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とんと聞かなくなった靖国訴訟──ヤスクニ派は裁判には勝っていない!! (平成27年8月20日)


 茨城県護国神社の宮司が遺族会から退任を要求されたという。神社のイベントで半裸の男女がパフォーマンスを披露したのは「祭神に失礼だ」として、県遺族会は退任要求の嘆願書を差し出したというのである。

 本来、静謐であるべき慰霊の祭場が汚されたという言い分なのだろう。もっともなことだと思う。だが、本来の姿が取り戻されるべきだというのなら、ほかに要求されるべき重要な問題があるのではないか?

 戦争という国家の非常時に、国に殉じた兵士たちの慰霊はこの70年間、靖国神社や護国神社に、いわば民間任せにされている。国を代表する首相は参拝を自粛し、大真榊奉納でお茶を濁し、あまつさえ千鳥ヶ淵墓苑参拝で靖国神社に代わる国立墓地建設構想に秋波を送っているかのようだ。

 これは戦没者慰霊のあるべき姿であろうか? 茨城県に限ったことではないが、戦没者の処遇を思うのであれば、神社の宮司ではなくて、首相にこそ、退任要求を突きつけるべきではないのだろうか? 遺族会として持つべき問題意識の次元を見誤っていないだろうか?


▽1 神社の公的性を否定する司法


 ところで、最近、ヤスクニ裁判のニュースをとんと聞かなくなった。

 外交問題に発展するのを避けて、卑屈にも首相は参拝を自粛しているのだから、当然かも知れない。裁判では、玉串料は私的なら合憲とする司法判断が示されている。政府は参拝も大真榊の奉納も私的行為だとして、反対を押し切っている。合祀取り消し訴訟も、合祀は神社側の自由だというのが裁判所の判断だ。

 つまり裁判はすべて反ヤスクニ派の敗訴に終わっている。それなら、ヤスクニ派は勝利したのか、そうではないと思う。

 司法判断の大前提は、靖国神社は民間の一宗教団体に過ぎないという事実認識にある。政教分離原則によって、国と靖国神社との関わりは否定され、首相など公機関は私人としての立場で関わることを認められているだけである。国が靖国神社の合祀作業に関わる行為は明確に違憲とされている。

 靖国神社の公的性が司法によって否定されていることは、反ヤスクニ派の敗北ではなくて、間違いなくヤスクニ派の敗北である。

 武運つたなく、国に一命を捧げた兵士たちについて、殉国者と認定できるのは国以外にはない。国は認定された殉国者に対して援護法の対象とし、遺族には年金などが支給されてきた。そして追悼の祈りが捧げられてきた。それが靖国神社である。

 靖国神社の公的性が否定されるのなら、国は戦没者に対して、金銭補償さえすれば足りるということにならないか? 日本という国はそんな血も涙もない国だったのか?

 いや、国家の祈りはある。たとえば、全国戦没者追悼式は、陛下の御臨席の下、政府主催で行われている。だが、これは「先の大戦における全戦没者」が対象であり、近代以後の全戦没者を対象とし、戦没者追悼の中心施設として歴史的に認められてきたのは靖国神社以外にはない。


▽2 靖国神社に求められる覚悟


 靖国神社は昭和20年のいわゆる神道指令によって国家との関係が絶たれ、翌年2月の宗教法人令改正で、宗教法人となった。宗教法人として届け出なければ「解散したものとみなす」という、切羽詰まった状況下での苦渋の選択だった。

 しかし「いずれ国にお返ししたい」と代表者たちが表明してきたように、靖国神社は民間の宗教法人という法的位置づけに満足してきたわけではないし、そうあるべきでもない。

 だとすれば、靖国神社の公的性を否定するような司法判断にも満足すべきではないし、むしろ打破していくことが求められる。

 煩わしい訴訟ごとに振り回されたくないという程度なら、苦言を呈してもなんの意味はないが、「国にお返しする」ことが本心なのだとすれば、靖国神社を民間機関に貶めている司法に対して、あるいはそのような法律論を展開してきた法律家たちに対して、反ヤスクニ派であれヤスクニ派であれ、訴訟をも辞せずという覚悟が求められる。

 そうでなければ、ヤスクニ派の正体は反ヤスクニ派だということになりかねない。

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