天皇論、中国論、現実的感覚がない──鳩山首相の「友愛」を考える その2(2010年2月23日)
前号は建国記念日の陛下の御拝が掌典による御代拝となったことについて書きましたが、先週末、いつものように、宮内庁のホームページにこの週のご日程が掲載されました。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h22/gonittei-1-2010-1.html
けれども、たいへん興味深いことに、2月11日のご日程が記載されていません。
2点、指摘したいと思います。(1)「御代拝」は陛下のご日程と認識されていないこと、(2)建国記念の日の拝礼が軽視されていること、の2点です。
▽1 ご日程に載らない「御代拝」
まず1点目。どうも御代拝は陛下の祈りだと認識されていないように見えます。
なるほど建国記念の日の陛下の御拝は、掌典の御代拝に代わりました。けれども「掌典の御代拝」は「掌典による御代拝」であって、主体はあくまで陛下です。「掌典の代拝」ではありません。
同様にして、侍従によって毎日、行われる毎朝御代拝もご日程には掲載がありません。毎日のことだから、というより、「侍従の代拝」という意識が感じられます。「陛下の御代拝」ではなく、「侍従の代拝」という理解なればこそ、側近たちは昭和50年8月の長官室会議で「庭上よりモーニングで」(入江日記)と簡単に形式を変えたのでしょう。
視点を変えれば、「行動する天皇論」という近代的な発想が背後に透けて見えます。それは明治学院大学の原武史教授が、もはや農耕社会ではない現代において、農耕儀礼である宮中祭祀の廃止を検討したらどうか。皇太子は格差社会の救世主として行動すべきだ、と提案したのと共通します。橋本明さんの廃太子論とも通じます。いみじくも宮内庁HPのURLは、ご日程が activity と表現されています。
皇室自身の天皇観では、行動するのが天皇なのではありません。国と民のためにつねに祈られるのが天皇です。三殿にお出ましにならなくても、侍従や掌典による御代拝となっても、陛下は祈らないわけではありません。しかし祈りより行動が優先されている。だから、ご日程に掲載されないのでしょう。
▽2 「建国記念の日」を避けている
2番目。陛下は初代神武天皇に由来する建国記念の日を重く受け止められ、この日の御拝を欠かさず続けてこられましたが、その祈りが軽視されているように私には見えます。
今回の経緯を振り返ると、宮内庁発表によれば、陛下は2月2日にご気分を悪くされ、翌日からの葉山行幸をお取りやめになりました。ノロウイルス感染症とのことで、ご療養のため、(1)2月10日の都内美術館行幸を延期する、(2)翌11日の宮中三殿御拝は掌典の御代拝とする、(3)12日の世界らん展のお出ましを控える、という対応がなされました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h22-0202.html
この発表からすると、陛下が3日のあいだご静養されたのかといえば、そうではありません。2日の日にも、ご静養期間とされたはずの3日から7日にもご執務がありました。さらに8日にはご進講やお茶、10日には認証官任命式や拝謁、12日には信任状捧呈式、13日には反正天皇千六百式年祭の儀が皇霊殿で執り行われました。
このような忙しいご日程で、陛下は十分な療養ができたのでしょうか? 大いに疑問です。逆にこれで十分だったのだとすれば、なぜことさらに建国記念の日の御拝を御代拝としなければならなかったのでしょうか? つじつまが合いません。
建国記念の日を、宮内庁あるいは政府が避けているのではないか、と思わざるを得ないのです。
▽3 浮世離れした「宇宙人」宰相
さて、延び延びになっていた鳩山首相の「友愛」について、簡単に考えたいと思います。テキストは「Voice」平成21年9月号に掲載されたエッセイ「私の政治哲学」です。
http://www.hatoyama.gr.jp/masscomm/090810.html
前回、2月2日発行の116号では、カレルギー全集を資料として、首相の「友愛」は、隣国の共産党独裁に対する現実的感覚が欠けている点で、「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「友愛」とも、祖父・鳩山一郎元首相の「友愛」とも異なる、と指摘しました。
http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/
今回、取り上げる「Voice」掲載の論考は、カレルギーの引用がちりばめられた、読み応えのあるもので、鳩山氏は、カレルギーの「友愛」は左右の全体主義との激しい戦いを支える戦闘の理論だった。鳩山一郎は、一方で社共両党に対抗しつつ、他方で官僚派吉田政権を打ち倒し、党人派政権を打ち立てる旗印として「友愛」を掲げた。冷戦が終わり、全体主義国家が終焉した現代、「友愛」は「自立と共生の原理」と再定義される、と解説し、市場至上主義からの転換、地域主権国家への変革、東アジア共同体の創造を訴えています。
しかし、この論考には、天皇論、中国論、そして現実的感覚の3つが欠けています。
たとえば、鳩山氏はグローバリズムの席巻によって衰弱した日本の「公」の領域を復興し、あるいは新たな公の領域を創造し、人と人とが助け合う「共生の社会」を創るのだと訴えるのですが、古来、日本では「公」とは皇室の意味であり、多様な国民が共存する日本社会の中心こそ天皇のはずですが、エッセイには天皇の「て」の字もありません。「伝統や文化」を謳いつつ、それらを体現しているはずの天皇には言及がありません。
2番目は、前回も触れましたが、ヨーロッパでは崩壊した共産党独裁国家が、アジアでは軍事的、経済的脅威として存在していることが、アメリカ発のグローバリズムほどには注目されず、したがって分析もされていないことです。アジアではけっして冷戦は終わっていないのに、視野にないのです。
また、ヨーロッパの統合は、冷戦の終わりのほかに、キリスト教という共通基盤があることが重要な要因として指摘できます。しかしアジアの多神教世界には共通する精神的基盤がありません。政治的、経済的な共生の必要性が意識として共有できているわけでもありません。ヨーロッパ統合という一神教モデルは、諸宗教が混在するアジアのモデルになり得るかどうか疑問です。
というように見てくると、鳩山首相の「友愛」は現実的感覚に欠けている、という印象を免れないのです。政治は現実そのものなのに、とくにいま喫緊の課題として解決されるべき現実が目の前に山積しているのに、「友愛」論はいかにも浮世離れしています。それこそが「宇宙人」宰相と呼ばれるゆえんでしょうか? いや、これは政治とはいえないのではありませんか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?