大新聞の「神話」──「大本営発表」を垂れ流した「戦前」を清算していない(「神社新報」平成9年8月11日号)
(画像は天孫降臨神話が伝わる高千穂・二上山)
▢1 天孫降臨を「作り話」と断定
昭和31年7〜8月、神道文化会は、國學院大學の滝川政次郎を団長とする総勢30名の調査団を、高千穂・阿蘇に派遣し、学術的調査を実施した。
滝川は、報告書『高千穂・阿蘇』の序文に、その目的について、こう説明している。
〈皇祖発祥の地は、戦前は九州説が有力だったが、戦後は大和説が有力になった。戦前は政府が九州説以外を許さず、異説を弾圧した。そのことへの反感が戦後の大和説に力を与えた。しかし歴史は実証的でなければならない。そこで現地調査が企画された〉
朝日新聞は7月下旬、調査を取り上げた。ところが、である。
「高千穂天孫降臨は根拠なし」
「天孫降臨は山伏の作り話」
などと一方的に決めつけて報道したことから、大問題に発展した。
▢2 抗議に梨のつぶてどころか「観光合戦」とからかう
記事の内容はこうである。
〈岩戸神社の古代文字(神代文字)は江戸期の製造で、高千穂周辺の古墳は年代が新しい。したがって、
「天孫降臨の地としての高千穂は影が薄く、神話は神話でしかなかったという結論を見出さざるを得なくなった」〉
調査員の片言隻句を専門家の見解と説明する報道は、調査に協力する住民の猛反発を引き起こした。そこで調査団は現地で講演会を開催した。
〈古墳を証拠に天孫降臨を実証できないのは明らかだが、だからといって高千穂が天孫降臨の地でないとは断定できない。記事は途方もない飛躍で、中傷に過ぎない〉
調査団は朝日の記事に非を鳴らし、文化会は事実を歪曲して報道した責任を問う抗議声明を発表した。だが、調査員を務めた小野迪夫・小石川大神宮宮司によると、朝日側は梨のつぶてだった。
それどころか、「マスコミ大親分」の異名をとる大宅壮一を押し立てて、記者団を送り込み、「天孫降臨てんやわんや──復活しそこねた神話」と題する記事を「週刊朝日」に掲載した。
調査団の意図は神武天皇の実在証明で、紀元節の復活にも通じる。敗戦でご破算になったかに見えた「神話」が復活しつつあるようだ、と揶揄し、果ては憲法改正運動ともつながっていると中傷し、宮崎・鹿児島両県の高千穂野本家争いは観光合戦だ、とからかったのである。
▢3 戦争の扇動家が平和主義者に豹変
これに対して、滝川は、報告書の序文に、悲痛とも聞こえる批判を載せている。
〈戦時中、検察官や憲兵は「危険思想」のリストに載せられた人間の罪状をでっち上げた。戦後は新聞記者が事実のねつ造や虚偽の報道という卑劣な手段で弾圧者を演じている〉
戦争の扇動家が敗戦を境にまんまと平和主義者に豹変した事例は少なくない。神道文化会の純粋な研究を、まるで戦前の亡霊の復活のように書き立てた朝日自身は、みずからの「戦前」を清算し得ているのだろうか。
戦争中、大新聞が「大本営発表」を垂れ流し続け、国民を煽り、戦争の狂気に駆り立てたことは否定しようのない事実だ。しかし「虚偽を書かない」という新聞人としての最低限のモラルさえ、大新聞は回復していないのではないか。
東京朝日新聞は昭和14年1月、陸軍省の後援で、靖国神社の外苑を主な会場とする「戦車大展覧会」を主催した。100台の戦車を連ねた「大行進」や「大講演会」も同時に開かれ、展覧会の模様は連日のように紙面に取り上げられた。
ところが、数年前(平成7年)にまとめられた『朝日新聞社史』全4巻の「資料編」、朝日が主催した「展覧会」「博覧会」の一覧にも、年表にも、不思議に、「戦車展」の記載はない。単純なミスなのか、それとも靖国神社が会場だったことに、何か不都合でもあるのだろうか。
社史「昭和戦後編」には、「戦争責任の追及」の記述がある。「真実の報道、厳正なる批判の重責を果たし得ず……国民をして事態の進展に無知なまま、今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがため」に機構改革と人事異動が断行されたというのである。
だが、いったい何をもって「新聞の責任」と考えるのか。自己批判は観念的で、具体性に欠けている。
終戦間もないころの社史ならまだしも、すでに50余年が経過している。抽象的な戦争責任論しか論じられないとすれば、それこそ無責任であり、日本を代表する報道機関としては致命的怠慢といえないだろうか。
敗戦後、みずから責任をとって、歴史に幕を閉じた報道機関は同盟通信以外にはないといわれる。「社会の木鐸」「真実の報道」という新聞の理念それ自体が「神話」なのだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?