見出し画像

「韓国近代医学の父」池錫永──日本から種痘法を導入した男(「神社新報」平成14年2月)

(画像はソウル大学校医学博物館。韓国観光公社HPから拝借しました。ありがとうございます)


日韓共催のサッカー・ワールドカップ大会開催まで、あと百日あまり。史上初の二カ国共催である。日韓両政府はこれを機会に、今年を「日韓国民交流年」と位置づけてゐる。数年前、金大中韓国大統領が来日したとき、文化交流などの活性化が申し合はされ、その後、両国首相間で正式に合意された。

先月下旬には東京都内で「交流年」の開幕式があり、両国親善大使を務める人気女優も出席し、式典は盛り上がった。今年一年間、政府、地方自治体、民間の各レベルで、幅広い交流が予定されてゐる。

結構なことだが、「昨年は教科書問題や小泉首相の靖国参拝で日韓関係が損なはれたが、親善大使の女優は『過去を消し去ることはできない』と語った」といふ報道もある。「過去」とは何か。ある韓国人の生涯を題材に考へる。


□1 「命定め・器量定め」の天然痘。日本は江戸末期に種痘所を設立


池錫永(チ・スクユン、一八五五~一九三五)といふ人物がゐる。

韓国の小学校用歴史国定教科書がわざわざ「種痘法と広恵院」と題する一節を設け、不朽の功績を取り上げてゐるほどの偉人。外国人医師を訪ね歩き、種痘法を学び、韓国に初めて導入、普及させた。その成功は西洋医学の社会的浸透に貢献した──と書かれてゐる。

いはば韓国近代医学の父。だがその人生は、教科書の記述にあるほど単純なものではない。波乱の生涯から垣間見える、韓国社会の暗部と日韓友好の交流史とを見落とすべきではない。

韓国の教科書が言及してゐるやうに、その昔、麻疹やコレラと並んで、人類がもっとも恐れる、それは恐ろしい伝染病があった。天然痘。疱瘡、痘瘡とも呼ばれた。

このウイルスに感染すると、最初はインフルエンザに似た症状だが、ときには腎不全のやうな深刻な事態となり、罹患者の半数が死亡した。しかも、膿でいっぱいの腫れ物が全身に現れ、幸ひ命をとりとめたとしても、穴ぼこのやうな跡が残った。「あばた」。「麻疹は命定め、疱瘡は器量定め」といはれた所以である。

イギリス人エドワード・ジェンナーが画期的な予防法として牛痘法を見出し、研究成果を公表したのは、一七九八年である。牛痘(疱瘡に似た牛の病気)のウイルスを接種し、人為的に感染させ、疱瘡に対する免疫力をつけるといふ免疫学の先駆けである。

ジェンナーの研究書は各国語に翻訳され、翌九九年にはロンドンに種痘所が設けられた。

牛痘法は一八〇五年にはオランダ領ジャワにまで到達したが、日本に伝はるにはさらなる年月を要した。

日本で最初に牛痘接種法が用ゐられたのは、意外なことに、最果ての蝦夷地においてである。

択捉島の番人であった中川五郎治がロシア人に拉致され、オホーツクに連行されたのは文化四年(一八〇七)。五年間のシベリア流転生活の末、彼は牛痘法に関するロシア語の書籍二冊を持ち帰る。その五郎治が文政七年(一八二四)までに、江差・松前地方で種痘を実施したといはれる。

しかし日本での牛痘法の本流は嘉永二年(一八四九)、オランダから長崎にもたらされた。奇しくもこの年、蘭学禁令が発せられるのだが、オランダ商館医師から佐賀藩医楢林宗建、さらに大坂の緒方洪庵などへ「痘苗」が伝へられ、蘭方医の人脈で瞬く間に全国各地に広まる。

種痘の成功は蘭学医普及の突破口であった。ときあたかも将軍家定が重病で、幕府ははじめて蘭方内科を用ゐ、蘭方禁止が解かれる。

各地に種痘所が開設され、安政五年(一八五八)には江戸の神田お玉が池に種痘所が創設された。万延元年(一八六〇)、幕府は「種痘所で種痘を受けよ」と江戸の町民にお触れを出す。最初は民間施設であった種痘所はまもなく幕府の直轄となり、漢方の医学館に対応する西洋医学所と改称され、のちには東京大学医学部へと発展する。

お玉ヶ池種痘所跡@千代田区観光協会



□2 不衛生で俗信に支配された社会。伝染病が襲へば街路に死体の山


ところが玄界灘を隔てた韓国では、これとは異なる展開を見せる。韓国が伝染病とは無縁の衛生的な国だったといふのではない。むしろ逆である。

イギリス生まれのイザベラ・ビショップが一八九四~九七年に朝鮮半島を旅行し、『朝鮮紀行』を書いてゐる。牧師の娘で、韓国王室から格別の信頼を得てゐたビショップだが、ソウルの第一印象はかなり厳しい。


北京を見るまで、私はソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思ってゐた。それでなくとも狭い道は家々から出る固体・液体の汚物を受ける溝で狭められ、悪臭ふんぷんの穴や溝には半裸の子供たちが集まり、疥癬持ちでかすみ目の巨犬が汚物のなかを転げ回ってゐる──といふのだ。

昭和十一年発行の『京城府史』には、古来、朝鮮では衛生上の施設は何ら見るべきものはない。汚濁した河川を飲用水とし、トイレもない。医薬品には草根木皮を用ゐ、治療は妖僧巫女の祈祷に託した。いったん猛烈な伝染病が襲ふとたちまち蔓延し、罹患者は数知れず、死屍累々となって街路に横たはった。とくに痘瘡は四季を通じて発生・流行し、ほとんど風土病の観をなしてゐた。患者の遺体は「迷信」により、戸外にさらされた−−と書かれてある。


二十年前に韓国・東亜日報がまとめた『朝鮮近現代史年表』によると、最初に種痘を実施したのは、釜山日本居留地の済生医院らしい。明治十年(一八七七)のことである。韓国近代医学の父・池錫永が種痘法を学んだのは、この年表によると、同十二年、この病院の院長松前譲らからである。韓国の教科書が「外国人医師から」とぼかした表現で書いてゐるのは、何のことはない、日本人医師のことなのだ。


『京城府史』は、池錫永を「朝鮮の種痘に関して逸すべからざる人」と評価し、略歴を載せてゐる。特段の扱ひである。

東亜日報の『年表』などとあはせて読むと、池は一八五五(安政二)年、ソウルの貧しい両班の家に生まれ、漢医学を学んだ。種痘に関心を持つやうになったのは、開化政策推進のため日本に渡る修信使の随行医官から日本の種痘書を入手したのがきっかけである。七九(明治十二)年には海軍少軍医戸塚積齊、済生院医師松前譲から種痘法を学び、忠州郡徳山面ではじめてこれを実施した。

翌八〇年には修信使金弘集(のちの首相)とともに来日、日本外務省の斡旋で内務省衛生局牛疫種継所で痘苗製造技術などを修得する。帰国後、今度は日本公使館付海軍軍医前田清列について医学を修めた。

けれども、そこへ降って沸いたのが、八二年の壬午軍乱。日本流の政治改革を不満とする旧式軍人らが反日暴動を起こしたのだ。池が経営する種痘場は焼き討ちにあひ、韓国政府は池を「邪衛の輸入者」として捕縛した。池はこの年、開化政策の推進を求め、上疎してゐる。格好の標的になったといふことか。


□3 医者を賤業視する韓国儒教社会。迫害を越え初代官立医学校長に



しかし池はくじけなかった。八三年、池は科挙「文科」に合格する。理系から文系へ、そして官界入りで華麗な転身が図られる。他方、八二年には全州、八三年には広州に種痘所を設け、種痘術を伝授した。

だが、ある資料によると、数年後、「親日」の汚名を着せられ、全羅道に配流の身となる。

近代医療はなぜ韓国社会に受け入れられなかったのか。「近代化」「日本化」への反発もさることながら、ある韓国文化の専門家は、「韓国儒教社会では、他人の身体に触れる医者といふ職業が卑しい、と考へられたからだ」と指摘する。日本では医師の社会的地位は高い。両社会の決定的な相違であらうか。

種痘実施の功績が認められ、正三位を賜ったのは九四年のことである。近代化を推し進める金弘集政府に抜擢され、漢城府尹、大邱判官、東莱府観察使などを歴任し、九九年には、ソウルに官立医学校が設立されるのにともなひ、校長の地位にまで上り詰める。在職十二年。一九〇二年には勲四等八卦章をたまはる。

官立医学校の付属病院は伊藤博文の初代統監着任後、その勧めに従ひ、広済院、赤十字病院と統合され、一九〇七年、韓国医療保健行政の中枢機関として大韓医院が設立された。これが日韓併合後は朝鮮総督府医院と改称し、のちに京城帝国大学付属病院となる。

韓国の教科書が、韓国政府は広恵院に続き、全国に慈恵医院を建て、ソウルには大韓医院(現ソウル大学校付属医院)を設立したと自賛し、大きな写真を掲載してゐるのが、これである。

昨年、韓国政府は日本の教科書を「歴史の歪曲」「隠蔽」と厳しく追及したが、他者の批判だけなく、自分自身を省みる必要がありはしないか。

イザベラ・ビショップの『朝鮮紀行』の「序」に、ウォルター・ヒラリーがかう書いてゐる。

「朝鮮が国として存続するには、多少とも外国の保護下に置かれることが明らかに必要だ。清国の撤退後は日本が助言・指導の役目を背負った。社会の悪弊を改革する日本の努力はいくらか乱暴ではあるが、真摯であったことは間違ひない。発展のための前進を始動させたのは日本である」

池は他方でハングルの研究者、国文制定の貢献者として知られる。日本の国会図書館に、池が著した和綴ぢの漢字辞典が収蔵されてゐる。漢字ハングル混じりで内容はさっぱり分からないが、巻末に掲載された風物スケッチは医者ならではの写実的タッチで、几帳面で温かい人柄が伝はってくる。初版の発行は伊藤博文が暗殺された明治四十二年。翌年、日韓が併合されると、池は官界を引退する。

好むと好まざるとに関はらず、韓国近代史は日本の関与なしには語れない。全否定でも、全肯定でもない、冷静で客観的な東アジアの近代史理解が求められてゐるのではないか。(参考文献=『京城府史』『愛の種痘医』「白山の会紀要 創刊号」など)


いいなと思ったら応援しよう!