生々しい天皇意識を感じない?──過激派もネトウヨも神道学者も(令和3年1月31日、日曜日)
いまやSNSの時代、誰でも自由に情報を発信できます。天皇・皇室についても、その悠久なる歴史と伝統への知識や理解がどの程度のものなのか、慎重さや自制心があるのかないのか、勝手気ままな議論が展開されています。百花斉放とはまさにこのことでしょう。
我こそは主権者であり、天皇・皇室のあり方を決めるのは自分だと言わんばかりの高慢な論調は何とかならないものでしょうか。ということで、以前書いた拙文を転載します。(令和6年5月4日)
前回、SNS時代の天皇論、天皇研究のあり方について書きましたが、なかなかこれが難しいのです。
それは日本人の天皇意識というものが抽象的、観念的なものとなり、暮らしに密着した生々しさを失っているからです。昔とは違い、天皇・皇室が他人事のように感じられるようになってしまったのです。だから、好き勝手に皇室を批判する。逆に、尊皇派の言論が口先だけのように聞こえるのもその結果なのでしょう。
▽1 「非公然」活動を自己批判した中核派
去年の秋ごろでしたか、中核派の最高指導者だという人が半世紀ぶりに姿を表しました。過去の「非公然」路線の「根底的誤り」を率直に認め、「空論主義」からの訣別と、コロナ禍の時代の要請に応じた新自由主義打倒の現実路線への転換を表明したと伝えられます。
また、先週は記者会見を開き、公然活動への路線変更をあらためて表明するとともに、過去の活動について、自身の関与を否定したうえで、「必要な階級闘争だった」と正当化したと報道されています。
中核派といえば、「天皇制反対」が主な主張とされ、平成の御代替わりには、全国各地で新型迫撃弾などを用いて、皇室関係施設のみならず交通機関や神社などへのゲリラ事件を引き起こしたことが思い出されます(『平成3年警察白書』)。社殿全焼の被害を受けたお宮もありました。
とすれば、中核派の指導者はこうした過去の反天皇活動を「空論主義」と認め、現実主義への大転換を図ったのかどうか、あるいは天皇観自体が変わったのかどうか、残念ながらメディアの報道からは真意をうかがうことはできません。
▽2 民の側のさまざまな天皇意識
前にも書いたことですが、キリスト教世界では絶対神の存在を大前提に、真理と正義の考え方、そして人間の行いは一元的に、演繹的に定まり、それ以外の思想と行動は徹底的に排除されます。キリスト教の鬼っ子としての共産主義も同様です。天地創造から終末までの歴史観が唯物史観に、神と悪魔の闘争が階級闘争史観に置き換えられたまでのことでしょう。
しかし日本の多神教文明はこれらとは一線を画すものです。皇室には皇室の天皇意識があるのと同時に、民には民のさまざまな帰納的天皇意識が共存し、多様な価値観の共存による社会の平和が保たれてきたのです。中核派の指導者はそこに気づいているでしょうか。
たとえば私の郷里は古来、絹の里として知られていました。養蚕と機織りの技術を教えてくれたのは天皇の妃とされ、お妃を祀る神社が地域に点在しています。土地の人たちはいい繭が採れるように、いい織物が織れるようにと「機神さま」に祈ったのです。人々の暮らしは生々しい天皇意識に支えられていました。
朝から晩まで町に鳴り響いていた機織り機の音がパッタリと途絶えたのは、昭和40年代の日米繊維交渉の結果でした。沖縄返還とのバーターで、古代から続く日本の繊維業は捨て石にされたともいわれます。養蚕と機織りを通じた土着的な生活感のある根強い天皇意識が衰微していくのは目に見えています。
▽3 好き勝手な天皇論が溢れる
わが郷土だけではありません。土着の天皇意識が全国的に失われつつあります。現代人はすでに定住性を失い、つねに移動を繰り返す遊牧民化しているからです。故郷という日本語が死語と化したのです。
かつては地縁共同体や血縁共同体、あるいは職能集団に特有の強固な天皇意識があったはずなのに、それが失われています。戦後の経済成長とともに、日本人は集団性を失い、どんどん個人化してしまったからです。
歴史的、集団的な暮らしに密着した天皇意識は薄れ、個人の観念的、抽象的な天皇意識にとって代わり、あまつさえ好き勝手な天皇論が世の中に満ち溢れています。反天皇的姿勢のマスメディアもさることながら、SNSの世界はその極みです。祖先たちの天皇観など知る由もなく、やりたい放題のアラシの結果、何が起きるかなど、考え及ばないのでしょう。目の前の皇位継承問題など危うい限りです。
他方、皇室を取り巻く環境も昭和40年代に一変しています。かつての宮内庁は旧華族出身の職員もいて、陛下を家長とする大家族のような雰囲気があったそうですが、他省庁からの横滑り組が増え、国家公務員としての意識が勝るようになり、言葉遣いさえ変わっていきました。ふつうの官庁になったのです。
そして古来、天皇第一の務めとされてきた天皇の祭祀が側近による一方的かつ無法な簡略化、改変に晒されることになりました。それを最初に「工作」したのが堂上家出身の入江相政侍従長だったことは象徴的です。天皇は皇室の伝統と同時に、藩屏を失ったのです。
▽4 土臭い信仰を失った神道学者
人一倍、尊皇意識が強いはずの神道人も大して変わりません。援軍のいない陛下はますます孤独です。
何年か前、講演を依頼され、大嘗祭の「米と粟」についてお話ししました。日本列島には稲作民も畑作民もいる。国と民をひとつに統合するため、天皇は皇祖神のみならず天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈るのだと話したところ、最前列に座っていた著名な神道学者から「大嘗祭は稲の祭りではないか」との反論を受けました。
最近でこそ、大嘗祭が「米と粟の祭り」であることが理解されるようになりましたが、それでも「稲の祭り」に固執する大学教授もいるのです。どうしてでしょうか。
神道入門書とされている本居宣長の『直毘霊』を読むと、不思議ですね、冒頭、「日本は天照大神がお生まれになった国だ」という一節で始まります。記紀神話のように天地開闢から説き起こされず、キリスト教的な一神教的論理の組み立て方がされています。大神以前の神々がいないのです。多神教の否定です。
宣長を高く評価する神道学者たちが「稲の祭り」に凝り固まるのも当然なのでしょう。それにしても、教授が生まれ育ち、奉職するお宮のある土地がけっして稲作地帯ではないことに思い及ばないとしたらおかしいでしょう。信仰が暮らしとは無縁の観念論であることが暴露されます。
古代から鉱業、林業、セメントで栄えてきた教授の郷里は、名だたる蕎麦処として知られるくらいで、主食は粟や麦、芋だったでしょう。畑作の民なら当然、畑作物を土地の神に捧げ、祈ってきたはずです。もし天皇が「稲の祭り」しかしないなら、畑作民は天皇の祭りにシンパシーを感じるでしょうか。逆に疎外感を感じるのではありませんか。
天皇が畑の粟を捧げて畑の神に祈ればこそ、畑作民は天皇を身近に感じるはずです。それは稲作民も同じでしょう。国と民を統合するスメラミコトたる天皇は、であればこそ皇祖神ほか天神地祇を祀り、米と粟を捧げて祈らなければならないのでしょう。
生々しい暮らしに根づいた土臭い信仰を失った神道学者には、過激派やネトウヨと同様に、それが理解できないということでしょうか。いま生々しい天皇意識を持つ民といえば、陛下と親しく交わる被災者たちでしょうか。しかし行幸の機会が少ないコロナ禍の昨今にはそれも厳しくなりました。