神社建築発生の謎──高床式穀倉から生まれた!?(「神社新報」平成8年5月)
(画像は伊勢・内宮の御稲御倉[みしねのみくら])
昨年(平成7年)6月、タイ北部を取材旅行した際、ぶらりと1軒の農家を訪ねた。若夫婦がバイクに麻袋入りの米1俵を積み、二人乗りで外出しようとしている。猛暑の日で、主人は上半身裸だ。
驚いたのは、農家の母屋は神社の本殿を思わせるような高床式の木造家屋で、納屋の屋根には千木(ちぎ)のようなものが突き出し、棟(むね)には勝男木(かつおぎ)のようなものが乗っている。「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」といわれる神宮の洗練された建築美にはほど遠いが、基本構造は似ている。
いや驚くのはまだ早い。北部タイでは民家のほか、都市部にある博物館やバス停の屋根にも千木があしらわれている。千木や勝男木といえば、日本の神社だけの特徴かと思っていたら、とんでもない。
それにしても、よりによって祭祀施設であるはずの日本の神社と、タイの納屋の構造が似ているというのはどういうわけだろう。社殿の発生や神社の起源と関係があるのだろうか?
◇高床遺構が江南から出土
◇稲作農耕とともに伝来か
神社建築には、正面の位置の違いから、妻入(つまいり)と平入(ひらいり)の2系統があることは知られている。
妻入を代表する出雲大社、住吉大社、大島神社の本殿は2室構造で、他方、伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)正殿(しょうでん)の神明造に代表される平入は1室である(林野全孝・桜井敏雄『神社の建築』)。
したがって妻入と平入の社殿では発生の歴史が異なると考えるのは当然で、神宮司庁営繕部長を務めた山内泰明氏は、大社造は古代住居が社殿に変化した大陸的構造で、神明造は切妻造の高床穀倉から転化した南洋的建築だと説明している(『神社建築』)。
ただ、京都産業大学の所功先生は、神宮正殿も元来は妻入だったとみている(『伊勢神宮』)。
神々の住居と考えれば、神殿が古代人の住居から発生したというのは理解しやすい。けれども妻入であれ平入であれ、古代住居から高床式神殿の発生を説明するのは案外、厄介である。古代住居は平地・半地下式の高床式住居だからだ。
高床建築や掘立柱の建築が数多く見られるのは弥生時代になってからだという。北九州から瀬戸内の弥生期の遺跡から高床式建築の遺構や柱などが発見されている(平井聖『住生活史』)。
海外に目を向けると、20数年前に発見され、「世界最古の稲作遺跡」として話題になった中国・浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(前5000─4000年)から、稲籾のほか大型高床式建築の遺構が出土している。
揚子江流域以南の華南、東南アジア、朝鮮半島南部などにも高床が広く分布する。
家屋も倉庫もある。棟持柱(むなもちばしら)や千木の存在を裏づける考古資料も出土しているようだ。
ジャポニカ稲の起源地とされる揚子江中下流域に高床建築のセンターがあるらしいことは稲作農耕との関係が想定されるが、京都大学の浅川滋男先生は必ずしも明確には結びつかないと指摘する。農耕段階以前の園耕段階にむしろ高床遺構が多く見られるからだ(『住まいの民族建築学』)。
浅川先生は高床建築の発生を、次のように大胆に推理する。
(1)高床建築は新石器時代初期かそれ以前、稲作とは無関係に低湿地の家屋として生まれた。
(2)起源地は揚子江中下流域から東南地域。
(3)漢代までに南方のほぼ全域、さらに東南アジア、朝鮮半島南部、弥生期の製なん日本に伝播した。
(4)発生期は稲作と無関係だったが、周辺地域に伝播する過程では稲作と複合関係にあった。
このほか別系統とみられる高床倉庫が北方ユーラシアに広がっている。中国東北部、樺太、シベリア、アラスカ、さらにスイス、スウェーデンにも見られる。こちらは狩猟採集民族の文化らしい。
校倉造で、棟持柱もみられるため、神明造の源流との見方もある。
◇神概念の変化と社殿の発生
◇高倉で斎行される民俗儀礼
古代日本人は神籬(ひもろぎ)や磐境(いわさか)などに自然の神霊を迎え、祭祀を執行したとされる。素朴な自然崇拝の時代は山や滝、巨石を御神体とし、神殿を必要としなかった。
やがて神殿が発生し、神々は降臨せずに常住すると認識され、同時に自然神から人格神へと変身する。人間と同じように名前を持ち、食事をし、舞楽を愛でる存在となり、神々の体系も成立したのだろう。
こうした神概念の変化、神殿の発生はいつ、どのようにして起こったのか?
所先生は「神宮に代表される『神明造』の原型は、古代の高床穀倉建築である」(前掲書)とする。だとしたら、神殿の発生はいつの時点と考えるべきだろうか?
稲作とともに高倉が伝来したことは間違いなかろうが、伝来後、日本列島で神殿に転化したのだろうか?
中国・前漢時代の石寨山(せきさいざん)墓(雲南省)から出土した貯貝器(ちょばいき)には、高床倉庫に稲を収納する場面のほかに、祭祀施設としての高床が描かれているらしい。高倉は伝来以前、すでに祭祀施設だったとも考えられる。
昭和18年に発見された静岡・登呂遺跡は弥生後期初めのものという。いま遺跡公園で目をひくのは、東京大学の関野克先生が復元した板倉造の高床倉庫2棟だが、高床倉庫とされた根拠は鼠返しの出土らしい。
面白いのは、まるで氏神を中心に集落が形成されるように、米倉らしい倉庫を中心に登呂の集落が構成されていることだ。人々は倉庫を共有し、共同生活を送っていたかに見える。
登呂では祭器具として剣や琴、高杯(たかつき)形木器などが発見されているが、神殿はない。けれども、高床倉庫がじつは祭祀施設だったとしたらどうだろう。
というのも、数年前、大阪・前期難波宮下層遺跡や和歌山・鳴滝遺跡(いずれも古墳時代)から高床倉庫を1カ所に集めた遺構が発見され、話題を呼んだことがあったからだ。
それどころか、南西諸島ではいまも高倉や群倉が見受けられ、沖縄・名護では神田で収穫された初穂をウタキ(御嶽)の傍らの高倉に奉納し、初穂でつくった神酒は豊年祭に用いられる。同様の民俗儀礼は、かつては奄美にもあったという。
さらに、ボルネオのダヤク族の葬祭には仮設の高床家屋が登場するという。高床は天上世界の雛形とされている。死者に捧げる脱穀も斎行されるようだ。
このように穀倉は富と権力の象徴であると同時に、穀霊・死霊・祖霊を祀る祭場でもある(浅川前掲書)。
古代の日本人は穀倉の床下を集合場所とし、ときに神籬を立て、祭祀を執行したとの説もある。床下の祭祀は、伊勢神宮の正殿中央の床下に建てられた「心の御柱(しんのみはしら)」を思い起こさせるのに十分だ。
◇御饌殿に伝えられる古式
◇宇賀之御魂を祀る御稲御倉
その伊勢神宮だが、外宮に御饌殿(みけでん)がある。
数ある殿舎のなかで、奈良以前の古い形式をいまも伝え、1年365日、朝夕欠かさずに行われる日毎朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)になくてはならない、大神様の食堂である
建物の四隅に柱はなく、横板壁で囲んだ、井楼造(せいろうづくり)ともいわれる特殊な板倉造である。
皇學館大学の桜井勝之進先生は「御饌殿における祭儀そのものの中にきわめて根強い伝統性が潜んでいたからこそ、建物の様式をも頑固に守り続けたのではなかったろうか」(『伊勢神宮』)と指摘する。
天照大神の託宣で御饌津神(みけつかみ)が迎えられ、大御饌の祭儀が始まった(外宮に伝わる『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』)とする信仰の原点が殿舎の改造を阻み、仏教伝来の影響を拒んできたようだ。
戦国時代以前はほとんどが御饌殿と同じ形式だったというが、「人間の理性に反発するような気紛れな要素を一つも含んでいない」(『日本美の再発見』)とブルーノ・タウトが絶賛した神宮の簡素な建築様式の原型が、大神の住まいではなくて食堂に、より濃厚に残されているというのは興味深い。
もうひとつ注目されるのは、内宮にある御稲御倉(みしねのみくら)と呼ばれる殿舎である。
神田で収穫された稲の抜穂(ぬいぼ)を納める穀倉で、この抜穂が神宮でもっとも重要視される神嘗祭と6月、12月の月次祭(つきなみさい)の三節祭(さんせつさい)に供される御料となる。
御稲御倉は単なる穀倉ではない。御稲御倉神をまつる歴とした社殿でもある。
神宮皇學館教授だった阪本広太郎先生は、「御稲そのものを尊崇することは非常なものであって、かの『建久年中行事』にこれを神田より捧持して納入するにあたって警蹕(けいひつ)を行ったことが見えているように、まったくこれを神格化したのであった。かようなわけで、この御倉にも古くからその守護神を鎮祭した」(『神宮祭祀概説』)と解説している。
興味深いのは、御稲御倉の祭神・御稲御倉神はじつは宇賀之御魂(うかのみたま)で、豊受大神の御霊だということである。何のことはない、穀霊信仰そのものだ。
宇賀之御魂を倉稲魂と書くのも、うなずける。穀霊は穀倉に宿る、という信仰が派生して穀倉は社殿に転化していった、と考えるよりも、高倉が最初から穀霊に関わる祭場だったとすれば、理解しやすい。
春に蒔いた一粒の籾種が芽を出して生長し、秋には黄金色の穂に数十もの実が稔る。人々はこれを食し、命をつなぐ。自然の力、生命の不思議は古代人の驚異であったに違いない。必ずしも米作適地ではない日本列島では十分な収穫が得られない分、米作民の豊穣への祈りが深まっていったことは想像に難くない。
稲霊ほか神々の降臨を願い、春は豊作を祈願し、秋には新嘗(にいなめ)の祭りを執行する祭場が穀倉であり、それがやがて神殿の発生を促した。素朴であるがゆえに普遍的な稲霊への祈りを原点として、ときに新たな信仰を加味し、あるいは変容させながら古代人が各地に神社を創建させていったのだとしたら、その祈りのなんと切なることであったろうか。
▽タイの穀霊信仰
さて、タイに話をもどす。
タイにも穀霊信仰は根付いている。首都バンコクを歩くと、ホテルの入り口やオフィスビルの庭の片隅に地神をまつる精霊祠をよく見かける。石柱のうえに寺院のミニチュアが置かれ、供物や花が捧げられ、香が焚かれている。
上座部仏教の信仰の篤い国だから、仏教と関係があるのかというと、そうではない。7世紀に仏教が伝来する以前の精霊信仰が息づいているのだ。
タイだけではなく、東南アジアの人々は森羅万象すべてに霊(ピー)が宿っていると信じている(阿部利夫『タイ国理解のキーワード』)。
タイでは交通事故が起きても、風邪をひいて、ピーの仕業だと考えられる。北部タイの人々が村の呪術師(モー)から授与されたお守り(クルアン・ラーン)を首に下げているのも精霊信仰である。
農民たちは収穫後の水田で落ち穂拾いの儀礼を斎行する。祈りの言葉はこうだ。
「稲の神様、どうぞ米倉までおいでください。野や道や、田や畑に迷って、野ネズミに噛まれたり、鳥についばまれたりしないでください。どうぞ、どうぞおいでになって、楽しく愉快にやってください。あなた様の息子や孫を育てられるように、弥栄をお与えください」
さらに、阿部先生は日本との共通点を指摘する。
「稲のカミを信じ、早乙女(さおとめ)、種籾信奉などまったく同じですし、農事の余暇の楽しみの踊りは、タイは『ラム・ウォン』(男女相対の輪の踊り)、日本は昔の歌垣あるいは嬥歌(かがい)、現在の盆踊りと対比できます。そしてまた、精霊への信仰と奉仕のもとに農民は強く結び合う共同体を作り上げております」(前掲書)
タイの人々は、日本の稲荷信仰のように、稲には穀母(メーポソップ)が宿ると信じている。村祭りも日本と同様、村人が協力して斎行されるという。
日本に似た北部タイの農村風景は、私たち日本人に親近感を感じさせずにはおかない。けれども、タイの精霊信仰が日本人の信仰と決定的に異なるのは、伊勢の神宮も出雲大社も生み出さなかったことである。金色に輝く、荘厳かつ巨大な宗教建築を、タイに建造させたのは仏教である。