田中卓先生の著作を読んで──「皇国史観」継承者が「女性皇太子」を主張する混乱by 佐藤雉鳴・斎藤吉久(2014年3月1日)
いわゆる「女性宮家」創設をめぐる混乱が収まったかと思いきや、今度は「女性皇太子」論です。
天皇制反対を唱える唯物史観論者ならまだしも、対極に位置する「皇国史観」の正統な後継者といわれ、伊勢神宮のお膝元にキャンパスを置く皇學館大学の学長などを歴任された、田中卓(たなか・たかし)先生の近著『愛子さまが将来の天皇陛下ではいけませんか』は、女系天皇で問題ない、「女性皇太子の誕生」こそが道理ではないか、次代の皇太子は愛子内親王殿下に、と読者をこれでもかと挑発されています。
しかもそれが「恋闕(れんけつ)の精神」だと訴えられるのですから、穏やかではありません。
指摘したいのは3点。①女系継承が歴史上認められていたという主張は妥当なのか、②女性天皇容認はまだしも、なぜいま「女性皇太子」なのか、③そもそも天皇のお務めとは何か──です。
1、「大宝令」が認めている?
まず第一点です。
田中先生は女性天皇のみならず、皇位の女系継承が古来、制度的に認められてきたというお考えのようです。
推古天皇をはじめ、10代8人の女性天皇が歴史上、実在したという誰もが知る歴史に加えて、古代の「大宝律令(りつりょう)」にも「女帝」を認める規定があった、と主張され、継嗣令(けいしりょう)1条(皇兄弟条)を次のように引用なさいます。
「およそ皇(こう)の兄弟皇子を皆親王と為(せ)よ。女帝の子も亦同じ。以外は並びに諸王と為よ。親王より五世は、王の名を得たりと雖も、皇親の限りに在らず」(原、漢文)
先生は、この規定によって「『女帝』の存在も、その『子』を『親王』と称することも認められている」と解説されます。「天皇の兄弟、皇子を親王と称する。同様に、女帝の子も、親王と称する」と解釈なさるわけです。
さらに、「それもそのはずで」と続けて、大宝令選定時の文武(もんむ)天皇は、天武(てんむ)天皇と持統天皇の孫であり、同時に元明(げんめい)天皇(女帝)の皇子であって、当時、持統天皇は上皇であられたのだから、「女帝」が認められて当然だと、皇兄弟条が「女帝容認」規定であることは歴史が証明しているかのように主張されます。
くわえて、「女帝」が古来、容認され、「女帝の子」も想定されている、すなわち女系継承が制度的に認められているのだから、現代において、愛子内親王殿下が皇位を継承し、さらにその子女が継承権を持つことも当然だ、と論理を飛躍なさいます。
けれども、女系容認論の出発点である継嗣令1条の読解に誤りはないのか、律令全体からみた整合性、歴史との整合性があるのかどうか、かなり疑わしいのではないか、というのが私たちの問題提起です。
2、歴史を揺るがす一大事
古代律令制は律令法による国家体制で、大宝律令は日本初の本格的な律令法です。「律」は刑法に該当し、「令」は行政法その他に該当します。
先生は「大宝令でも『女帝』の存在を認めていて」と断定されますが、大宝律令は逸文が断片的に伝えられているだけです。
つづく養老律令も現存しませんが、養老令については、平安期の解説書である『令義解(りょうのぎげ)』、私撰の注釈書である『令集解(りょうのしゅうげ)』に収録されていることから復元が可能で、翻って大宝律令の内容が推測されているに過ぎません。養老律令は大宝律令をほぼ継承していると想像されるからです。
同じ継嗣令を根拠とされるにしても、厳密な学問を追究される先生が、養老令ではなくて、なぜ大宝令を引こうとされるのか、理由が分かりません。
次に、継嗣令の中身です。
先生の主張によれば、皇親の範囲や臣下の継嗣などを定めた「継嗣令」が「女帝」、さらに女系継承を制度として認めていたとのことですが、だとすれば、歴史を揺るがす一大事です。
明治憲法公布に合わせて、皇室の家法として制定された旧皇室典範が「大日本国皇位ハ祖宗(そそう)ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定めていたことも、戦後、一般法として制定された現行皇室典範が「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定していることも、そして歴史の事実として皇位が男系男子によって継承されてきたことが、古代律令法に背いていることになります。
それなら皇室本来の歴史にもどすため、一日も早く皇室典範を改正し、女性天皇のみならず、女系継承を制度化すべきことは当然だ、という結論に誰しも賛成せざるを得ません。
けれども、それは早とちりというべきです。
第一、律令法には皇位継承に関する条文が見当たらず、天皇に関する規定それ自体、神祇令(じんぎりょう)と喪葬令(そうそうりょう)以外にありませんから、女系継承容認の法的根拠など見出し得ないのです。
また、皇統が男系男子によって継承されてきたことは紛れもない歴史の事実であって、皇位が「女帝の子」に継承された例はありません。実在する女性天皇はすべて独身を貫かれているからです。
先生は議論の出発点である継嗣令の解釈と女系継承容認の結論とを、逆転させているのではないですか。
「はじめに結論ありき」でなぜ悪いのか、と先生は開き直っておいでですが、ほかならぬ皇室論は、慎重のうえにも慎重を重ねる学問的態度が望まれます。
3、「女帝」という公式用語はない
『令義解』や『令集解』はネットで写本を見ることができます。『令義解』では、令本文が大きな文字で記述され、解説が細字双行で示されています。
日本思想大系(岩波書店)の『律令』に収録されているのは、これらからの復元の成果で、継嗣令は4条からなり、1条は、まず漢文で、
「凡皇兄弟皇子。皆為二親王一。女帝子亦同。以外並為二諸王一。自二親王一五世。雖レ得二王名一。不レ在二皇親之限一。」(漢文。返り点付き)
とあり、「女帝子亦同」は小さな文字で示されています。原注、本注とされています。
田中先生の引用と大きく異なるのは、先生の著書には「原注」への言及が見当たらないことです。
「女帝の子も亦同じ」とする「原注」の読解は、学問的に定まっているわけではないようですが、これについても、田中先生の著書には言及がありません。
もっとも肝心な、女帝を規定するとお考えの条文に関する異論について、検討しないどころか、紹介すらないのはなぜですか。
継嗣令1条の本注「女帝子亦同」は不思議な規定で、古来、さまざまな議論があるようです。
まず、母法とされる唐令には該当する定めがないようです。それどころか、「女帝」の文言はこの註釈以外には見当たりません。つまり、「女帝の子」と読むことそれ自体が怪しげです。「女(ひめみこ)、(すなわち)帝の子、また同じ」と読むべきではないでしょうか。
「天皇の兄弟・皇子を親王と称し、同様に女子も(内)親王とする」と解釈した方が意味がスッキリしませんか。
喪葬令8条(親王一品条)の註に「女亦准此(女(ひめみこ)もまた此に准へ」とあるのと同じ意味です。
「女帝」という言葉がいつからあるのか、分かりませんが、少なくとも養老令の時代には公式用語としては存在しなかったと推測されます。公文書の様式に関する規定である公式令(くしきりょう)に「女帝」が定められていないからです。
公式用語にないなら、「女帝の子」と読むべきではありません。
公式令には、「皇祖」「先帝」「天子」「天皇」などの文字が文章中に使用される場合は、行を改め、行頭に書くこと(平出)や、「大社」「陵号」「乗輿」「詔書」「勅旨」などの場合は、一字分を空けて敬意を示すこと(闕字[けつじ])が説明されています。
けれども、いずれの場合も「女帝」は例示されていません。
養老令は元正(げんしょう)天皇(女帝)の時代から撰定が始まったとされています。先帝は母・元明天皇です。養老令が施行されたのは孝謙天皇(女帝)の治世です。それでも公式令に「女帝」はありません。
そればかりか、この時代を記述する『続日本紀(しょくにほんぎ)』ほか、「六国史(りっこくし)」に「女帝」は見当たりません。継嗣令一条の原注を「女帝の子」と読むことに無理があるのです。
4、中川八洋名誉教授の指摘
田中先生は継嗣令1条の本注が女系継承をも容認しているかのように解説されますが、継嗣令四条(皇娶親王条)を読めば、明らかに誤読であることが理解されるでしょう。
「凡そ王(わう)、親王を娶(ま)き、臣(しん)、五世の王を娶くことを聴せ。唯し五世の王は、親王を娶くこと得じ」(『律令』日本古典文学大系)
この規定によって、皇女は4世王以上が婚姻の対象となり、子孫はすべて男系として存続します。事実、推古天皇や持統天皇、元正天皇も、父系をたどれば間違いなく初代神武天皇に行き着きます。
つまり、「女帝」はまだしも、女系継承はあり得ないのであって、継嗣令1条の原注を「女帝の子」と読まなければならない根拠はまったくありません。
部分だけを取り上げ、「最初に結論ありき」の無理な解釈を試みるのは、学問研究の道をはずれています。
歴史を振り返ると、「女帝の子」と読まない先賢もいました。
江戸時代に『令義解』をほぼ全編にわたって註釈した、伊勢内宮の禰宜、薗田守良は、『新釈令義解』で、「女も帝の子は同じ」と読み、「皇女も天皇の子だから、同様に親王(内親王)とする」と解釈することを提起しています。
薗田だけではありません。
現代において、「女帝の子」と読むことに強く異議を唱えているのが、中川八洋筑波大学名誉教授です。
中川名誉教授は、『皇統断絶』で「養老令は、〝女系天皇の排除〟を自明とした皇位継承法である」と指摘する一方、『女性天皇は皇統廃絶』では「『女帝』という和製漢語が、701年までにつくられていたと証明されない限り、継嗣令の『女帝子……』を、『女帝(じょてい)……』とは万が一にも読んではならない」と厳しく戒めています。
「女(ひめみこ)も帝(天皇、すめらみこと)の子(こ)また同じ(に親王とせよ)」(『女性天皇は皇統廃絶』)と解釈するのが中川名誉教授の立場です。
歴史との整合性はどうでしょうか。
たとえば、元明天皇の4代あとの淳仁(じゅんにん)天皇のとき、「舎人(とねり)親王に『崇道尽敬皇帝』」の尊称を賜り給ふの宣命」が発せられていて、ここに継嗣令一条との関連が認められます。
当時、朝廷の実権を握っていたのは、聖武天皇の皇后で、先帝・孝謙天皇の母にあたる藤原不比等の娘・光明子(光明皇后)でした。
聖武太上天皇は道祖王(ふなどおう)を皇太子とするよう遺詔されましたが、結局、道祖王は廃太子となり、代わって大炊王(おおいおう。天武天皇の皇子・舎人親王の七男)が皇太子となり、淳仁天皇として即位されました。
即位から10カ月後、光明皇后(太皇太后)から重要事項が伝えられました。それがこの宣命に記録されています。要約すると、「あなたが皇太子となり、皇位を継承して、世の中も安定してきた。ついては父・舎人親王に追号を与え、母は大夫人とし、兄弟姉妹を親王とせよ」と語られたというのです。
こうして淳仁天皇の兄弟は親王、姉妹は内親王と称されることになるのですが、それはとりもなおさず、継嗣令1条に則った措置でした。
小泉内閣時代に皇位継承政道について検討した皇室典範有識者会議のメンバーには、田中先生の旧知である笹山晴生東大名誉教授もおられましたが、古代史の研究者である笹山名誉教授は、『続日本紀 3』(新日本古典文学大系)で、「舎人親王を天皇とするので、その子女(淳仁の兄弟姉妹)も親王・内親王と称させる」と解説しています。どう読んでも「女帝の子」ではありません。
同様のことは、2代のち、光仁(こうにん)天皇の時代にもありました。原注を「女帝の子」と読むなら、天皇の「兄弟姉妹をことごとく親王と称する」とされた法的根拠は何でしょうか。当時の日本は律令法に基づく法治国家なのです。
5、なぜ「愛子皇太子」なのか
皇位継承はいつの時代もつねに綱渡りですが、皇太子殿下の次の代の皇位継承者の候補がおられない、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定める現行皇室典範からすると、継承者が絶えてしまいかねない、という論理で、女子にも継承権を認めるほかはない、という女帝容認論が台頭したのは平成十年ごろのことでした。
当時は、皇位継承資格者は皇太子以下7人おられました。その後、高円宮殿下、さらに寛仁親王殿下が薨去(こうきょ)されましたが、一方、悠仁(ひさひと)親王殿下の御誕生で、「次世代は女子ばかり」という「危機」は去りました。
したがって、どうあっても女性天皇・女系継承を容認する皇室典範改正に踏み切らなければならないという段階ではないはずです。
ところが、田中先生は、皇太子殿下から秋篠宮殿下、悠仁親王殿下へと皇位が継承されるのは、直系から傍系に移行することであり、皇家の分裂・対立を招く危険があるから、危機を回避するために、「現皇家〝直系〟の愛子内親王」を次世代の「皇太子」に、と執念を燃やし続けておられます。
要は、男統の絶えない制度を模索するのではなく、「傍系」どころか、一気に女系継承へと飛躍されるのです。危機を叫んで、さらなる危機を呼び込んでいるわけです。
少ない皇位継承資格者をますます少なくする提案は賢明とはいえません。
矛盾はほかにもあります。
皇位継承を支えてきた側室制度が現在では失われていることを強調されるのは、理解できないわけではありません。けれども一方で、今日、一般社会では婚外子の相続権が法的に認められるようになりましたから、男系が絶えないように皇室の庶子相続を公認すべきだという議論も、少なくとも理論的にはあってもよさそうですが、先生はあくまで皇室の歴史的変革を追求されるのです。
さらに、です。
「傍系」の秋篠宮家に皇位が移行されるべきではないとする先生の主張は、現皇室典範が認める皇位継承順位を否定するだけでなく、秋篠宮殿下、悠仁親王殿下、常陸宮殿下、三笠宮殿下、桂宮殿下の継承権を簒奪することになります。
もはや「臣下」の分限をはるかに超えているといえませんか。
6、祭祀を否定する天皇論
最後に、天皇のお務めとは何か、について考えます。
先生は著書の最終章に、前侍従長のある講演を取り上げておいでです。
前侍従長は「女性の天皇は八人おられた」「女性の天皇ができないことはあり得ない」「男系で続いたのはそのときの社会情勢がそうしたのである」などと語ったうえで、最後に「意を決した様子」で、次のような「私見」を吐露したとされています。
「『血の一滴が繋がっている』ことが大切なのか、『皇族として陛下が毎日なさることをお近くで見てこられている』ことが大切なのかの問題である。天皇の背中を直接見ていないのに、ただ血の繋がりだけで天皇になっても、現在及び将来の皇室の役割は果たせないだろう」(講演会報告書)
先生は前侍従長の発言が自身の主張と「同じ論旨」であると認め、「驚き」と「敬意」を表されるのですが、ここにこそ問題の核心部分があります。
つまり、先生の女系継承容認論の問題点は、血統原理で継承されてきた皇統を否定し、「毎日なさること」=御公務優先主義に変更しようとする考え方にあります。
古来、引き継がれてきた天皇のお役目を、いまや保守派の歴史学者や陛下の側近までが、完全に見失っていることに、強い衝撃を禁じ得ません。
なるほど日本国憲法は「天皇は、この憲法が定める国事に関する行為のみを行ひ」と定めています。宮内庁のHPには、「皇室のご活動」「両陛下のご活動」などが掲載されています。まるで「ご活動」なさることが天皇の天皇たる所以であるかのようです。
現行憲法を出発点として、天皇は国事行為を行う国家機関の一つである、という考えに立つなら、先生たちが主張されるように、女性天皇や女系継承が容認されるのは、論理的にあり得ます。
しかし、天皇は少なくとも『続日本紀』以降、1300年以上の時を越える歴史的存在です。歴史的に天皇が天皇たる所以は、御公務ではなくて、祭祀をなさることにあります。
歴史上、女性天皇はまだしも、女系継承が認められなかったのは、天皇が祭祀王だからでしょう。
ところがきわめて遺憾なことに、戦後は側近ですら現行憲法第一主義に陥り、その結果、富田朝彦宮内庁長官の時代には毎朝御代拝など祭祀の改変が断行され、藤森昭一長官の時代には御代替わりの祭儀が変更され、羽毛田信吾長官以後、歴史にない女系継承や女性宮家創設が模索されています。
これらは、皇室の基本原理の破壊にほかなりません。
7、天神地祇を祀る天皇
古代の日本は、唐にならって、律令制を導入しましたが、模倣ではありません。
古代中国の律令体制を支えた国家哲学は儒教であり、中心思想は「革命(天帝の命令を革[あらた]める)」の哲学です。けれども、日本では天照大神を皇祖神と仰ぐ天皇が統治することとされました。
公式令1条(詔書式条)は、冒頭に「明神(あらみかみ)と御宇(あめのしたし)らす日本(ひのもと)の天皇(すべら)」という表現を載せ、神祇令10条(即位条)は「天皇、位に即きたまわば、天神地祇を祭れ」と定めています。
哲学者の上山春平は、日本の律令的君主制の由来を説くことが、古事記・日本書紀の神代巻のテーマだと説明しています。中国の「史記」には神代巻に相当するものがありません。
官僚制度も根本的に異なり、唐が「三省六部」なのに対して、日本は「二官八省」が採用され、祭祀をつかさどる神祇官と国政を執り行う太政官が置かれ、太政官のもとに中務省、式部省、治部省など八省が置かれました。
中国では皇帝が全権力を掌握しましたが、日本では天皇から太政官に権力が委任されました。今日でいう権力の制限です。
天皇は政治権力者ではなくて、権力政治を超越した最高の権威者として、この国に君臨してきました。天皇統治は「知らす」(民意を知って統合を図ること)であって、「うしはく」(権力支配)ではないといわれます。
戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦は繰り返し強調しています。天皇は世界に類(たぐい)まれなる公正無私を第一義とする祭り主である。祭りこそが天皇第一のお務めであり、祭りをなさることが同時に国の統治者であることを意味している、と。
順徳天皇は「禁秘抄」に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」と書き残されました。明治の近代化に伴い、天皇は立憲君主となられましたが、歴代天皇は祭祀を大切に守られています。
天皇の祭りは、天皇御自身によって、日々、宮中の奥深い神域で行われています。皇祖神ほか天神地祇を祀り、「国中平らかに、安らけく」と、ひたすら国と民のため祈られます。
なぜ天神地祇なのか。
歴史学者の三浦周行京都帝国大学教授は『即位礼と大嘗祭』で、大嘗祭に諸神が祭られる意味について、次のように説明しています。
「天神地祇には、もとより皇室のご祖先もあられるが、臣民の祖先の、国家に功労のあったかどで神社にまつられ、官幣・国幣を享けつつあるものも少なくない。これらは国民の共通的祖先の代表的なものと申して差し支えない。……皇室のご祖先をはじめ奉り、一般臣民の祖先を御崇敬遊ばされ、また現代においては一般臣民とともに楽しみたもう大御心を御表示遊ばされると申すが、すなわち御大典の根本の御精神であって……」
皇祖神のみならず、国民共通の祖先神に崇敬の念を示すことが天皇の祭りの根本精神だ、と三浦教授は説明しています。
キリスト教世界なら、ローマ教皇であれ、イギリス国王であれ、みずから信仰する絶対神以外に祈りを捧げることはありません。しかし日本の天皇は古来、万民のため、万民がそれぞれに信じるあらゆる神々に祈られます。天皇の祭りは国の安定と民の平安を願う、国民統合の祈りです。
田中先生は、女系継承を容認する根拠として「天照大神は女神である」を挙げられますが、天皇の祭祀は、伊勢神宮の祭祀とは異なり、天照信仰にのみ基づくのではありません。
皇室の祖先崇拝ならば大神を祀る賢所および皇霊殿での祭祀で足りるはずですが、そうはなっていません。
8、女系継承が認められない理由
天皇は天神地祇を祀る祭祀王です。であればこそ、女系継承は認めがたいのではありませんか。
先生は8人の女性天皇の実在を強調されますが、すべて独身であり、したがって皇婿はおられず、天皇というお立場で皇子女をお産みになった女性天皇もおられません。なぜでしょうか。
公正かつ無私なる祭祀こそが天皇第一のお務めと考えられてきたからであり、先生がご指摘のように、天皇に〝氏姓〟がないのと同様、さまざまの氏族・血統から超越したお立場で、国と民をひとつに統合してこられたからではないでしょうか。
女性が夫を愛することは大切です。命をかけてでも子供を愛する女性の姿は美しい。その価値を認めればこそ、「私」なき祭祀王は荷が重い、と古代人は考えたのかも知れません。仰せのように、女性の能力が低いというのではありません。男尊女卑でもありません。むしろ逆でしょう。
さて、最後に、先生にぜひお願いしたいことがあります。
先生の「恋闕」の精神は、先生が「正面から率直に対決」されている「男系男子固執派」にもあります。尊皇派同士で「憂国の論争」を感情むき出しで競うことは見苦しいばかりか、反天皇派を利するだけです。「悩める君の御心を休めまつる」どころか、結果は逆でしょう。晩節を汚すことにもなりかねません。
先生が訴える「君子の論争」を成り立たせるために、その前提として、まずは総合的な天皇研究をこそ、多くの研究者と協力し、もっともっと深めていただけないでしょうか。
ご専門の歴史研究だけではなく、日本文化研究、宗教学、祭祀学、民俗学など、多角的に進めていただきたいのです。天皇の存在は日本の文明の根幹に関わる、すぐれて総合的なものです。それだけに慎重さと謙虚さを要します。「私の学者生命を賭けて」と仰せの「憂国の論争」はそのあとでもけっして遅くはないはずです。
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