終焉の画家、ベクシンスキー
ゾディソワフ・ベクシンスキーはポーランドの芸術家である。
主に死、絶望、破損、退廃、廃墟、終焉などをモチーフに扱い、不気味さや残酷さと同時に荘厳な美しさを感じさせる画風が特徴。彼の絵は10年ほど前からネット上やオカルト雑誌で「三回見ると死ぬ絵」として度々紹介されている。上記の作品とは別のものだが、興味がある人は「ベクシンスキー」と調べれば件の作品は容易に見つかるだろう。
私は絵を描く事は勿論好きだが絵を鑑賞することも好きだ。好きな物事は心の中でひっそり楽しむタイプの人間なのだが、この際、環境も整っているわけだしアウトプットのつもりで好きなものの知識とそれに対する意見を書いていこうと思う。
ベクシンスキーの作品自体は退廃的で「終焉の画家」と呼ばれるほどであるが、彼自身は人当たりが良く少し内向的で、人との会話を良く楽しんだ。たが、政治不信、マスコミ嫌い等があり、普段は隠居のように暮らして政策に没頭しており、他の芸術に触れることも嫌ったため、ポーランド語以外は話さず、ポーランドから出ることも障害なかった。
加えて、彼の作品は全てタイトルがついておらず、作品の理論づけを非常に嫌った。これは、見る人に題名による先入観を持たせぬよう、判じ物のような解釈をさせないようにしている為と言われている。
作品にタイトルが名付けられた時点で、その作品は作者の価値観でがっちり固められたものになるのではないだろうか。赤い丸が描かれたキャンバスを見た人にとって、それは日の丸弁当に見えたり、太陽に見えたり様々な解釈ができるだろう。しかしそのタイトルが「林檎」であった場合、他の人がどう見えようが描かれた赤丸はりんごとなる。作品自体も作者の価値観から創出されたものではあるが、そこにはまだ名前がないという点において自由だ。
ベクシンスキーはタイトル名に縛られた解釈をされたくなかったのだろうか。彼の創作の種は、夢、または白昼の心に浮かんだ心象風景の一瞬をボードの上に固定する事にある。要するに彼の潜在意識的なものを描いていると言ってもいいだろう。
私も心象風景を描く絵描きである。私個人の体験談なので、これがベクシンスキーと同じなのかと言われれば分かりかねるが、心象風景というものは考えて出てくるものではない。ふとした瞬間にイメージが降ってくる。または寝ている中で見た夢でイメージに出会う。それを忘れてしまわないようにいつも持ち歩いているメモ帳にかき出し、作品へと昇華させる。 「これはどういう意味を持って描かれたものなの?」と良く聞かれるが、夢や唐突に降ってきたものに意味を求められても「心象風景です」としか言いようがない。だから、という訳ではないがそれそこ自分でも良くわかっていないものを他人がどういう解釈をするのか知りたいところではある。
また、根本的な考えとして私は作品に対する解釈は人それぞれで構わないと思っている。作者の伝えたい事を正確に捉えたれたら正解、などと言ったことは全くない。寧ろそんな正確に言い当てられる人がいたらもはやその人はエスパーか何かだろうと思う。呂氏春秋などに収録されている『知音』という話もあるが、もし鍾子のような人間に出会え、亡くした時には私も白河と同じく筆を折る。
ベクシンスキーがどういう考えで作品の題名をつけなかったのかは、彼がなき今はわからないままだ。ただ、彼の作品は特に人によって解釈が異なるものだと思う。退廃的で時に恐怖を与えるような作品が多いので、鑑賞する際には多少の注意が必要だとは思うが3回見て死ぬことなどないから安心してほしい。作品を鑑賞して得る感情に正解はない。美術館に言ってもいい悪いがわからないという人の話を良く聞くが審美眼が欲しいのはコレクターか作品を取り扱う商売を行なっている方ぐらいだろう。私たちが作品を見る時に必要なのはただそれが好きかそうでないかだ。気になったものは満足するまでじっくり鑑賞すればいいし、気にならなかったものは通り過ぎればいい。そもそも感情なんて人それぞれで、定義も異なれば大きさも違う。自分で感じ取ったそれを自分だけが受け止めてそれを堪能する。講評会でも行う訳でもないのだし、自分の感受性を自分で守って大切にして楽しむ、そういう超個人的な楽しみがあってもいいのではないだろうか。