箱の中のカブトムシ
一人に一つずつ箱を持っていて、その中に私たちが「カブト虫」と呼んでいるような何かが入っていると仮定する。誰も他人の箱を覗きこむことができず、自分のカブト虫を見ることによってのみ、カブト虫とは何であるかを知ることができる。
この時、皆が「カブト虫」とは言っているものの、他人の箱を覗きこむことは不可能なので、それぞれの箱の中に違ったものを持っているという事が当然あり得てくる。それどころか、箱の中のものが絶えず変化し続けるということさえ想像可能である。カブト虫だと言っている箱の中にある何かは、自分が思っているだけのカブトムシであって、他人が言っているカブト虫とはどんなものであるのかは全くわからない。そして自分自身のカブト虫についてもこの「(私だけのカブト虫=)私的カブト虫」はどのように言おうとしても、言語に乗せる事ができない。
カブト虫という言葉の意味の基準は「それぞれの箱に入っているもの」という公的な基準しか存在せず、私的な基準で「私的なカブト虫」に意味を持たせる事ができないのだ。
この「箱の中のカブトムシ」はヴィトゲンシュタインは痛みを探求する文脈で紹介した有名な思考実験である。
人や花にはそれぞれ名前がつけられているが、これは対象(=人や花)と記号(=名前)の関係にしか過ぎない。バラ科モモ亜科スモモ属の落葉樹で薄紅色の薄く繊細な花弁が基本的には5枚の花はサクラと呼ばれる。雌蕊や雄蕊を含む、一個の有限の茎頂に胞子葉と不稔の付属物などから構成された、種子植物の生殖器官は花という名前がつけられている。この様に名前のつけられたものは明確な対象が存在するので表現する事ができる。
しかし箱の中のカブトムシは明確な対象が存在しない。自分だけにしか認識できない箱の中のカブトムシを説明しようとしても「対象と記号」というものの対象が不確定なのでカブトムシの表現の文法を構築する時、このルールから外れてしまうのである。
これがなぜ痛みの探求に用いられたのだろうか。それは痛みも箱の中のカブトムシ同様、自分だけが認識し得るものだからである。痛みは私的な体験であり、その体験を自分だけは知っていると表明する。
私たちは痛みという体験を、自分だけには理解できるものとして捉え、「痛み」という言語で表現しているわけだ。しかし、箱の中のカブトムシ同様、他人が感じている痛みを寸分違わず自分が感じることはできない。他人の箱の中のものが何か覗けないのだから、もしかしたらそこにはカブトムシではないものが入っているかもしれないし、空っぽかもしれない。よって、私が痛みと名付けている感覚は他人の痛みを完璧に理解できない以上、痛みではないのかもしれないし、もしかしたら私の箱に入っていたカブトムシはカブトムシではないのかもしれない可能性が出てくるのだ。
そうすると、痛みに限らず己の感覚や感情までもが正しいのかどうか怪しくなってくる。自分の悲しみは他人のいう悲しみと同じなのか、違うのか。違うならばどこがどう違うのか。今目にしている世界は同じ世界を目にしているのかどうか。犬という言葉でつうじあっているものが必ずしも私の目にしている犬とは同じとは限らないし、私と私以外が赤だという赤色は必ずしも同等ではないのかもしれない。
こうしてヴィトゲンシュタインはある言語感を否定するのです。つまり「言語は常に一通りの仕方で機能し、常に同じ目ーー家や痛み、善悪その他何についてであれ、その思想を伝達するというーーに寄与するという観念」を拒否するのです。
ここまでくると色々わけがわからなくなってきますが、私が思うに結局人と人とは完全に理解しあえないのではないでしょうか。人の痛みはわからない、だけれど推し量る事ができる。しかし完全ではない。悲しみも怒りもそれは推測であり不完全なものであるから、理解とは言えない。お互いに理解しあえない中で、どれだけそれを受け止め、尊重し、認められるか、そこに理解とは違う形の他者との繋がりができるのではないかと思います。