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天皇に私なし──昭和天皇が靖国参拝をお止めになった理由?(2007年10月23日)



▼1 最後の参拝から富田メモまで、10年間のタイムラグ


 10月17日から20日にかけて、靖国神社で秋の例大祭が行なわれました。前月の自民党総裁選中、「相手(中国など)の嫌がることをあえてする必要はない」と語っていた福田康夫首相は、やはり参拝しませんでした。
http://www.yasukuni.or.jp/index2.html


 不参拝といえば、昭和天皇は同神社の「A級戦犯」合祀を不快に思われ、そのため合祀以来、参拝をお止めになった──と新聞各紙が報道し続けていますが、本当でしょうか?

 昭和天皇が最後に参拝されたのは昭和50年秋で、「A級戦犯」合祀はその3年後ですが、昨年(平成18年)夏、日経新聞がスクープした富田朝彦宮内庁長官(故人)の「メモ」に、天皇の「不快感」が記録されていたとされるのは、それから10年もあとの60年代です。このタイムラグが意味するものは何でしょう?

平成18年7月20日づけ日経新聞


 日経の検証報告によると、富田長官は、昭和天皇が開腹手術から復帰された昭和62年の年末以後、用途を天皇との対話の記録に限定した手帳を用意し、天皇のご発言などを詳細にメモしたといいます。信頼する長官に伝えたいという天皇の意思が感じられる、というのが日経の社内研究会の見方ですが、「一種の病床日記」とも指摘されます。

平成19年5月1日づけ日経新聞


 靖国参拝について述べられたのは、昭和63年4月と5月のメモとされます。「A級戦犯」が合祀された昭和53年秋、合祀が報道された翌年春の日記には、関係する記述はないようです。

▼2 昭和63年4月25日と5月25日のメモ


それが私の心だ」と書かれた「4月28日メモ」は、昭和天皇最後の、昭和63年4月25日に行なわれたお誕生日会見について感想を語られたものとされます。会見で「先の大戦についてのお考え」を問われた天皇は、「何といっても大戦のことがいちばん嫌な思い出」とお答えになり、涙を流されました。さらに「戦争の最大の原因は何だとお考えですか」という質問には「人物の批判とか、そういうものが加わりますから、いまここで述べることは避けたいと思います」と答えられたのでした。

4月28日メモ@日経新聞


 この数日前には、春の例大祭に合わせて靖国神社に参拝した奥野誠亮・国土庁長官が記者会見で、「もう占領軍の亡霊に振り回されることはやめた方がいい」と述べ、翌月には国会で「日中戦争当時、日本に侵略の意図はなかった」と発言して内外の批判を浴び、長官を辞任しています。

「富田メモ」にはこれに対応するように、「戦争の感想を問われ、嫌な気持ちを表現したが、それはあとで云いたい。『嫌だ』といったのは奥野国土相の靖国発言、中国への言及に引っかけて云った積もりである。前にもあったね、どうしたのだろう」などとあり、そのあとに合祀批判、宮司批判の内容が続いているようです。

5月20日メモ」は、「山本(悟侍従長か)未言及だ&徳川(前侍従長)とは(話を)した&靖国に干(関)し。藤の(藤尾か)、奥野がしらぬとは。松岡、白取(白鳥か)。松平宮司になって、参拝をやめた」「靖国。明治天皇のお決になって(た)お気持を逸脱するのは困る」とあるようです。

5月20日メモ@日経新聞

▼3 公の場では私的なお考えを語られなかった


 病魔と闘う最晩年の昭和天皇の「肉声」とされる「側近のメモ」ですが、あくまでメモに過ぎません。側近の理解は側近の理解でしかなく、天皇の本当のお気持ちは推測の域を出るものではありません。天皇個人の「考え」は歴史家や新聞人には関心の深いテーマですが、結局は言ったか言わなかったかという水掛け論に終わるでしょう。

 憂慮されるのは、有史以来、国民を1つに統合することこそが、天皇のお役目ですが、個人的な「お考え」が側近とメディアを通じて公開され、政治問題化することによって、逆に国民的な統一が失われ、「天皇の心」が天皇の統治を揺るがせる皮肉な結果をもたらすことでしょう。

 そのことを熟知するからこそ、昭和天皇は私的な「お考え」を公の場で語ることをされなかったのではありませんか。古来、「天皇に私なし」といわれています。

参考文献=「A級戦犯靖国合祀、昭和天皇が不快感」(「日本経済新聞」平成18年7月20日)、「富田メモ委検証報告、昭和史の一級資料」(「日本経済新聞」平成19年5月1日)、斎藤吉久「昭和天皇の『不快感』は本当か」(「正論」産経新聞社、2007年10月号)など。


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