「緑の連隊長」吉松喜三大佐──敵将も認めた功績(「神社新報」平成10年10月12日号から)
戦時中、広大な中国大陸を転戦しながら、日中戦没者の慰霊と平和への祈願を込めた緑化を推進し、「緑の連隊長」と呼ばれた軍人がいる。吉松喜三陸軍大佐(故人)である。
吉松氏は明治27年、佐賀県鳥栖市に生まれた。支那事件勃発後の昭和14年、戦車第13連隊が結成されたときに初代連隊長となり、中支戦線で戦った。
15年7月、揚子江北方で被弾し、左脇腹をえぐられるという重傷を負ったのが転機となった。
◇建設の伴わない破壊は聖戦ではない
かろうじて一命を取り留めたものの、野戦病院では絶対安静を強いられた。床の中で心に浮かぶのは、戦陣に散っていった部下のことであった。
ある日、砲弾が轟くなか、美しい讃美歌が聞こえた。起き上がって外を見ると、洋館の緑の木立のなかで、白人らしい2人の尼僧と中国人らしい数人の尼僧が歌っていた。
「そうだ、緑だ。いつ果てるとも知れぬ戦いにすさむ兵士の心を和ませるのは緑であり、散華していった戦友の御霊(みたま)を慰めるのは緑だ。戦没者の慰霊と荒廃した中国の緑化のために、植樹をしよう。わが部隊の行くところ、緑を植えよう」
退院後、吉松氏は全将校の前で、
「興亜植樹の即刻開始」
を宣言、植樹が始まった。
破壊ばかりが戦争ではない。建設の伴わない破壊は聖戦ではない、と吉松氏は考えたらしい。
転戦するたび、荒野に、あるいは原野に木が植えられ、散華者の名札がつけられた。
16年3月、「中国独立の父」孫文の命日には、中国人捕虜80名にも1本ずつ記念の植樹をさせた。捕虜たちはニコニコしながら、柳の挿し木にスプーンで水をかけた。
◇慰霊の植樹100万本
日米開戦後は蒙疆に転戦し、戦車第三師団・機動歩兵第三連隊でも植樹が進められた。
植樹ばかりではない。士官には中国語を学ばせた。道路を整備し、上下水道を引き、公会堂を建設し、お寺や教会、学校を修復した。住民と宥和し、五族共和の楽土を築いた。
その後、河南に転じて、山地戦車師団が洛陽を総攻撃したときは一番乗りで、鄭州での慰霊祭では日中双方の戦没者のために100本の弔霊樹を植えた。
終戦まで、いや復員の日まで慰霊の植樹は続けられた。植えられた木は100万本を超えるという。
敵将は功績を認め、帰国する吉松氏に「国父孫文先生の肖像額」と感状を与えた。
吉松氏が作詞した「興亜植樹の歌」にこうある。
聖き興亜の朝風に
狭霧晴れ行く大アジア
今ぞ十億手をとりて
創る理想の大樹海
戦後、復員してからも、吉松氏は各地で慰霊祭を営みながら、植樹を続けた。
ところが、なかなか苗木が手に入らない。悩みを抱えながら靖国神社に参拝すると、境内には鬱蒼と緑が繁っていた。
「献木の枝分けや木の実を育てることはできないだろうか」
◇人民委員会から届いた手紙
神社側の協力を得て、境内の木の実や種を拾い、イチョウやサクラなど、数十種の苗を育て始めたのが33年。36年からは同期の戦友らの支援を受けて、「靖国神社慰霊植樹会」を結成、相撲場のかたわらに苗園を設けて苗木を育て、全国の公園や学校、遺族や戦友、崇敬者に配布した。
雨の日も風の日も、一日も欠かさず、神社に通い、植樹活動を続けた。苗木は中国大陸へも送られた。
37年7月、内蒙古安北県の人民委員会から手紙が届いた。
「あなたの植えた木が6メートルほどに伸び、青々と繁っている。私たちの友好が幾山河を越え、心と心が繋がり、世界平和が実現されますように」
手紙を握りしめながら、吉松氏は男泣きに泣いた。
遺族や参拝者に頒布された苗木は、優に100万本を超える。
「緑は平和の基だ。靖国とは青を立てて国を安らかにすることだ」と語り、慰霊と平和のための植樹に半生を捧げた吉松氏は、昭和60年6月、90歳でこの世を去る。
その日、靖国神社から感謝状と記念品が届けられたという。(社報「靖国」その他を参照した)