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4段階で進む「女性宮家」創設への道──女帝容認と一体だった「女性宮家」創設論(2012年6月9日)


 前回は、いわゆる「女性宮家」有識者ヒアリングで意見を述べた百地章日大教授と市村眞一京大名誉教授の資料を見みました。百地先生は「女性宮家」創設反対、市村先生は賛成で、お立場は異なるのですが、お二方とも、なぜいま「女性宮家」なのか、という現代史的な視点と追及が欠けていること、などを指摘しました。
http://melma.com/backnumber_170937_5576111/

 そこで今回は、これまでの「女性宮家」創設への経緯を、年表風にまとめて、振り返ってみたいと思います。そのことによって、今日の議論の問題点が浮き彫りになるのではないかと考えるからです。

 なお、これは「産経新聞」平成18年2月17日付3面に掲載された一覧表「皇室をめぐる最近の主な出来事」を参考にしています。阿比留瑠比記者による、この日のスクープは、平成8年に宮内庁内で皇位継承制度に関する基礎資料の作成が始まり、政府の非公式検討会がすでに16年5月に女性天皇・女系継承容認を打ち出していたことなどを明らかにしています。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2560514/

 阿比留記者の記事は皇位継承論がテーマでしたが、以下の年表は、戦後の皇室関係史全体を俯瞰し、とくに「女性宮家」創設論に焦点を当て、練り直したものです。今日の議論の混乱の一因となっている、皇位継承論と「女性宮家」創設論との密接な関係性も見えてくるはずです。


〈第1期〉 今上天皇の第2皇子、文仁親王殿下(秋篠宮殿下)が昭和40(1965)年にお生まれになって以来、男子皇族が久しくご誕生にならず、皇太子殿下の次の代の皇位継承者の候補がおられないという皇統の危機を背景に、政府内で皇室典範改正研究が潜行しました。当時のテーマはあくまで皇位継承論ですが、じつは「女帝」容認論と軌を一にして、「女性宮家」創設が検討されたのでした。

昭和22年5月3日、日本国憲法、皇室典範が施行、旧皇室典範、皇室令が廃止。

 けれども、宮内府長官官房文書課長による依命通牒によって、皇室の伝統は辛うじてながら守られました。

依命通牒「記 1、新法令ができているものは、当然夫々の条規によること。…… 3、従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」


50年8月15日、宮内庁長官室会議で、昭和22年の依命通牒が反故にされる。

 これによって歴代天皇が最重要時事と考え、実践してこられた宮中祭祀が改変されました。悠久なる皇室の伝統より、憲法の解釈・運用が優先された結果でした。最大の改変は毎朝御代拝の形式で、占領期でさえ手をつけられなかった祭祀の一貫性がここに絶たれることになりました。ときに宇佐美毅長官、富田朝彦次長の時代で、その後、長官に昇格した富田氏はさらなる祭祀の改変に取り組みました。同氏は無神論者を自認していたといわれます。

64(平成元、1989)年1月7日、昭和天皇が崩御。今上天皇が践祚。

 践祚から即位大嘗祭まで、御代替わりの一連の行事が行われるのに際して、政府は、憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重し、内閣の責任において、といいつつ、実際は、「皇室の伝統」と「現行憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、結局、千年以上にわたる皇室の伝統が断絶されました。

平成2年6月29日、礼宮親王殿下ご結婚の儀。秋篠宮家の創設。
3年10月、秋篠宮殿下第1女子、眞子内親王ご誕生。
5年6月9日、皇太子殿下ご結婚の儀。
6年12月、秋篠宮殿下第2女子、佳子内親王ご誕生。
7年9月、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎議員(のちの首相)は、公開討論で、「女性が天皇になるのは悪くない。皇室典範はいつ改正してもいい。必ずしも男子直系にはこだわらない」と発言。
8年、鎌倉宮内庁長官の指示で、宮内庁内で皇位継承に関する基礎資料の整理・作成が開始された(阿比留記者の記事)。
9年4月、内閣官房の協力により、工藤敦夫・元内閣法制局長官を中心に、古川貞二郎内閣官房副長官、大森政輔内閣法制局長官らが研究会、懇話会を設置した。第1期は皇室制度に関する非公式研究会(~11年3月)。
10年6月、総合情報誌「選択」6月号に「『皇室典範』改定のすすめ──女帝や養子を可能にするために」が掲載された。

「皇族女子は結婚すれば皇族の身分から離れるが、これを改め天皇家の長女紀宮が結婚して宮家を立てるのはどうか。そこに男子が誕生すれば、男系男子は保たれることになる」

 皇太子殿下の次の代の皇位継承資格者の候補がおられないという皇統の危機を問題提起する、私が知るところ、もっとも先駆的な記事で、皇室典範第12条を改正し、皇族女子が婚姻後も皇室にとどまれるようにする、いわゆる「女性宮家」創設をも提案していましたが、「男系」と「女系」を混同する致命的な誤りを犯しています。最良のジャーナリズムでさえ、当時はこのレベルだったのです。

11年4月、政府内で、皇室法について、第2期研究会(~12年3月)。園部逸夫元最高裁判事が新たに参加した。
同年12月、高森明勅『この国の生い立ち──あなたは『天皇』の起源を知っていますか?』(PHP研究所)に女帝容認論を展開。新進気鋭の皇室研究者による問題提起だった。
同月10日、朝日新聞が「雅子さま、懐妊の兆候。近く詳細な検査」をスクープ報道。けれども結局、流産の悲劇を招くことになった。


「皇太子妃・雅子さまに懐妊の兆候が見られることが9日、明らかになった」

12~15年、政府内で資料整理。宮内庁長官、次長に随時報告。
13年12月、皇太子殿下第1女子、愛子内親王ご誕生。
14年2月、「文藝春秋」3月号、森暢平記事「女性天皇容認! 内閣法制局が極秘に進める。これが「皇室典範」改正草案──女帝を認め、女性宮家をつくるための検討作業」

「内閣法制局が極秘作業に取り掛かっている。皇室典範改正のプロジェクト・チーム──。法制局内部の人間にも、存在はあまり知られていない。
 関係者の証言から、筆者は同チームの作業内容の一端を聞き出した。法制局での作業に際しての基本方針は、(1)女性天皇を認めるが継承順位は基本的に男性の後にする、(2)女性皇族の結婚後の宮家創立を認める、の「2つの柱」に集約されるという。
 さらに重要な点は、安倍晋三・官房副長官ら官邸筋も1枚絡み、早期改正が視野に入っていることだ。背景には4月に33歳をお迎えになる紀宮さまの結婚がある。これに際しては、嫁ぎ先に降下する従来型ではなく、皇室に残ったまま新宮家を創設する方法も検討されている」

「女性天皇を認めた場合、一般の女性皇族にも皇位継承権があり、基本的には結婚しても皇室に残ることになる。つまり、必然的に女性宮家が認められる。いわば、女性天皇と女性宮家は表裏の関係で、検討案の「2つの柱」は、突き詰めると1つと見なせる」


 森氏の記事は、メディアが「女性宮家」という表現を用いた初例と見られます。「女性宮家」は歴史上、存在しないし、宮家の歴史的概念からもはずれています。当時、政府部内で造語されたものと想像されます。「選択」の記事に続く、当局からの情報のリークをうかがわせます。このころは紀宮清子内親王殿下のご結婚問題があり、政府内に焦りのようなものがあったようです。

15年5月、内閣官房、内閣法制局、宮内庁が共同で皇位継承制度改正を非公式検討(~16年6月)。
16年5月10日、政府が女性・女系天皇容認を打ち出した極秘文書「皇位継承制度のこれからのあり方について」をまとめる。



〈第2期〉 皇太子殿下のご結婚から10年が過ぎましたが、男子はお生まれにならず、「人格否定」発言さえ飛び出す状況になりました。政府の皇室典範改正は非公式検討から公式検討に移り、「女性宮家」は一般マスコミ、論壇のテーマとなりました。皇室典範有識者会議が発足し、女性天皇・女系継承を容認する報告書がまとめられましたが、「女性宮家」の表現は消えました。

16年5月10日、皇太子殿下が欧州歴訪前の記者会見で「人格否定」発言。

「雅子にはこの10年,自分を一生懸命,皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが,私が見るところ,そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや,そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/gaikoku/gaikoku-h16az-europe.html

 皇太子殿下のご発言は、奇しくも、政府が極秘文書をとりまとめた、その当日でした。

同年7月、「週刊朝日」7月9日号、「お世継ぎ問題 結婚しても皇籍離脱しない道 雅子さま救う『女性宮家』考」に所功京都産業大学教授のコメントが掲載される。

「紹介したいのは、皇室の研究家による『女性宮家創設』の提案だ。提唱した京都産業大学の所功さんは言う。『雅子さまや愛子さまの身になって考えれば、いま、いきなり女性天皇にいってしまうのは重圧が大きすぎると思われます。天皇のなると、男性でも過酷な重労働を一生続けなければなりません。まずは女性皇族が結婚しても皇族の身分でいられる制度を考えるべきだと思います』」

 国会図書館のデータベースによれば、「女性宮家」創設をいち早く訴えた学識経験者として登場するのが所教授で、その存在は突出していますが、ご本人は、「女性宮家」を造語したのは自分ではない、と否定しています。

同月、内閣官房と宮内庁が皇室典範改正の公式検討に向けた準備を開始。
同月、民主党が参議院選のマニフェストに女性天皇容認の方針を掲載。


「『日本国の象徴』にふさわしい開かれた皇室の実現へ、皇室典範を改正し、女性の皇位継承を可能とする」

同月、「Voice」2004年8月号に所教授論考「“皇室の危機”打開のために──女性宮家の創立と帝王学──女帝、是か非かを問う前にすべき工夫や方策がある」。

「管見を申せば、私もかねてより女帝容認論を唱えてきた。けれども、それは万やむを得ざる事態に備えての一策である。それよりも先に考えるべきことは、過去千数百年以上の伝統を持つ皇位継承の原則を可能なかぎり維持する方策であろう。それには、まず『皇室典範』第12条を改めて、女性宮家の創立を可能にする必要がある」

 皇室の伝統にない「女性宮家」を創設することは、皇室の伝統を維持することにはなりませんから、皇室の伝統維持のために、「女性宮家」創設を提案することは完全に矛盾します。したがって、所教授の主張は意味がよく分かりませんが、一体であるはずの女帝容認と「女性宮家」創設をあえて区分し、女性天皇を容認する皇室典範改正の前に、「女性宮家」の創設を提案していることは間違いありません。女帝容認と「女性宮家」創設論を「切り離す」という今日の議論のさきがけにも見えます。

同年12月、皇室典範に関する有識者会議が発足。座長は吉川弘之元東京大学総長、座長代理は園部逸夫元最高裁判所判事。メンバーに古川貞二郎前内閣官房副長官。
17年6月8日、同有識者会議ヒアリングで、所功教授が「女性宮家」創設を提案。


「現在極端に少ない皇族の総数を増やすためには、女子皇族も結婚により女性宮家を創立できるように改め、その子女を皇族とする必要があろう」

同年7月、有識者会議が中間報告としての論点整理。「女性宮家」の表現が消える。

 けれども、「読売新聞」7月28日付社説は、「天皇の直系子孫でも、長子を優先させるか、兄弟姉妹間では男子が優先か、という皇位継承順位や、女性宮家の創設の在り方など、難問が控えている」と書き、「女性宮家」の議論が続いていることをうかがわせます。

同年11月15日、紀宮清子内親王殿下が帝国ホテルで結婚式。皇籍を離脱。

同月24日、女性天皇・女系継承容認の報告書を提出。

報告書を受け取る小泉総理@官邸HP


 報告書に「女性宮家」は表現としては掲載されませんでしたが、婚姻後も皇室にとどまるという中味は文章化されました。

「現行制度では、皇族女子は天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れることとされているが、女子が皇位継承資格を有することとした場合には、婚姻後も、皇位継承資格者として、皇族の身分にとどまり、その配偶者や子孫も皇族となることとする必要がある」(報告書「3、皇族の範囲」)

 このためでしょうか、「読売新聞」11月25日付に掲載された所功教授の感想には、「女性天皇、女系継承、女性宮家の創立なども可能とした報告書の大筋には賛成したい」とあります。つまり、皇族女子が婚姻後も皇室にとどまることが「女性宮家」の意味だとされています。「女性宮家」を用語として使用しないところに、政府関係者の深謀遠慮があるものと思われます。

18年1月、小泉首相が施政方針演説で皇室典範改正案の提出を明言。


 以上、一般には「女性宮家」創設論は昨年秋ごろ、急速に浮上してきたように見られていますが、そうではないことがお分かりいただけたのではないでしょうか。

 逆に、女帝容認・女系継承を容認する皇室典範改正と一体のかたちで、「女性宮家」創設が10数年もの間、政府部内で公式、非公式に議論されてきたのだとすれば、「女性宮家」創設論の浮上は女性天皇・女系継承容認論の再浮上を意味することになります。

 つまり、今日、渡邉允前侍従長ほか、政府関係者が主張している「切り離し」論はあり得ないということです。

 長くなりましたので、今回は〈第2期〉までとします。


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