《歴史発見》社殿裏手の「ドイツ橋」が県史跡に──鳴門市の大麻比古神社(「神社新報」平成16年3月)
(画像はドイツ橋。大麻比古神社HPから拝借しました。ありがとうございます)
△ 第一次大戦後に独人捕虜が築造
鬱蒼(うっそう)たる森に覆はれた徳島・鳴門市の大麻比古神社の社殿裏手に、砂岩製の長さ九メートル、幅二・一メートル、高さ三・二メートルの石積アーチ型橋がひっそり佇んでゐる。第一次世界大戦後、近くの俘虜収容所にゐたドイツ兵たちが築いた。名前は「ドイツ橋」。県教委区委員会は二月下旬、この橋を県史跡に指定することを決めた。
指定の理由には、ドイツ人による日本国内唯一の石造建造物であることのほかに、ドイツ人捕虜と地域住民との交流の深さを示す史跡であることが挙げられてゐる。九十年前、外国人捕虜と日本人との間にどんな交流があったのか。
大正三年(一九一四)八月、日本は同盟国イギリスからの要請によってドイツに宣戦を布告、その租借地であった中国・青島を二カ月半の戦闘の末に陥落させた。捕虜となったドイツ兵約四千七百人は日本に移送され、うち約千人が同六年四月から約三年間、境内近くの板東俘虜収容所に収容された。
まったく意外なことだが、捕虜たちは異国の地で自由な生活を許されたから、所内にはパン屋やレストラン、理容店など八十軒もの店が軒を連ねる商店街があり、ボーリング場やビリヤード場、図書館、音楽堂などのレジャー・教養施設も充実し、別荘までがあったといふ。テニスや海水浴、演劇や音楽会などのスポーツ・文化活動、クリスマス行事などが盛んにおこなはれ、それらを伝へるカラー刷りの新聞さへ発行された。
△ 恩讐超えた交流。支へた武人精神
外出も自由で、地元住民は彼らを「ドイツさん」と呼んで受け入れ、日常的な交流がおこなはれ、西洋野菜の栽培や牧畜、バターやチーズの製法、洋菓子作り、印刷、建築設計などの進んだ技術が伝へられた。
ベートーベンが作曲した「第九交響曲」全曲が日本で最初に演奏されたのはこの収容所である。音楽は彼らの心の支へであった。
捕虜たちの暮らしぶりや交流の様子は、境内南側に隣接するテーマ館「ドイツ館」で、元捕虜たちから寄贈された資料などから知ることができる。
それにしても、旧敵国同士、恩讐を超えた交流はなぜ可能だったのか。それは収容所長・松江豊寿大佐を抜きに語ることはできない。
松江は明治五年(一八七二)、旧会津藩士の長男として生まれた。戊辰(ぼしん)戦争で官軍に敗れた会津藩士たちは「賊軍」の汚名を着せられた上に、青森・下北半島の斗南藩に移住させられた。酷寒と不毛の地で多感な少年期を過ごした松江は、敗者の悲哀と困窮を痛いほど味はった。
軍人の道を歩み、四十四歳のときに板東収容所長となった松江氏は陸軍省の意思に反して、「ドイツ兵は愛国者であって、犯罪人ではない。捕虜を人道的に扱ふべきである。それが武士の情けである」と公言し、実行した。
ドイツ人捕虜たちと日本人との交流の底流には、旧会津藩士の武士道精神が脈々と流れてゐる。
△ 参拝者の不便を思ひやって建設
武人の心はドイツ兵にも十分理解できたのだらう。だからこそ日本人を思ひやる心が捕虜たちに芽生え、交流が生まれたではないか。
今回、県史跡に指定されたドイツ橋は、大麻比古神社に参拝する住民が遠回りをしなくてもすむやうにと、帰国前に三カ月を要して捕虜たちが造ったといふ。境内をしばしば散策してゐた捕虜たちには、住民の不便も理解できたに違ひない。
橋は同神社から北側に鎮まる丸山稲荷神社に続く森の中にある。捕虜たちにとっては、静かな社叢は故国ドイツ・ゲルマンの森を思ひ出させ、望郷の寂しさを慰めてくれるよすがだったかも知れない。
松江大佐は、ピンと立ったカイゼル髭(ひげ)もいかめしい風貌ながら、物静かな、心温かい、酒と人を愛する人間だった。
島根の連隊長を最後に軍歴を離れたあとは、郷里に帰り、第九代会津若松市長に就任、市内の上水道整備に尽力した。板東を「第二の故郷」と回想しつつ、昭和三十一年、八十二年の生涯を閉ぢた。