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君が代伴奏判決「藤田反対意見」の論理──「思想・良心」の自由と公務員の職務「行為」(「神社新報」平成19年3月4日号から)


「上告してよかった」

 裁判に負けたはずの教師は最高裁判決後の記者会見でそう切り出し、高裁判決の破棄を求める一裁判官の反対意見を読み上げ、合憲判決を批判した、と伝えられます。

最高裁(同HPから)


 裁判は、

「君が代は過去の日本のアジア侵略と結びついており、公然と歌ったり、伴奏することはできない」

 などと確信的に考える公立学校の音楽教師が、入学式で校長から君が代のピアノ伴奏を求められたのに応じなかったことが事の発端でした。そのため戒告処分を受けた教師は、校長の職務命令は思想・良心の自由を保障する憲法に違反する、として処分の取り消しを求めたのです。

「思想・良心」の自由が保障されている日本で、公的儀式での国歌演奏に際して、公務員はどう振る舞うべきなのか、裁判は問いかけ、最高裁は教師の訴えを退けたのですが、教師が屈する気配はありません。


▢ 国論が二分している理由

 最高裁第三小法廷が、校長の職務命令は思想・良心の自由を保障する憲法に反しない、という初めての憲法判断を示したのは(平成19年)二月末のことでした。ピアノ伴奏の拒否は君が代に否定的な教師の歴史観・世界観と不可分一体とはいえないし、校長の命令が歴史観・世界観の否定とは認められない、などというのが、上告棄却の理由です。

 判決は五人の裁判官のうち四人による多数意見で、残る一人の藤田裁判官は

「多数意見に疑問を抱く。にわかに賛成できない」

 と、次のような反対意見を述べました。

 ──裁判の争点は、信条に照らして苦痛であるにもかかわらず強制するのは許されるのかどうか、という点にある。
 問題となる「思想・良心」とは、君が代に否定的な歴史観・世界観に加えて、入学式に公機関から意思に反する「行為」を強制されることに関する否定的評価も含まれうるし、これこそが本裁判で問われている。
 君が代について国民の間で意見が大きく割れているため、その君が代を公的儀式で斉唱することを強制することに反対する意見もある。これは君が代に関する歴史観・世界観とはべつの次元の信念・信条で、これに対する職務命令は、明らかに信念・信条そのものに対する直接的抑圧になる。

 教師を感激させたこの反対意見は、二つの「思想・良心」の存在を認めるところに特徴がありますが、法概念上の混乱が指摘されます。

 判決は教師の君が代「侵略」史観をひとつの歴史観としてはっきり認めてさえいますが、反対意見が問題の核心と指摘する職務行為を強制されることへの否定的評価は、不快感というほどのものなら、憲法が保障する本来の「思想・良心」とはいえません。逆に教師が、校長の職務命令をまったく認めない、という反組織論的「思想」の持ち主だったとしても、「思想」が内心にとどまっているかぎりは自由です。

「思想・良心」と「行為」とは別であり、この教師がいうように音楽が「心の表現」であるとしても、「きよしこの夜」を歌えばクリスチャンになり、「イマジン」を歌えば無神論者になるわけではありません。公務員の職務命令は「思想・良心」を「侵害」するものではなく、あくまで公務員としての「行為」を「制約」するものです。

 その点について反対意見は、こう述べています。

 ──公務員は全体の奉仕者であるから基本的人権の制約を受けることは否定できないが、逆に全体の奉仕者であるから当然、どんな制約をも甘受すべきであるとはいえない。職務命令が達せられようとする公共の利益の具体的内容が問われなければならない。
 教師の「思想・良心」とはどのような内容か、さらに詳しい検討を加える必要があり、その「思想・良心」の自由と公共の福祉、公共の利益とを具体的に検討すべきである。原判決を破棄し、差し戻す必要がある。

 結局、藤田裁判官は、君が代の伴奏を教師が命じられることで制約される「思想・良心」より、公務員としての職務「行為」を優先するには、慎重さが求められる、と一般論的な主張をしているに過ぎません。

 君が代について国民の意見が分かれている現実を認めることを出発点におき、「思想・良心」の自由を考えようとするのが反対意見ですが、その前に、君が代に対する評価、もっといえば天皇の歴史に関する評価がなぜ分かれているのか、見極める必要があります。藤田裁判官自身が指摘しているように、

「君が代はアジア侵略と結びついている」

 と考える批判者の「思想・良心」とはいかなるものか、詳しく検討されなければなりません。


▢ 千年を超える豊かな歴史

 日本の暗い過去と結びつけて、君が代、そして天皇反対を叫ぶのはこの教師だけではありません。敵愾心むき出しに天皇批判、国旗・国歌反対を叫び続けた中心人物といえば、山住正己・東京都立大学総長(教育学)です。


「日の丸・君が代問題は歴史的にとらえ直す必要がある」

「日の丸、君が代問題はどうしても天皇と天皇制をどう考えるべきか、というところに行き着く」

 と述べています。

 しかし国旗・国歌反対イデオローグの歴史へのまなざしは、戦時下の暗部にのみ集中しています。「紀元節」の歌を歌わされた小学校時代を振り返り、

「日本国民である限り、草木と同じく、天皇になびき伏す存在でなければならないとされていた」

 と批判するのです。

 天皇の歴史がすべて善だということはあり得ませんが、逆にすべて悪だということもありません。マイナスばかりなら、世界に例がないほど天皇の統治が続いているはずはありません。個人の体験と天皇と国民の歴史とが混同されています。

 たとえば、日中戦争勃発のあと、上海戦線で日本軍の暴走が相次いでいたとき、当時随一の神道思想家である今泉定助や明治神宮の有馬良橘宮司らが明治天皇の御製

「いつくしみあまねかりせばものろしの野にふす虎もなつかざらめや」

 を多数揮毫し、戦線の将兵に贈ったという歴史が知られています。軍の暴走にブレーキをかけたのは天皇の慈しみの精神です。

 君が代は古今集の時代すでに詠み人知らずで、朝廷に用いれば聖寿万歳を寿ぐ意味になり、民衆に用いれば長寿を祝う歌として、さまざまに歌い継がれてきました。その千年を超える豊かな歴史に、君が代反対派は目を向けようとはせず、負の歴史ばかりを取り上げ、組織的法廷闘争を通じて、偏ったイデオロギーを宣伝し、国民を洗脳している。今回の裁判もその一環ではないでしょうか。


 国論の二分というのは、その結果でしょう。だとすれば、その現実を出発点に、批判者の「思想・良心」の自由を保障しようとする藤田裁判官の論理は、政治闘争を追認するばかりか、助長しはしないかと危惧されます。問題はそこにあります。

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