航空会社へ乗り込んできた ヘッドハンティング
航空会社で働いていると、以前 お手伝いした日本のスポーツメーカーの社長が直々乗り込んできて、俺をヘッドハントにきた 君のいう条件は全て飲むから きてくれって。俺の中には スポーツより 航空会社の方が楽しく 毎日がわくわくで 色々勉強もでき、世界を見ることができた。また 自分が手掛けてる 成田 シアトル線も順調に客数を伸ばし 仕事も面白くなってきた時だから 困惑もたくさんあった。少し考えさせてくださいと その場はお引き取り願った中 俺の中に また 別の虫が湧き出して 徐々に混乱
給与面でも問題なく 迷ってると 自分の上司が まだ公表していないが 今度 別の会社に変わるその時 君を連れて行きたい そんな申し出もあり ますます 自分の中で 混乱が生じてきた。また 同じ会社にいたいた同僚と結婚も考え出した時で 目まぐるしく 色々毎日起こった。俺の心は 右や左に 動かされて どうるべきか 色々悩んだ そして 出た答えは スポーツの世界に戻る その会社の海外戦略の中枢に入り込んで 世界戦略ということで お世話になることにした 航空会社は結局 1年と数ヶ月しかいなかったが、学んだことはかなり 多く 以後色々役立った。
年が変わって 俺は結婚 そして スポーツメーカーの社員となり 働き出した。しかし、アメリカに戻るまでは 日本勤務で 日本の会社を理解するってことで 色々 大変なことがあった
一つに 日本の人間関係 純日本の会社です。変な上下関係などもありまた
理不尽なことを言う、上役 これにはかなり閉口した。
そして、アメリカへの移住の時 なぜか 俺自身かなりほっとした記憶がある。
コロラド州ボルダーに移転して そこを基準に 世界戦略を行うことで
同社のサポートできるチーム(国)を探すことから開始。
そんなおり 俺はコロラド大学の陸上部から、またコーチングのお誘いがあり引き受けることに これも大きなマーケティングの一つで 大学の高跳びの指導者となった (高跳びなんて教えたこともないが 言われたらするしかない 監督も お前ならできるって なんだかうまく載せられて 俺はコーチに舞い戻り)日本の仕事は 午前中と夜に分けて 昼間1時から4時まで大学のコーチングと、忙しくしていた。
日本の戦略を行うためのコネも何もない中、コロラド大学に 突如英語の話せない人がやってきて コーチとして雇ってくれと 監督に嘆願しかし、彼はアメリカへの亡命の人と分かり、大学もすんなり引き受けることも またどんな人なのかもわからず 皆が困惑した。俺はというと 彼となぜか 話が通じて 聞くところによると 84年の五輪に出る予定だったけど 国からパスポートが発給されず来れなかった、彼の名前 その他を調べて みると 84年当時 世界ランキング トップ5の選手で ルーマニア人
体つきは 俺とほとんど同じで 靴も一緒ってことで 俺自身が持ってる ジャージその他をかなり彼に差し上げた。すると彼はお礼に、ルーマニア陸連とのコネクション作ってあげるといいだし、ルーマニアとのコネができたことを 本社に連絡すると 大喜び 何せ当時ルーマニアは陸上大国 この段階で まだ ルーマニアと契約云々まだはいかないけど 話は、進めることができると確信してその彼に 一任した。ちょうど 1989年に東欧が 崩壊して ルーマニアも共産国じゃなくなり オープンに ちょうどタイミングよく話ができた。ここから怒涛の攻撃を開始した俺は ルーマニア ポーランド チェコスロバキア(当時はまだこの名称)ニュージーランド
コスタリカと 色々電話で攻撃しながら 陸連と話を進め 訪問して プレゼンテーションを行うまでになった。そんなおり そのルーマニア人の仕事を探さないと行けないけど、アメリカでのコーチングは不可能だ そんなおり 知人が カタールでコーチ探してるけど、お前行かんかって言われ ここぞとばかり ルーマニア人を紹介 そして その話から 2週間後にはその彼は カタールで仕事にありついた。そうです、カタールナショナルコーチです。おかげで ルーマニアとの ラインができた。また そのついでにカタールとも ラインができ。仕事が一気に進み始めた。