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神社本庁創立の精神からほど遠い「金刀比羅宮の離脱」(令和2年6月21日)


(画像は金刀比羅宮。同HPから拝借しました。ありがとうございます)


香川県の金刀比羅宮が神社本庁から離脱することになったようです。理由は、同宮の説明では、本庁の不動産不正転売問題に基因する不信感と昨年の大嘗祭当日の祭祀に関わる不信感の2点です。前者の問題で本庁への信頼が大きく揺らいだところへ、後者が持ち上がり、関係悪化が決定的になったということでしょうか。〈http://www.konpira.or.jp/〉

天皇一世一度の大祀である大嘗祭は、尊皇の精神篤き神社人にとっても一大行事ですから、些細な不祥事とて絶対に許されません。何があったのでしょう。

昨年11月14日の大嘗宮の儀に際して、神社本庁は各神社に通達し、当日祭が斎行されました。問題はその際の「本庁幣の供進」でした。通達には「当日祭には臨時に本庁幣を供進する」とあったのに、当日まで、本庁幣がお宮に届くことはありませんでした。金刀比羅宮が「無礼」「不敬」と怒るのも無理はありません。

何か予期せぬ事故が起きたのか、といえば、不思議にも本庁に落ち度はなかったようです。「当宮(金刀比羅宮)に対する嫌がらせ」は誤解です。それなら何なのか。

▽1 電話一本で解決できない


金刀比羅宮の説明では、同宮の問い合わせに対して、神社本庁はいま話題の秘書部長名で「各神社庁を通じて本庁幣を供進している」「当日祭に本庁幣が供進されなかった神社が存在したのはまことに遺憾」(今年3月23日)と回答し、香川県神社庁からは「本庁幣は毎年度、1月下旬から2月上旬に各支部を通して交付している」(昨年12月12日)との回答があったのでした。

つまり、本庁は当日祭の幣帛供進を予定して事務手続きを粛々と進めたものの、県神社庁が「臨時の本庁幣」を毎年恒例の本庁幣と同様に取り扱った凡ミスだということでしょう。本庁が責められることではありません。

ただ、本庁の回答は、代理人弁護士を通じた金刀比羅宮の度重なる問い合わせに対して、何か月も要した巧遅そのもので、不信感を募らせ、亀裂を深める以外の何物でもなかったのでしょう。書面をやり取りするまでもなく、電話一本で解決できる日頃の意思の疎通を完全に欠いていたのではありませんか。

2万人しかいない神職の世界でいったい何が起きているのでしょう。日常的なお付き合いの盛んな業界のはずなのに。

歴史を振り返れば、神社本庁は昭和21年2月に生まれました。敗色が濃厚となった戦争末期に、敗戦後を見越した葦津珍彦らが、神道を敵視する外国軍隊に占領されることになれば、神社は壊滅状態に陥る。古代から続く民族の信仰を守り、危機を回避するためには神社関係者が団結する必要があると有力者を説得し、皇典講究所、大日本神祇会、神宮奉斎会が糾合して本庁が設立されたのでした。

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本庁が装束を着た神職だけの組織ではなかったことはとくに重要です。創立当時の初代事務総長は内務官僚だった宮川宗徳でした。「言論機関は独立機関たるべし」との宮川の英断で、翌年には神社新報が独立します。初代社長は宮川でした。葦津は編集主幹兼社長代行者となりました。

しかし苦難の占領期も過ぎ、半世紀以上が経ち、庁舎も代々木に移りました。職員の顔ぶれも一変し、宮川のような「背広の神道人」は見かけなくなりました。いまや神職の同業者組合と揶揄する人さえいます。当然、意識も変わったのでしょう。

▽2 大嘗祭のあり方は問いかけず


今回の離脱は御代替わり最大の儀礼である大嘗祭を契機としていますが、金刀比羅宮が問題視したのは神社祭祀に関わる神社界内部の事務手続きの不備であって、御代替わりのあり方そのものを心から憂い、大胆に問題提起しているわけではありません。

歴史にない退位の礼が政府によって創作され、譲位と践祚が分離され、皇祖神に践祚を奉告する賢所の儀が完了しないままに朝見の儀が行われ、代始め改元は前代未聞の退位記念改元となり、諸儀礼は国の行事と皇室行事とに真っ二つに二分されるというあり得ない惨状について、皇祖神を祀る神宮を本宗と仰ぐ本庁も神社庁も金刀比羅宮も悲憤慷慨しているとは聞きません。

30年前、平成の御代替わりのときも同様でした。本庁周辺では「大嘗祭が行われて良かった」という喜びの声が満ち溢れるばかりで、問題点を高いレベルで検証することは行われませんでした。語るに落ちる不祥事があっても有耶無耶にされました。日本人の宗教的伝統を守るとの創立時の高邁な精神はどこへいったのでしょうか。

本庁創立の中心にいた葦津珍彦が最晩年、病床で口述筆記した遺作は、稀有壮大な志に生きる明治の神道人の生涯を描いたものでした。天下国家を論じ得るスケールの大きな神道人の輩出を心から願ってのことだったでしょう。不動産不正転売問題といい、金刀比羅宮離脱といい、葦津ら先人たちの理想とはあまりにかけ離れていませんか。

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