葦津珍彦の天皇論を学び直してほしい──竹田恒泰氏の共著『皇統保守』を読む 最終回(2016年5月29日)
現代を代表する伝統主義者の1人である竹田恒泰氏の天皇論を、10回にわたり、あえて批判的に読み進めてきました。
他意はありません。伝統主義的天皇論の進化を心から願うからです。
しかしどうしても理解できない人もいるようです。私の表現力がつたないからなのか、個人攻撃をしていると見る人が少なくないようです。
くれぐれも誤解のないようにお願いします。誰が間違っているとか、悪いとかいうのではありません。天皇論の進化がテーマなのです。
結論的にいえば、竹田氏に限らず、伝統主義的立場の天皇論をもう一度、葦津珍彦のレベルにまで戻し、葦津の天皇論を原点として、あらためて学び直すべきだと思います。葦津の天皇論を超えるものを、少なくとも私は知りません。
▽1 「尊さ」から「存在理由」に変わる
本論に入る前に、1点だけ申し上げます。
前回、私は、8年前に出版された、八木秀次氏との共著『皇統保守』と、最近、iRONNAに載った竹田氏の論考を比較し、「何も変わっていない」と申し上げましたが、じつは大きく変化している点があります。
竹田氏は『皇統保守』では、天皇の「尊さ」を問いかけたのでした。「万世一系論を議論することは、『天皇がなぜ尊いのか』という議論に直結する」と述べ、葦津珍彦の天皇論を引いたうえで、「葦津先生は『言葉では説明できない』と断言されるわけです。私もそうだと思うんです」と語っていました。
これについて、私は、葦津は「なぜ尊いか」と発問していないし、「説明できない」とも言っていない。葦津は「日本の国体」の多面性を指摘し、「抽象的な理論で表現することは至難」と説明している(「国民統合の象徴」)。葦津の天皇論のテーマは「天皇制の存在理由を明らかにしようとするもの」(「天皇制研究とは何か」)だったと批判しました。
それが、今回、たいへん興味深いことに、竹田氏の論点は「天皇の尊さ」から「男系継承の制度趣旨」に変わり、そのうえで、「人々の経験と英知に基づいて成長してきたものは、その存在理由を言語で説明することはできない」とあらためて言い切っています。
論点は葦津風の「存在理由」に変わりましたが、「葦津」の名前は消えました。
▽2 「尊さ」と「存在理由」は同義ではない
「葦津」が消えたのはまだしも、「尊さ」が「制度趣旨」「存在理由」に変わったのはなぜでしょうか。
天皇は「尊い」から「存在」すると竹田氏はお考えなのでしょうか。
むろん古来、連綿と男系男子によって継承されてきた天皇の存在は「尊い」ものです。けれども、「尊さ」は「存在」の理由でも目的でもないでしょう。
アメリカ建国時代の、もはや神話化された大統領の事績を「尊い」と感じるアメリカ国民はいるでしょうが、アメリカ大統領は「尊い」から存在すると考える人は少ないと思います。「尊さ」と「存在理由」は同義ではありません。
同時に、歴史的に長く続いてきたことが「尊い」という感覚は、あくまで現代人の視点に過ぎないように思います。
天皇という「存在」を編み出した古代人にとっては「尊さ」のほかに「存在理由」があったはずです。「歴史と伝統」への感覚を失いつつある現代人にとっては、むしろその「存在理由」こそが重要なのではありませんか。
葦津が問いかけた、天皇の「存在理由」とは、現代人にとってのみならず、各時代において、多様なる、それぞれの民にとっての「存在理由」だったはずです。
▽3 神社界を本拠地とした葦津珍彦
葦津珍彦は福岡・筥崎宮の社家の家系に生まれました。戦前から戦後の、知られざる日本近代史の生き証人でもあります。
青年期には頭山満や今泉定助などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東條内閣の思想統制政策を痛烈に批判し、大戦末期、朝鮮の独立工作を進めたことも知られています。
敗戦で日本の宗教伝統が過酷な状況に陥るといち早く察知した葦津は、「神道の社会的防衛者」となることを決意し、戦後の神社本庁創設、紀元節復活、靖国神社国家護持、剣璽御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たしました。
著書は50冊を超え、一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去りました。
生涯、本拠地とした神社界では「戦後唯一の神道思想家」と呼ばれていますが、いまやその存在と言説を知る人はけっして多くはないと思います。
かくいう私も、単なる「右翼ジジイ」ぐらいにしか思っていませんでした。知らないというのはじつに恥ずかしいことです。
膨大な著書は、論理をつないでいる事実がしばしば飛んでいて、読みやすいものではありません。私の葦津研究は、歴史の事実を再確認し、穴埋めするところから始まりました。葦津がいみじくも
「日本の国体というものは、すこぶる多面的であり、これを抽象的な理論で表現することは、至難だ」
と述べているように、私は神道学や民俗学のほか、食文化、稲作農業史、比較文化など多岐にわたる著書を読みあさる羽目になりました。しんどいことでした。
▽4 葦津の天皇論を知らない人なら
竹田氏が「なぜ男系男子でなければならないのか」を問いかけ、そして「理由などどうでもよい」と切り捨てたエッセイは、葦津が仕事場とした神社界でもっともよく知られる神社の一社が開設したサイトに載っています。
八木氏との共著は、「葦津珍彦に学ぶ」ことが表明され、著書が何度か引用され、「神社界では」という表現も見られます。
葦津を知らない現代人に葦津の名前を知らしめた点では、竹田氏は間違いなく最大の功労者の1人だろうと思います。
しかし、すでに指摘したように、葦津とは問題関心も違うし、引用の内容も正確とはいえません。結論も異なります。
葦津の天皇論を内容的によく知らない人にとっては、正統な保守主義を引き継ぐ葦津の後継者が現れたと大歓迎するかも知れません。
著名神社のサイトにエッセイが載っているのは、その結果と思われます。
出版や講演のほか、メディアへの露出も多いのは、ビジネスとしては大成功なのでしょう。喜ばしいかぎりです。
▽5 葦津を知る人ならすぐ分かる
けれども、葦津とその天皇論を知る人たちは、どう考えるでしょうか。
竹田氏は「葦津に学ぶ」と表明し、天皇=祭り主論を展開していますが、葦津の天皇論は単なる祭り主論ではありません。竹田氏はある神道学者の学説に依拠し、宮中祭祀=稲の祭りと論じていますが、葦津は違います。
葦津は稲の祭りともそうでないとも述べた形跡はありません。少なくとも私は読んだことがないのですが、稲の祭り論では葦津が主張する、天皇=「国民統合の象徴」とはなりにくいでしょう。
天皇の祭祀=稲の祭りでは、稲作民を精神的に統合することはできても、畑作民をも統合する儀礼とはなりにくいでしょう。ローマ教皇の典礼がカトリック信徒を統合し得たとしても、プロテスタントやムスリムたちを精神的に統合し得ないのと同じです。
稲作民のみならず畑作民をも精神的に統合することが天皇の存在理由であるならば、古代律令に「およそ天皇、即位したまはむときは、すべて天神地祇祭れ」と定められたように、天皇は皇祖神のみならず天神地祇に、米と粟を捧げ、祈ることになるのでしょう。
伊勢神宮の祭りが徹頭徹尾、稲の祭りであるのとは当然、異なるわけです。
竹田氏の天皇論が葦津の天皇論とは似て非なるものであることは、葦津をよく知る人なら簡単に分かるでしょう。
▽6 心からお願いしたい
もちろん結論が異なること自体は、批判されるべきことではありません。
しかし、「学ぶ」というのなら、誤解されかねない「引用」は避けるべきだろうし、何がどう異なるのか、なぜ異なるのか、明らかにされるべきでしょう。
もし本気で「葦津に学ぶ」とお考えなら、あらためて葦津の研究を読み直し、天皇研究を総合的に深めていただけないでしょうか。心からお願いします。
葦津が生涯をかけて取り組んだ天皇研究は、神道論、近現代史論、憲法論など、多岐にわたっています。多面的アプローチが必要だと考えていたからでしょう。
総合研究としての天皇論が求められています。けれども、だとすれば、1人では困難です。1人の人間が短い生涯でできることは限られています。どうしても共同研究が必要なのです。
差し迫った現実問題として、次の御代替わりを考えるなら、前回のような不都合が繰り返されないためには、一刻も早い取り組みが求められていると思います。
竹田氏だけでなく、竹田氏が組織する研究会の方々にも、お願いしたいと思います。「葦津に学ぶ」が出発点です。
必要とあれば、私もご協力を惜しまないつもりです。
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