韓流ブームのパイオニア『佐藤邦夫』(2006年04月27日)
きのう、都内で「追悼・佐藤邦夫先生を語る夕べ」が開かれ、佐藤さんを師と仰ぐ人たち約40人が集まり、10年前、81歳でこの世を去った故人を偲びました。
佐藤邦夫(1915-96)という人を知る日本人はけっして多くはないでしょう。かくいう私も同様で、韓国文化を語らせたら、この人の右に出る人はない、という20年来の友人に誘われて、参加させてもらうことになりました。「語る夕べ」を中心的に企画した友人が「私のお師匠さん」と呼ぶのが、佐藤さんです。
◇地下水脈の役割を果たす
「韓流」ブームといわれて、もう何年にもなりますが、佐藤さんはいわば「韓流」ブームのパイオニアでした。昨春、「ニッポン人脈期 『韓流』の源流4」で佐藤さんを取り上げた朝日新聞は「戦前から音楽や映画のプロデューサーとして、日韓を近づける地下水脈の役割を果たした、知られざるキーパーソン」と伝えています。
佐藤さんは幼いころから映画とレビューに深い関心を持ち、1930年代に宝塚歌劇の脚本家としてデビューしました。当時はまだ二十歳前の学生でした。その後、ある朝鮮映画に深い感銘を受け、映画仲間の誘いを受けて朝鮮にわたり、1940年代は朝鮮映画、レビューの世界で活躍します。
敗戦後、日本に引き揚げたのちは、興業・映画のプロデューサーとしてその地位を確立しますが、その本領は韓国の文化・芸能を日本に紹介することに発揮されました。
パティ・キム、吉屋潤らによる韓国歌謡名曲集を制作して大ヒットさせ、一方で、フランク永井の韓国公演も実現させました。映画監督の林権澤や俳優の安聖基などを日本に紹介したのも佐藤さんでした。西武デパートの「スタジオ200」や岩波ホールで韓国映画が頻繁に上映されるようになったのは、佐藤さんのカゲの力があったからです。
佐藤さんを起点とする戦前からの日韓の幅広い人脈は、戦後の国交のない時代も、正常化後の韓国蔑視が続いていた時代も、脈々と続いてきました。佐藤さんの人脈を抜きにして、今日の韓流ブームは考えられません。
◇謝罪の言葉を聞いたことがない
竹島の領有権をめぐる日韓のせめぎ合いを見るにつけ、何ものにも動じない太い人脈を政治の世界にもほしいと願うのは私だけでしょうか。
「併合時代を朝鮮で過ごした日本人たちが口にしたがる浅薄な贖罪の言葉を、先生から聞いたことがない。先生は『楽劇だって歌謡曲だって無理に押しつけたんじゃない。受けるんだから仕方がない。面白いものが勝つんだよ』とよくおっしゃっていた」
と、友人は語るのです。国家間の真の友好は、国民レベルの格好つけではない、深い友情に育まれるのではないかと思います。
「いつもたくさんの美女に囲まれていた」といわれる佐藤さんですが、きのうもやはり参加者の大半は女性でした。佐藤さんの遺影の前で、佐藤さんが発掘した在日三世のジュリー・パクさんが「サランヘ」を、かつての「日韓親善歌手」梨花(野元波津子)さんが「黄色いシャツ」を久しぶりに歌い、盛んな拍手を浴びていました。
予告。友人が近々、「佐藤先生の思い出」を「お友達タイムズ」に書いてくれる予定です。