江戸時代、庶民に公開された天皇の御即位行事(平成18年11月19日日曜日)
(画像は宮内庁所蔵の明正天皇御即位行幸図屏風です)
江戸期の天皇が民衆から遠い存在だった、という通説をくつがえす研究が今週、発表されるようです。
日本の天皇は明治時代になってから民衆の目に触れるようになった、という説がこれまでは一般に流布してきました。この説に従えば、近代の天皇制度は「伝統」的なものではない、ということになり、この考え方は、今日の女性・女系天皇容認論の論拠のひとつともなっています。
たとえば、さまざまな分野の文献を駆使しながら、「万世一系説」「女帝『中継ぎ』説」を批判的に検証し、皇室典範改正・女帝容認を提案する朝日新聞・中野正志記者の『女性天皇論』が一時期、話題になりましたが、これには、一橋大学・吉田裕教授の『昭和天皇の終戦史』に依拠しつつ、
「江戸時代までの天皇は、宮中の奥で閉ざされ、神秘的な存在だった。維新まもなくの1872(明治5)年、明治天皇は、東京の皇居から人前に姿を現し、50日間の旅に出ている。大行幸は、1885(明治18)年まで6回行われた。天皇は「見えない」存在から「見える」存在へと大転換を遂げた」
と書かれています。
しかし、本当に江戸時代の天皇は民衆から閉ざされた存在だったのでしょうか。
たとえば、皇祖神をまつり私幣禁断の社である伊勢神宮にお参りするおかげ参りが全国化したのは江戸時代です。ひな祭りが全国化したのも江戸時代で、男びな、女びなはそれぞれ天皇、皇后をあらわしています。
とすれば、天皇はけっして民衆から遠い存在ではなかったことがわかります。連綿たる民衆の皇室に対する敬愛の念が前提としてあり、それが近代の天皇制度を支えていたと逆にいえるのではないですか。
それにしても、きのうの読売新聞(関西版)の記事には驚かされました。天皇の御即位行事に、「観覧券」が配られ、庶民が争って詰めかけた、というのです。〈http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is61118c.htm〉
近世民衆史研究者の森田登代子氏は、江戸時代に京都で出された「町触れ」(告知)2万数千件を集めた『京都町触集成』(京都町触研究会編)を調べ、その結果、1735年の桜町天皇の即位式では、観覧券に当たる「切手札」が発行され、男女別で御所のどの門から入るかが決められていた、続く桃園天皇の即位式でも切手札が発行され、事故防止のためか人数が制限され、老人や足の弱い人などは観覧が禁じられていた、ことが分かったというのです。
また、1779年の光格天皇即位式を描いた『御譲位図式』などの絵図では、警備の武士とは別に、裃(かみしも)で正装して御所に入る人、子どもや授乳する母親といった絵柄が確認された、といいます。
森田氏は、「(即位行事は)民衆にとってごく身近で楽しみな行事だった。江戸時代になって急に公開したのでなく、中世以来の伝統ではないか」と語っている、と記事は伝えています。
通説をくつがえす「発見」といえますが、なぜこうしたことがこれまで分からなかったのか。逆に、天皇は民衆から遠い、隠された存在だった、などという説がなぜ幅をきかせてきたのか、むしろその方が不思議です。
森田氏の研究は今週、発売される国際日本文化研究センターの共同研究報告書、『公家と武家3』(思文閣出版)に掲載されるそうで、いまから楽しみです。
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