、神祇官時代には「廃仏毀釈」、教部省時代には「信教自由・政教分離無視」の政策と行政を進めてきたかのような論が存在したのであるが、政府部内には「神道一辺倒」だけではない分子やグループも存在したのであり、それを考慮した考察が必要であろう。
さらにいうならば、教部省時代の政策が仏教の「伝統的しきたり」を打破するものが多 かったことは事実であるが、それを「神道寄りの政策・行政」と一概に決め付けることはできない。
例えば、明治五年三月二十七日の「女人結界廃止・登山参詣自由」や同年四月二十五日の「肉食妻帯蓄髪自由」、六月十二日の「神宮・神社、僧尼参詣自由」などの布告は、当時の「開化政策」を抜きにしては語れない。「宗教史」の観点だけでは限界があろう。
(2)国家祭祀制度関係
・明治五年三月十八日 元神祇省鎮座の天神地祇・八神を宮中に遷座 (当分の間、賢所御拝所に鎮座)。
・同年六月十二日 神宮・神社祭典への僧尼参詣許可。
・同年六月十八日 大祓再興、祓式制定(大正三年時とは相異あり)。
・同年十一月九日 太陰暦を太陽暦に変更、以後祭日等に影響す。
・同年十一月十五日 神武天皇即位日を祝日とし、祭典執行を布告(六年一月消滅)。
・同年十一月二十七日 宮中八神殿の天神地祗・八神両座を合併、神殿と称す。
・明治六年一月四日 祝日改定、五節供を廃し、神武天皇即位日・天長節を祝日とす。
・同年二月十五日 神宮を除き、官幣諸社祭典には式部寮官員参向せず地方官参向とす。
・同年三月七日 神武天皇即位日を紀元節と称す。
・同年三月 式部寮、官幣諸社官祭式制定。
・同年七月二十日 改暦により歴代皇霊・神宮以下諸社祭日及び祝日改定。
・明治八年三月 式部寮神社祭式制定、近代国家祭祀の雛型となったことは周知の通りである。
以下、おまけ。明治後期・大正期・昭和前期の神社関係法令等(抄出)
・明治三十九年 官国幣社経費に関する法律、府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する勅令
・明治四十年 神社祭式行事作法
・明治末年から大正初年にかけての神社合祀
・明治四十一年 皇室祭祀令
・明治四十二年 登極令
・明治四十五年 神宮神部署官制(三十三年の神部署官制を改正)
・大正元年 神官神職服制
・大正二年 神社の祭神・神社名・社格等に関する総合的法令、神職奉務規則、宗教局を文部省に移管
・大正三年 神宮祭祀令、官国幣社以下神社祭祀令、官国幣社以下神社祭式
・昭和三年 神宮大麻及暦頒布規程
・昭和七年 学生生徒児童の神社参拝
・昭和十四年 招魂社を護国神社と改称、掌典職官制
・昭和十五年 宗教団体法施行(制定は前年)、神祇院官制
・昭和二十年 神道指令、宗教法人令(二十一年二月「神社」追加)
・昭和二十一年 神社本庁設立、神社新報創刊(現在に至る)。(完)
[講演者プロフィール]
阪本是丸(さかもと・これまる) 昭和25年生まれ。國學院大學神道文化学部教授。専門は近代神道史、国学。著書に『明治維新と国学者』『国家神道形成過程の研究』など
以上は、平成29年9月22日に埼玉県神社庁で開かれた明治天皇御親祭150年記念研修会の発表用レジュメです。ご本人の了解を得て転載しました。読者の便宜に配慮し、小見出しを付けるなど、多少、編集してあります。