韓国文壇界 気鋭の作家 キム・ヘジンの長編小説『中央駅』試し読み
11月12日(火)発売 韓国文学『中央駅』の試し読みを公開いたします。
広場
夜遅く、工事は終わる。駅舎を中心に道幅を広げ、道路をならす作業が中断され、人夫が家路につく。都市全体が死んだように静まり返っている。自らの影を踏んで立っているショベルカーやブルドーザーのわきを通り過ぎる。照明が煌々と鳥瞰図を照らし出す。拡幅工事が終われば、広場の中央に噴水が設置され、エスカレーターと動く歩道ができあがる。鳥瞰図の中の駅舎は、今よりも華やかで、大きく、美しい。
キャリーケースを引いて、駅舎をもうひとまわりする。運がよければ、昼間は目に入らなかった適当な場所が見つかるかもしれない。そこで安全に夜を過ごせるだろう。空いたスペースにむやみに陣取るのは危険だが、俺は強気を装う。
駅は都市の中心にある。都心の真ん中につくられた最も大きな駅舎。昔使われていた古い駅舎の隣に新しく建てたものだ。古い駅舎はきらびやかな照明にライトアップされて片隅に放置されている。改築工事にひいひいあえぐ新しい駅舎とは対照的だ。今後、古い駅舎は博物館や展示館に生まれ変わるが、なにを展示するのか、どんなものを保存するのか、知りたがる人はいない。ガラス窓を外し、増築し、地下鉄のプラットホームと広場をつなげるという言い訳のもと、終日、地面を掘りおこして建物を取り壊しても、人々はなんの関心も持たない。彼らは、工事が終わった後、すこし驚いて終わりだろう。この騒ぎをすぐに忘れる。この都市の人々は、なにかを壊して別のものにつくり変えることに慣れている。
片方のポケットに入れておいた水を取り出して飲む。生ぬるい。なんとなくなまぐさい味もする。駅構内の水飲み場から汲んできたものだが、本当に飲み水として適当なのかは分からない。しかし俺は、なるべくそんなことは考えたり疑ったりしないよう努力しなければならない。
ペットボトルをポケットにしまい、キャリーケースを引いて広場を横切る。セメントの地面の上を車輪が転がり、通行人たちは要領よく俺を避ける。人々の間に細い道ができる。誰もが俺を追い越していく。
夜が更けると、古い駅舎のまわりに人々が集まりだす。ここは広場からやや離れているうえ、特に管理する人もいない。俺は、平らな大理石の上に一列に並んだ足に沿って歩く。焦げたように真っ黒な足の裏。彼らと目を合わせないように、うつむいて、キャリーケースをしっかりと持ち上げる。
古い駅舎のわきを曲がると、数段の階段が現れる。裏門に通ずる歩道橋だ。階段を上がると広い通路に出る。街頭が三つか四つしかない歩道橋の上はほの暗い。両側の欄干に高いフェンスがはりめぐらされ、下では線路が複雑に絡み合っている。電信柱や発電機などがこちらを威嚇しているようにみえる。イヤホンをして歩いてきた男がくわえていたタバコを放り投げる。赤い火の粉が乱れ飛んで消える。一定の間隔をあけて横たわる人々のシルエットが浮かぶ。
誰もがフェンスのほうに頭を向けて寝ている。携帯電話でドラマを見ている人もいれば、うつぶせになって線路を見下ろしている人もいる。エビのように背中を丸め、新聞紙や帽子で顔を隠している人たちもいる。眠っているようにみえるが、たいていの人たちは起きていることが気配で分かる。俺もまた、そのようにこの夜を過ごすことになるのだろう。線路を電車が行き来するたびにエンジンの轟音が歩道橋を揺らす。
歩道橋の真ん中を過ぎたあたりでうろうろする。奥のほうへ入ろうか悩むが、小便くさい悪臭のため、気が引ける。風が吹くたびに正体不明の臭いがどっと押し寄せてくる。このくらいなら、なんとか寝られるだろう。もう少しすると、さらに大勢の人がやってくる。俺は自分自身を励ます。よほど悪い所でなければ、さっさと適当な所に決めてしまうのがよい。どうせここで満足のいく場所を見つけることは不可能だ。
キャリーケースの背面に差し込んでおいたダンボールを取り出して広げる。その上に座ったり横になったりすると、なんだかでこぼこした感触がある。俺は、馬鹿みたいに何度もダンボールをひっくり返しては地面を手探りする。決定的な障害物はこれといって見当たらない。セメントの地面が熱い。背を向けて横になっていた男がこちらに寝返りを打とうとする気配がする。あわてているうちに目が合ってしまう。見なかったふりをしようとするが、再び目が合う。重ねていた足をすり合わせて、男が完全にこちらを向く。厚ぼったい紙がこすれる音がする。
「どうしたのさ?」
男は片腕で頭を支えて俺の様子をぼんやりと眺める。好意や親切心は感じられない。かといって、敵意や怒りも感じられない。男の声は、のしかかる重たい疲労の下から辛うじて漏れてくるかのようだ。
「寝ないのかい?」
男の声が大きくなる。並んで寝ている人たちがドミノのように起きだすかもしれない。事を大きくしたくない。不注意にいいがかりの種を与えることも避けたい。ここにいる人たちは、なんにでもぱっと噛み付いて、うるさく吠え立てるおそれがある。
「寝ます」
俺は言って、男にうなずいてみせる。男は俺のキャリーケースと片隅に立てかけたダンボールをゆっくりと眺めまわして言う。
「で、なにが問題さ? なにをバタバタしているんだい?」
いまやすっかり眠気から覚めたように、はっきりした声を出す。電話をしながら歩いていた人が声をひそめる。遠くからゴトンゴトンと音が聞こえてきて、一瞬のうちに歩道橋全体が激しい揺れに飲み込まれる。高速列車のエンジン音がまわりの騒音をかき消して、一定の速度で橋の下を通過する。
男が体を起こす。フェンスの影でできた網目の下から男の顔が浮かび上がる。小柄で痩せている。一見、生気を失った老人のようにみえる。身につけた軍服の中はすかすかのようだ。胸元に並んだバッジが光る。警戒心がうっすらと和らぐ。だからといって、緊張を解いてはならない。騒ぎを起こしてはならない。それは面倒で危険なことだ。俺は黙ってダンボールの端をなでつける。
「どうして答えない?」
男は無視された人のように心外そうな表情をする。ケンカを売られるかと思ったが、そうではないらしい。男の両目からは、誰かと話したそうな色がうかがえる。しかし、俺は沈黙を守る。お宅と話をする気はない。言葉を交わさずにこちらの意思をはっきり伝えようとする。
「おい。いったいなにが問題なのさ? さっきからなにをバタバタしているんだ?」
男は俺に口を開かせようと懸命になる。
「なんの問題もありません」
俺はきっぱりと答える。
「大丈夫です。問題ありません」
もう一度釘をさす。
「最初からそう言えばいいものを。どうして何度も聞かせるんだ」
男は機嫌を損ねたように頭を振る。そのくせ、また横になることもせずに俺をじっと見ている。男が次の言葉を待っていることを知っていながら、俺はわざと口をつぐんでいる。男はさらに待って、前よりやわらかい口調で尋ねる。
「見かけない顔だね。いつ来たんだい?」
返事を待たずに続けてこうも聞く。
「いくつ? まだ若そうだけど」
またしても俺はなにも言わない。
「目上の人から聞かれたら、何歳ですって答えれば済むことだろう。なんだい、自分の年も分からないのかい? しゃべるのが嫌なのか?」
男は大きく息を吸い込みゴホゴホと咳き込む。咳に酒の匂いが混じっている。俺は黙ってダンボールの上に膝を抱えて座る。もっとしつこく聞かれたら、実際の年よりはるかに上に答えるつもりだ。三十八。三十九。来年四十になります、と答えてもよいだろう。男はそれ以上聞いてこない。代わりに別の話をする。
いつだったか、騒ぎを起こして眠りを邪魔したやつを痛めつけてやったという話。俺がキャリーケースからひざ掛けと枕を取り出すあいだ、男は休みなくしゃべり続ける。しまりきらない蛇口のように、男の口からじょろじょろ言葉が漏れ出てくる。おしゃべりだとは思わない。男は言葉を止める方法をしばし忘れてしまったようだ。
「そいつをこてんぱんにしてやったさ。ぐうの音も出ないように」
俺は、くるくる丸めたダンボールを手に歩道橋の奥のほうへ歩いていく男の姿を想像する。ケンカどころか、殴られないように逃げて歩いただろうことは目に見えている。ガタン、ゴトン。電車が音を立ててゆっくりと歩道橋の下を通り過ぎる。一列に並んだ車窓が暗闇に明るい直線を描く。要するに、ここだけ人気(ひとけ)がまばらな理由がある。こんな騒音をはねのけて眠りにつくのは容易なことではない。さしずめ、男の境遇も想像がつく。無視していると思われないように二、三度うなずく。
「それはそうと、ここは本当に空気が悪いよな」
しゃべり続けていた男が話題を変える。思い出したかのように、顔を突き出して、わざわざ息を吸い込んでみせる。今まさに都市に着いたばかりの人のように、あるいは、今すぐにでも都市を後にできる人のように言う。俺は黙って高い電信柱の光を見上げる。
「ダンボールを何枚かもっと敷いたらいいさ。なにかが当たるのが嫌なら、地下道に行くとか。そこで夜通し石ころを探したところで、快適にはならないということよ」
男が向こうを向いて横になる。俺は靴を脱いでダンボールに上がり、やはりもう一度靴を履く。そして、ダンボールの上に座って歩道橋の下を見下ろす。しばらくそうやって座っていた後、ようやく横になる。背を向けたまま男が一言付け足す。
「何日か過ぎれば、石なんて大したことなくなるさ。不思議なものでな」
答えるつもりはなかったが、ああ、と返事のような声が飛び出す。右肩の下でなにかが尖っている。のけきれなかった石が残っているようだ。石だろうか。釘やねじかもしれない。プラスチックのかけらやジッパー、割れたライターやビンのふたかもしれない。また起き上がってダンボールをひっくり返すのが面倒になり、横向きになって寝る。遠くのほうで線路の上を転がる車輪の音がする。
誰かが夜の両端をつかんで無限に引っ張っている。俺は何度も目を覚まして、あたりを見まわす。目を開けると、枕もとに水やパンなどが置かれている。少しだけ上体を起こし、ほかの人たちのところにも同じものが置かれているのを確認してから水を飲む。列車が行き交う気配は感じられない。完全に真夜中という意味だ。時々、広場のほうから怒鳴り声や歌声が同心円状に広がってきては沈んでいく。ガラスなどが割れる鋭い音、蚊や羽虫の動き、階段のほうから臭ってくる悪臭。そういうもののせいで、浅い眠りに落ちては覚めてを繰り返す。
まどろみ始める頃になると、体がすっぽり収まる船に乗って遠い海に流されていく錯覚に陥る。俺は揺りかごに眠る赤子のようにじっと体を委ねる。ちゃぷちゃぷと波が船べりを叩く音。穏やかに水面(みなも)が揺らめく音。それらの音が徐々に沈んでいき、突然船が転覆する。俺は海の真ん中に放り出されてもがく。海は冷たく暗い。真っ黒い水の中になにがいるか分からないので必死にもがいていると、目が覚める。めまいがする。
「先生〔本来は教師をさすが、職業や年齢等の社会的属性が分からない相手に対しても使われる敬称〕、先生。起きてらっしゃいますか?」
三度か四度さらに寝ては覚めてを繰り返した頃、人の気配を感じる。女が俺の足元にしゃがんで、そっと俺の脚を揺する。女の後ろにじっと立っている男のシルエットが見える。俺は寝たふりをして規則正しく息をする。
「先生、先生」
女は俺のふくらはぎをさらに何度か揺すって、男を呼ぶ。
「眠っていらっしゃるので、そのままにしましょうか?」
女がためらうと、男が言う。
「私が一度起こしてみましょう。見たことない顔のようだけど」
二人が一緒になって体を揺する。どうしようもない。俺はいま目が覚めたかのように目を開けて、のろのろと体を起こす。彼らは立ち上がりも退きもせずに、俺が完全に起き上がるまで見守る。
「先生、お休み中でしたか? お酒を飲みましたか?」
女が鼻を近づけてくる。ローションの甘い、いい香りがする。先生、先生。俺は女の言葉を真似てみる。同い年か、ひとつかふたつしか変わらなそうな女が、俺を先生と呼んでいる。女が動くたびに乾いた衣擦れの音がする。黄色いチョッキの上に、黒々と大きな文字が書かれている。支援、道しるべ、センター。そんな文字を目で読む。
「先生、私たちは支援センターの職員です。私はチーム長のカン・ドンホで、こちらはイ・ナムジュです。お名前をうかがってもよろしいですか?」
男が眼鏡を外し、手のひらで顔をひとぬぐいする。顔中が汗でてかてかしている。俺は名前を忘れたかのようにおたおたして、口をつぐむ。ハンマーで殴られているような痛みが頭の中を通過する。いざとなれば、頭に浮かぶがままに勝手な名前を答えよう。男は俺の目を見て粘り強く返事を待つ。心の中をすっかり見透かしているかのような余裕の表情だ。
「具合の悪いところはないですか? 痛いところとか」
男が手を伸ばして俺の足首を触り、肩や腕をチェックする。ためらったり、ひるむ様子はない。しっとりとした手のひらが俺の体のあちこちをつかんだり握ったりする。ごつい手だ。逃れようとするが、男は充分だと思うまで放してくれない。幼い子供を扱うように、あちこちを確認してから手を離す。
「ケガをしているところはなさそうですね。ここに来てどれくらいですか?」
男はチョッキのポケットから手帳を取り出してなにやら書き込む。俺が彼ならば、俺についてどんなメモをするだろうか。瞬時に不快になる。
「どうしてですか? なんなんですか?」
俺は少し怒った口調で答える。男は泰然としている。むしろ、かわいいものでも見る目つきで俺を見ている。相変わらず手帳に何かをメモしながら、ウィンクをよこす。
「なんでもありません。本当です。私たちは先生が困っていないか見にきただけです。助けになれますので」
俺よりひとまわり以上も上にみえる男が俺をなだめる。礼儀正しく先生と呼ぶが、ほかに適当な呼び方がないのでそう呼んでいるにすぎないということは俺にも分かる。
「大丈夫です」
「そうですか。それでも、もしなにか問題が起きたら私たちのところに来てください」
男は、遠からず俺に問題が生じることを確信しているかのような口調で言う。どんな問題が生じるだろうか。どれだけたくさんの問題が。お宅らはそのうちいくつを解決してくれるのか。目を覚ました人たちがこちらをちらちら見ている。体を起こし、聞こえよがしに大声でぶつくさ言う人もいる。女が手を上げて応える。不満が爆発する前に彼らの怒りを鎮めようという素振りだ。
女が手を振ると、彼らはすぐに横になったり、すねた様子で向こうを向く。しかし、大多数は依然としてこちらに目と耳を集中させている。盗み聞きされるのはごめんだ。知られてたまるものか。なにも話すまい。ここにいる誰とも。自分に関することを一切共有したくない。
「あの、ここ、ちょっとうるさくないですか? うるさいと思うんですけど」
「大丈夫です。もう行ってください」
俺は何度も言う。行ってください。行ってください。いいから、俺を放っておいてくれ。俺は頼み込む。
「はい。行きますよ。でも、どうせなら広場のほうがいいかもしれませんよ。あっちの公園でもいいですしね」
女が立ち上がりかけて言う。俺のような人間を長いこと相手にしてきたような淡白な態度だ。同情したり、すまながる雰囲気はない。見くびったり、ばかにする感じでもない。健康状態を確かめたのでそれで結構、という表情だ。女が体を起こすと、男も一緒に立ち上がる。
「ここに長居してはいけませんよ。救護施設を紹介したり、仕事をあっせんすることもできますから、早めにサポートを受けてください。長くいればいるほど、大変になります。分かりますよね?」
男は真剣な表情で念を押し、思い出したように携帯用のウェットティッシュをひとつ取り出す。せいぜい四、五枚入りだろうか。俺は手を伸ばす。それぐらいのものなら、知らない人から何枚か借りて使っても構わないから。それ以上のものは受け取りたくないし、受け取らないつもりだ。
「ありがとうございます」
二人が背を向ける直前に、俺ははっきりと礼を言う。いつか返しますとは言わない。女がふっと笑って答える。
「遠慮なく。それ、ぜんぶ市からです。私はこの仕事をして給料をもらっています。私があげるわけじゃないんで。なにか必要なものがあれば、センターに来てください。駅の向かいのプレハブ。あそこが事務所です」
俺は適当にうなずく。どうせ行くことはないだろうから。俺には関係のないことだ。男が一言付け加える。
「朝はちゃんと食べなくてはいけませんよ。七時半までは配食をしていますから。この先の広場です。一日一食は必ず食べてください」
そうして、俺の片方の肩をつかんで、こう忠告する。
「あ、できれば、飲み友達は作らないでください。頭の痛いことになります。いいですね?」
二人はふざけあうように前になったり後ろになったりしながら遠ざかっていく。そうして、歩みを止めて、俺にしたように誰かを揺り起こす。みんな横向きに寝転がって暗闇を抱きかかえているが、彼らの声に耳をそばだてている。無関心を装いつつも、内心、自分の番がまわってくるのを待っている。名前を呼ばれ、声をかけられたいと思っている。時々、笑い声があがり、うん、うん、と相槌を打つ女の声が聞こえてくる。俺は背を向けて、どうにかして眠りにつこうともがく。
ずっと前から夜だったが、いまだに夜だ。
昼のあいだずっと駅舎のまわりをうろついて考える。人生が勝手に流れていってしまえばよいのに。俺がどうにもできないところまで崩壊してしまえばよいのに。なにごとも、もう手の打ちようがないと諦められるなら、不安や負担から逃れられるはずだ。しかし、俺はそんな自信も覚悟もない。人生は、言うことをきかない子供のようにいつも好き勝手にふるまうくせに、いざ見切りをつけようとすると、目に涙をいっぱいためて俺をじっと見上げる。もう一度くらいチャンスをやってみようか。すると俺はまた例外なく裏切られて、こうして窮地に追いやられるのだ。今度はそうあってはならない。なにもするまい。これ以上チャンスをやるまい。俺は終日、実体のある誰かと対面しているかのようにふるまう。じっと虚空を睨みつけ、通りすがりの人々に鋭い視線を投げつける。しかし、全てが俺とは無関係に流れていく。もしかしたら俺は、終日、目に見えない時間と戦っているのかもしれない。
毎晩、適当な寝床を探して歩くのは容易なことではない。駅舎をぐるぐるまわっているうちに、いつの間にかまた歩道橋の上に立っている。心のどこかで、悪臭と騒音の立ち込めるここが最も安全だと感じているのかもしれない。
歩道橋の上をうろうろしながら俺が考えるのは、手中に残った金のこと。明日について考えるのは、もっぱらこの時だけだ。どうしたって金は底をつく。半月、長ければ三週。俺はそれでしのげる日数を計算してみる。結局は底をつくのだ。だが、それ以降のことは考えないことにする。キャリーケースの内側に差し込んでおいた段ボールを取り出して敷く。一日経つと、セメントの地面に触れていた面がぼろぼろとめくれてくる。ほの暗いフェンスの影がゆらゆら動いたかと思うと、突然声がかかる。
「一杯やるかい?」
軍服の男だ。男は一本の焼酎と薬味のソースでごちゃまぜの袋を前に、黙想するかのように座っている。俺は、男が毎日別の仕事場を転々としていることを知っている。リュックひとつのシンプルな格好、早くに床につき明け方には姿を消す男の日常から想像のつくことだ。男は広場で一日ぐだぐだと時間をつぶす連中とは、どこか違ったところがある。男に仕事を頼んでみようかと考えたこともあるが、そんな考えは数日でしぼむ。代わりに、働かないで一日を過ごす方法に慣れつつある。
段ボールをキャリーケースで押さえて、男のそばに行って座る。男とやり合う気力は残っていない。俺は一日中なにもせずに、なにもしない自分と向き合っている。常に冷静に自分自身を見つめるのは生やさしいことではない。今日は、それこそラジオでもつけているつもりで男にしゃべらせておこう。俺にはその一口の酒が必要だ。男が注いでくれる酒を急いで飲む。酒は意外と温かい。ひょっとして男は酒を買った後、一緒に飲む誰かを待っていたのではないだろうか。
俺たちは向かい合って酒を飲む。男の話題は駅舎のまわりをぐるぐるまわって、そこから出ることがない。俺の返事もその付近をうろうろするだけだ。今日はきっと酒の力を借りて深い眠りにつけるだろう。頭のてっぺんまで酔いがまわるのを待つ。しかし、充分に酔ってもいないうちに酒が底をつく。男が大胆になる。ポケットをひっくり返して、ありったけの札と小銭を出す。
「もっと酒を買ってくるぞ」
俺はこのへんでお開きにしようと言うことができない。男を制止して立ち上がる。男は結局、俺の手に札を三枚握らせる。焼酎を二本買える額だ。火照った頬を軽く叩いて歩道橋を抜ける。オレンジ色の街灯がぽつりぽつりと灯った歩道橋は目に美しい。汚い荷物の包みや地面に投げ出された裸足の足までもが平和に感じられる。俺は熱い血液を通って全身に酔いが広がっていくのを感じる。それは、俺の中の角という角を削って丸くしていく。角ばっていない世界は扱いやすく美しいとまで感じる。
歩道橋を抜けて広場を横切る。夜の広場は異常な熱気に沸いている。投げ捨てられたジュースの缶やビニル袋のように、人々はあちこち転げまわって怒鳴ったり、笑いだしたり、泣きじゃくる。ここは巨大な感情の渦のように熱い。俺は熱を帯びた息をふうふう吐きながら勇ましく歩く。
かげろうや蛾が明るいコンビニの窓にひっついている。俺は手でそれらを追い払う。地面に落ちたものはひっくり返って転げまわる。死んでなるものかとばたばたもがく。俺はそれをぐいぐい足で踏みつける。足の下で、それらは羽をばたつかせて猛烈に生きている。生きている。酒の勢いを借りて俺はそんなことをつぶやく。
コンビニで、三千ウォン払って六百ウォンの釣りをもらう。焼酎のビンを両頬に当てて店を出る。そして、タバコの吸い殻がうず高く山になった塀に腰かけた見知らぬ人に、施しでもするように釣り銭を渡す。酔っているせいだ。
「金じゃなくて、そっちをひとつおくれ」
顔をあげたのは小柄な老人だ。老人は脇の下に松葉杖をついて体を起こす。暗闇の中から真っ黒い痩せ細った手がすっと伸びて、焼酎を一本ひっさらっていく。俺が止める間もなく、ふたを開けて酒をあおる。透明な液体が痩せた顎を伝って首筋に流れる。飲み込む量とこぼれる量が半々だ。首を反らした体が動くたびに松葉杖が危なっかしく揺れる。
「もうひとつもらえるかい?」
一本を飲み切りもしないうちに老人が聞く。またしても善意を施す。酔いのせいだ。しかし一方で、俺は確認がしたいのだ。いいか、俺はここに属する人間ではないのだ。金や酒なんか人にねだったりしないのだ。俺は残った自尊心と焼酎二本を喜んで交換する。老人が焼酎を受け取ってジャンパーのポケットにつっこむ。マフラーをなでつけ、毛糸の帽子を目深にかぶる。よく見ると、ずいぶん年を取った女だ。しかし、今や女だとか男だとか、そんなことはすっかり忘れてしまったようだ。女は焼酎を二本手に入れた代償に自分がなにを失ったのか、なにを売ってしまったのか、気にも留めない。知りたがりもしない。そんなものこそ一番役に立たないと言わんばかりに、平気な顔をして服をかき合わせる。
俺は財布の金をはたいて酒を二本買い、歩道橋に戻る。軍服の男は酒のビンを枕にして眠っている。横たわる男のそばに座って酒を飲む。そのうちほかの人たちも加わる。一人、二人、三人。どうして彼らと飲むことになったのか思い出せない。きっと、飲んでいる俺に彼らが近づいてきたのだろう。あるいは、俺が彼らを呼んだのかもしれない。いや、酒が人を集めるのかもしれない。明日にはもう覚えてもいない言葉を交わしながら俺たちは酒を酌み交わす。苗字も名前も、年も出身地も知らない人間が公平に酔いに浸る。
単価千二百ウォンの酒で得られるものはなんて大きいのだろう。俺はアドバルーンのように膨れあがる。空中にぷかぷか浮かぶこともできそうだ。頭のてっぺんまで酔いがまわる。
目を覚ますと明け方で、俺は財布にあった金がすっかり消えていることに気づく。千ウォン札三枚と小銭をいくつかだけ残して、誰かにごっそり持っていかれた。腹いっぱい飲み食いするなら三、四日、節約すれば三週以上もしのげる額だ。軍服の男が泥酔した俺の体をまさぐって金を持ち去ったに違いない。
男の姿は見えない。今ごろ男はチムジルバン〔数種類の風呂とサウナのほか、仮眠室、食堂等を備えた健康ランドのような施設〕や安宿で眠りにつくところかもしれない。腹いっぱい食事をした後、酒をひっかけているかもしれない。しかし、男は金を使い果たして、結局ここに戻ってくるはずだ。全ては時間の問題だ。
キャリーケースに入れておいた金はそのままだ。少ないがそれでも残っていてよかった、そんな安堵感は沸いてこない。いっそのこと全てなくなってしまえばよかった。そうすれば俺は、降参ですと両手を挙げて広場の真ん中に入っていくことができたかもしれない。プライドや自信。そういうものが本当にあるとすれば、それは自分の手で捨てられるものではない。捨てるのではなく、心ならずも落としてしまうのだ。そして、二度と取り戻せなくなるのだ。今や俺にできることは、かなたから来る最悪を待つことだけだ。
電車が動き出すと、歩道橋は騒音と振動でゆらゆら揺れる。これ以上寝ていることはできない。夜通し沸き返っていた広場の上に朝が白み始める。人々がちらほらと広場に姿を現す。彼らはなにもない広場の真ん中に長々と並んで秩序を作り出す。炊き出しの車が来る時刻は一定で、急いで列に並ばなければ食事にありつけない。ご飯とおかずは毎日不足し、どんどん足りなくなっていく。スープとご飯が入った大きな鍋が設置されると配食が始まる。熱々のご飯の上に塩味のきいたスープがかけられて終わりだが、不満を言う者はいない。全員同じプラスチックの容器とスプーンをもらって、公平に順序を待つ。遠巻きに座って食事を終えたら、大きな袋に容器とスプーンを捨てて、四方に散らばっていく。俺はキャリーケースの柄を握り締め、そこを足早に通り過ぎる。列に並ぶことも、そちらを見やることもしない。
旧駅舎からすぐ目の前の支援センターは、朝から混雑している。事務所といっても、プレハブを二つ並べてくっつけただけのものだ。入口に日よけ雨よけ用のテントと大きなベンチがあり、人々はそこに集まって紙コップからなにかをちびちび飲んだり、タオルで体を拭いて髪を乾かしたりしている。口をあけて眠っている人、なにかをもぐもぐ食べている人もいる。彼らは、固い木のイスに座ってこれからやり過ごす一日をまったく恐れていないようにみえる。
黄色いチョッキを着た人たちが、彼らと雑談を交わしたり電話を取る。車に乗ってどこかに移動することもある。俺は目につかないように壁にぴったり身を寄せて立っているか、うつむいて歩いている。その気にさえなればここを出られる。軽く考えたいが、俺は少しずつ深刻になっていく。
広場にその日最初の案内放送が流れる。
俺は駅のトイレの個室に座ってキャリーケースを開ける。ウェットティッシュで脇の下や胸もと、股のあいだをきれいに拭き、服を着がえる。脱いだ服から不快な臭いがする。通りを漂う臭いがびっしりと付着している。服を丁寧に袋に包んでカバンの隅に押し込む。水道の前に立って顔を洗い、歯を磨いて、ひげをそる。鏡の中で人々の瞳がすばやく動く。彼らは、お前が何者かは全てお見通しだという目つきで、俺をさっと眺めまわして過ぎていく。
空気がむんむんする。駅の正面出口に立って、広場を見下ろす。夜のあいだ停止していた時間がゆっくりと伸びをして動き出す。バスから降りた人々が広場のほうへと押し寄せ、店がひとつ、ふたつとシャッターを開ける。夜中に広場を埋め尽くしていたものは遠くに退き、まぶしい朝の活気で広場が膨れあがる。
俺の時間はどこかにがっちりと固定されている。誰かが俺の時間をきつく結わえつけたに違いない。結び目は到底ほどけない。一気に切り落とさない限り方法はない。どうすれば、このうんざりするような一日をさっさと使い切れるだろうか。俺は、階段やベンチに置物のように座る丸まった背中に目をやる。
夕方、雨が降る。人々が地下道に下りてくる。駅舎がシャッターを下ろした後は、さらにたくさん集まってくる。通りに散らばっていた臭いや音が、彼らについていっぺんに地下に流れ込む。彼らは終日持ち歩いていた荷物を引きずって、適当な場所を探し求める。俺は階段のすぐ下に陣取り、温かい壁に頭をもたせかけている。遅くなって家路を急ぐ人たちが俺を見下ろす。靴のかかとやバッグなどが俺の前を過ぎて地下道を出ていく。
俺はぬるい水をすすりながら時間をやり過ごす。時間は、一滴ずつ、とてもゆっくり落ちるしずくのようだ。地面に敷かれたタイルの数を数え、タイルの目地に詰まったホコリを観察し、壁にかかった案内板を読む。できることなら、誰かに俺の時間の一部を切り取って売ってやりたい。そんなことも考える。一日という時間は俺の手に余るほど長い。これからもっともっと長くなるだろう。そんなおぞましい想像をしている間も時間は過ぎていかない。
零時を過ぎると人足もまばらになり、やがて誰も見えなくなる。いや、みなが消えたわけではない。ここにはまだ人が残っている。しかし、ある意味で、彼らは背景に近い。いつもそこにある無人サービス機や券売機のように、彼らはずっと前からそこに置かれていたようにみえる。
みな適当な場所に段ボールを敷いて壁際に横になる。保護膜のように通路側に段ボールを立てておく人もいる。示し合わせたように、みな壁を向いて眠る。階段を伝って雨水が流れこむ。もっと奥のほうへ移動しなければと思う。宵の口からずっとそう思っているが、全てが億劫で面倒くさい。とても些細なことなのにぐずぐずしている自分自身に腹が立つが、俺はそんな自分を放っておく。
人々は互いに不快にならない程度に距離をあけて寝転ぶ。各自の荷物を壁に立てかけ、列をそろえて寝ているので、そこはまるで病院のようだ。いや、避難所のほうが近いかもしれない。彼らは地震や津波、台風や洪水のような災害に遭って、しばしそこにいる人たちのようにみえる。難を避けて逃げてきた避難民。ひょっとすると、その災難はとっくの昔に終わっているのかもしれない。なのに彼らは依然としてここを去らずにいる。彼らは災難がずっと続くことを願っているのかもしれない。ずっと続けばそれが当たり前になり、当たり前になればなんとも思わなくなり、やがて、今が続くことだけを望むようになるのか。災難の中で、災難が終わらないことを願うようになるのか。
向こうの隅で、誰かが中腰になって小便をする。ここでは、約束でもしたかのように、誰もがしゃがんで用を足す。俺は、壁の前に立った丸まった背中を睨みつける。哀れだとか、かわいそうだという気持ちは起こらない。どの人も同情を引くほど不幸にはみえない。不幸を感じているのは俺だけだ。俺はそんな風に、必死に彼らと距離をおこうとする。
俺は、自分も彼らと大して変わらないと思いながらも、すぐに彼らを責めて、平気で非難する。俺はあいつらとは違う。俺はここを出ていける。自らにいくばくかの猶予期間を与えもする。一日経てば一日延びる猶予期間などになんの意味もないことを知りながらも。
あちらで騒ぎが起こる。人々が寝そべったまま壁のほうに身をすくめるのが分かる。目につかないくらいゆったりした動作だが、本能的で素早い。誰かが男と言い合っている。真夏にもかかわらず毛糸の帽子を二枚もかぶり、厚いジャンパーを羽織っている。脇の下にはさんだステンレスの松葉杖が小さい体を危なっかしく支えている。いつだったかコンビニの前で会った老女に間違いない。片手を腰に当てて老女を見下ろしていた男が甲高い声をあげる。
「おい、ばあさんよぉ。くせえんだよ!」
男は長い髪を髷(まげ)のように結んでいる。一、二筋こぼれ落ちた髪のせいで、遠くから見ると、男の顔に細いひびが入っているようにみえる。息をするたびに突き出た腹の上でTシャツが上下する。
「なんで言うことを聞かないんだよ。まったく。昨日も言ったし、今日も言ったし、ずっと言ってるだろ。病院に行けよ。その脚から臭ってるの、分かんねえのかよ!」
男は責め立て、老女は口を動かし続ける。老女は男の怒鳴り声などお構いなしに、ずっとなにかをつぶやいている。なんだか分からない言葉が湿っぽい地下道の中を山びこのように行き交う。老女の小さな体を支えた松葉杖がかたかた揺れる。ふらついて片側に傾きそうになる。男が片方の松葉杖をひったくる。老女の体がぐらついて、地面につんのめる。俺は目をつむる。これ以上見るまい。そう思いつつも、そこから完全に目を離すことができない。それまでなかった妙な活気が地下道を目覚めさせる。二人の小競り合いが早く終わることを望みながらも、一方では、珍しい見ものが長く続くことを願っている。そんな騒ぎが俺の時間を一口ずつ齧っていってくれることを。そうやってこのうんざりするような一日がさっさと終わってくれたらよい。俺は執拗にそこを注視する。
老女が地面に座り込んで松葉杖を振り回す。男の脚を狙うが、松葉杖は地面を叩いてばかりいる。男が片足で老女の脚をつつく。老女はさかんに体をひねるだけで、なかなか立ち上がらない。立ち上がらないのではなく、立ち上がれないのだ。俺はそこでようやく、力の入らない老女の無力な両脚に目を向ける。
老女が松葉杖を動かして男のカートをぐいと押す。様々ながらくたを積んでいたカートが後ろへすべって壁にぶつかる。積んであったものがガラガラと地面に落ちる。金網やビニル傘などが地面に叩きつけられる。男が甲高い声をあげ、老女は両手をついて反対方向へと這っていく。両脚がずるずると引きずられる。
「うわ、なにすんだ、こいつ」
男が罵る。いや、罵声というより悲鳴に近い。男は老女もなにもかも忘れたかのように、さっとカートの前にしゃがみこむ。ひっくり返ったプラスチック容器からパンの切れ端やティッシュのかたまりが飛び出し、チイチイ、チイチイという声が四方に散らばる。ネズミだ。俺は、ぶちまけた玉のように散らばっていくネズミたちを目で追う。実験用のような白いネズミが三匹。大きくて真っ黒な野ネズミが二匹。男の巨体が、毛のないつるつるした尻尾を追いかけてあたふたする。俺はほかの人たちのように、その場でじっとしている。
そして壁を伝って逃げてきた白いネズミを一匹、靴の中に閉じ込める。それを男に渡す。そうでもしなければ、夜通し騒ぎに悩まされる破目になるかもしれない。男はうんともすんとも言わずに、靴をひっくり返してネズミを取り出すと、ズボンのポケットに入れる。ポケットがくねくね動く。男の目は依然として動転している。老女は段ボールに敷いてあった布団の中にもぐりこみ、ぴくりともしない。男はもはやそんなものは眼中にもないかのように、壁に沿って歩いていって、階段のあたりでうろうろし、うずくまった人々の間をくまなく探すのに没頭する。
俺は起きあがり、男を通り越してもう少し奥へ入る。ネズミが全部見つからなければ、男は夜通し騒ぎ続けるだろう。壁のへりに沿って逃げていた一匹が立ち止まる。白くて小さいネズミではなく、黒い目をした丸々と大きいネズミだ。それは特に声も出さずに、壁に体をぴたりと寄せて一休みしている。自分のいる場所がどこなのか確認しようとしきりに頭を上下させる。やつにはさらに地下にもぐる以外に方法はない。雨水の排水管に入り込んで、とにかく今よりさらに深いところへ落ちるしかない。ネズミを捕まえて男のところへ持っていってやろうかと思うが、やめる。ただもう適当な場所を確保して横になりたい。腹は減っていないが、胃の中が空っぽだ。それでようやく、終日水しか口にしていないという事実に気づく。明日も、明後日も、水だけ飲んでしのげればよいのだが。
コインロッカーの近くに段ボールを敷く。キャリーケースを抱きかかえた姿勢でうずくまると、また頭が冴えてくる。空気はねっとりし、全身がべたべたする。姿勢を変えるたびに段ボールが肌にぺたりと貼りついて剥がれる。人々が吐き出す熱い息を想像しながら瞬(まばた)きを繰り返す。誰かが吐いた息を俺が吸い、俺が吐いた息をまた誰かが吸う。この場所が造られて以来、ここにはずっと同じ空気が漂っているのだろう。
俺は毎晩、暑さと悪臭と戦う。それらの存在を忘れられる眠りの中に逃げ込むチャンスだけを狙っている。せめて電気だけでも消すことができれば。ここでは昼なのか夜なのかさえ確認することができない。
夜の水深
「ねえ、ねえ」
どのくらい経っただろうか。誰かが俺の肩を揺する。忘れていた悪臭が鼻の中めがけて攻め込み、眠りを覚ます。便所の臭いと酸っぱい汗の臭いが頭の中をかき回し、なにやらつぶやく声と、ウィーンという機械の音がはっきりとよみがえる。まぶたを押し上げると、白っぽい蛍光灯の光が降り注ぐ。こうやって起きてしまうと、あとはもうほとんど眠れないまま夜を明かさなくてはならない。腹立たしいというよりは、また眠りにつくのが怖くなる。ようやく眠りに落ちる頃には、出勤する人々の無礼な足音が押し寄せてくるはずだから。
しゃがみ込んだ女がすっと顔を出す。逆光のせいで、女の顔は明るい空中にあいた穴のように真っ暗だ。
「ネズミがいるの」
女が言う。戸惑ったり、不安そうな色はない。女は俺に警告でもするかのように、落ち着いた声を出す。
「ネズミ。ネズミがいるのよ」
女は一度言った言葉を繰り返すのがくせのようだ。俺が体を起こすと、女がほんの少し後ろに下がる。女の後ろに、がらんとした改札と大きな路線図が見える。電気の消えた証明写真機と色あせた案内板。〈出口〉、〈乗り換え〉などと書かれた表示板は変色して久しい。乾ききらない雨水が地面のあちこちに染みのように残っている。しばらくして俺はようやく女と目を合わせる。眠気や疲労のようなものが、女の切れ長の一重まぶたの上に浮かんでいる。
「起こして悪いんだけど。ネズミがいるの。知ってる?」
女は裸足にサンダルばきだ。しゃがんだせいで、短いズボンが腿(もも)の上までめくれ上がっている。女の痩せた腕にぶらさがったビニル袋が揺れる。女は一瞬、重心を崩してよろめき、片手を地面についてバランスを取る。指先が真っ黒だ。女が俺の顔の前に手をかざす。
「見えてますよ」
「見えないのかと思ったわ。とにかくネズミが、ネズミがいるの。ネズミが」
「ネズミが?」
俺は知らないふりをして答える。ここでは女は珍しい。大多数が男で、それもほとんどが老人だ。たまに女もいるが、気が触れているか、触れつつある。なので彼らを女と呼ぶのは難しい。もしかして、頭がいかれていたり病気ではないだろうか。慎重に女を見る。
ここでは、なにもかもが急速に傷み、朽ちていく。どんなものもすぐにボロボロになり、みすぼらしくなる。女の痩せた顔には深いしわが刻まれ、片方の頬には水疱のあとのようなものが残っている。肩まで伸びた髪はつやを欠いてもつれあっている。つやなどあった日があるのだろうか。なにもかも、もう取り戻すことは永久に不可能なくらいに女は老け込んでいる。こんな所にいようがいまいが、女の人生は大方決まってしまっているようにみえる。なにかが変わる可能性などもう全くないようにみえる。にもかかわらず、俺は女から目を離すことができない。
女は長い髪を耳の後ろにかけたり、手のひらで丸いひたいをなでながら、俺の目を見る。不安や恐怖、同情や軽蔑抜きで、警戒したり威嚇する素振りも見せずに俺と目を合わせたのはこの女が初めてだ。ここでそういう目に出会ったことはない。女の目は虚ろでなにも宿していない。その瞳から深さや温度を推し量るのは難しい。
「あっち。私、見たの。とても大きかったわ」
女が指をさして言う。四、五歳の子供のように怖がってみせる。首を伸ばして、女が指したほうを見る。女から酒の匂いがする。うずくまっていた人たちが顔を突き出してこちらを見やる。老女と男のケンカには見向きもしなかったやつらが、今度は露骨に反応を示す。今にも誰かがネズミを捕まえてやると大口を叩いたり、ネズミなんてどこにいるのだと息巻いてきそうだ。俺は立ち上がる。
女は膝を抱えて座り、身じろぎひとつしない。ネズミのことなどすっかり忘れてしまったかのように。俺があたりを歩きまわって、ネズミはどの辺にいるのかと聞いても黙りこくっている。女は壁を睨みつけたり、指で地面を押して、一人でふふんと笑っている。俺は歩きまわるのをやめて、女の前にしゃがむ。
「ネズミがいるって言いましたよね」
「私、ネズミとかって嫌い。本当に嫌」
「ネズミがどこにいるんですか」
「怖いわ、怖い」
寒気に襲われたのか、女が両腕で肩を抱いてぶるぶると震える。女の前歯がカチカチとぶつかる。そんな時、女はとても小さなネズミのようにもみえる。女を袋に入れて男に渡してやってもよさそうだ。あいつはプラスチックの容器に女を入れて、まめまめしく世話をするだろう。時折、真っ黒い手を入れて、つかんだり離したりしながらくすくす笑うだろう。女はそういうことを恐れているのかもしれない。ネズミを捕まえにいくべきかどうか迷っていると、女が頭を上げる。
「悪いんだけど、私、ここで寝てもいいかしら。ここにちょっと一緒にいても」
そうして、膝に顔をうずめると肩を震わせてすすり泣く。フ、フ、フ。いや、よく見ると、女は笑っている。ケラケラ声をあげて笑いだす。もしかすると、女はもうまったく酔っていないのかもしれない。恥ずかしさや気まずさといったものをひとつ残らず吹き飛ばせるほどに、女は路上での生活に慣れているのかもしれない。俺は女の笑い声が止むまで待つ。
女と俺は並んで横になる。段ボールが湿っぽい。地面から立ちのぼる湿気のせいだ。ロッカーのほうにぐっと体を丸める。その度に女はぴったりと体を寄せてくる。それを確認しようと、俺はまた少しずつ体をずらす。女の体温が少しずつ近づいてくる。俺は意地でも指一本程度の間隔を維持しようと努める。
真夜中にも、正確に捉えられない騒音が空気中を漂う。俺は耳を全開にし、流れている音を全て拾う。目を閉じていると、世の中の全ての音がここに流れ込んでくるように感じる。ここに唯一ないものがあるとすれば、それは静けさだ。それはもはや想像の中でのみ可能だ。夜が更けても人々の荒い寝息に悩まされなければならない俺は、毎日ひっそりとしたどこかの空間を思い浮かべる。
人々の寝息には鬱憤と諦めが混じっている。空気中を漂う騒音を一筋ずつ切り出して細かく調べる。その中には、女の細く濁った寝息も混じっている。俺は他の音を全て除去しようとする。女の寝息だけに集中しようと耳を澄ます。
どのくらい経っただろうか。音を立てないように体を動かして女のほうに寝返りを打つ。かかとがロッカーに当たり、ふくらはぎが女の足先に触れる。瞬間的に体を縮こめる。女は起きない。女は眉間にたっぷりしわを寄せて眠り込んでいる。電気を消して眠ることのできないここで生まれた習慣なのだろう。しわは深く、固い。小さくて丸い鼻。唇の両端に乾いたよだれがこびりついている。左の頬骨のあたりにすり傷のようなあとがある。
女は重ねた両手を枕にして微動だにしない。俺はぼんやりと女の顔を眺めながら、ここで失われてしまった女の姿を想像する。みすぼらしい姿の下に沈んでいる女の本当の顔を探し出そうとする。実際にはそんなものありはしないと思いながらも、いや、あってもなくても、今となってはなんの意味もないということを知りながらも、女から目を離すことができない。視線の先で化学反応が起こる。その中に新しい感情が生まれ、そんな時、女の顔が今までと少しずつ違ってみえてくる。瞬きするように一瞬のことだ。
手を伸ばして女に触れてみたいと思う。あくまでそう思うだけで、勇気は出ない。細くて長い指や真っ黒いつま先。垂れた胸やぽっこり膨らんだ腹を目で舐めまわす。ここでさえなかったら目もくれなかっただろうと思いながらも、俺は執拗に女を見る。眠っている女は不幸そうにみえるが、一方で安らかそうにもみえる。俺は勝手に女のことを推測しながら、退屈な夜の時間をやり過ごす。
だいぶ経って、女が向こうに寝返りを打つ。そうして、段ボールの上にこぼれた髪をひとまとめにして首の後ろに流す。手馴れた素早い動作。もしかしたら女は眠っていないのかもしれない。ふと、空気中を漂う騒音が一斉に消え、俺が瞬きする音まで女が全て聞いているような気がする。俺は口を開けて、音を立てないように息を吸って吐き出す。ロッカーに背中をぴたりとつけたまま、女の小さく丸まった後ろ姿を冷や冷やした気持ちで見守る。
背を向けて横たわった女がなにごとかつぶやく。寝言のようでもあり、独り言のようでもある。俺はもっとロッカーにくっつく。また女の声が聞こえてくる。眠っていなかったことは確かだ。顔が熱くなる。女は声を大きくしない。ただ俺が聞き取れるまで、同じトーンで同じ言葉を繰り返す。新聞や看板を読むような淡々とした口調で。ようやく女の言葉がはっきりと耳に入る。
「ちょっと抱いて。だめかしら?」
俺は腕を組んでロッカーに背中をつけたまま、じっと女の言葉を聞いている。しばらくして、ただ天井を見上げて仰向けになる。肩と腕が女の体に一瞬だけ触れる。瞬きをすると、蛍光灯の光のせいであたりは一時(いっとき)真っ暗になり、再び徐々に明るくなる。
「寒くて」
女が半分夢の中にいるような声で言う。長い沈黙の後、女のほうに体を向けてみるが、それで終わりだ。女の髪が鼻の頭とひたいをくすぐっても、俺はじっとしている。女が片手で俺の腕をたぐり寄せる。俺はいつの間にか女の腰を抱いている。腕の中に入ってきた女の体はとても小さくて、まるでなにも抱いていないようだ。寒いのか、女の体がぶるぶる震える。
「ちょっとだけこうしていて」
女は俺の腕を自分の体に巻きつけて規則正しく息をする。腹が静かに上下するのが伝わってくる。女が眠ったのか確認するすべがない。女の髪からきつい油の臭いがする。外に向かって常に神経を尖らせていた俺は、たかだか女の汚い手ひとつで警戒心を失い、あわてふためく。手を引き抜こうとすると、女が俺の手をそっと自分の胸の上にのせる。
なんとか言ってこの瞬間から逃れようとするが、一言も出てこない。代わりにただ青白い地下道の風景をぼんやりと眺めている。まずい。これはまずい。漠然とつぶやいてみる。そのくせ、女が俺の手に自分の胸をつかませてもじっとしている。忘れたと思っていたなにかが俺の中で目を覚まし、動き出そうとするのが分かる。毎晩、汚い道端で眠りにつく俺にはもう望むことのできないもの。そういうものが今、自分をどうしてしまうか分からないので、俺は怖気づく。
遠くから鼻歌を歌う声が近づいてくる。ごわごわした袋が地面に摺れる音と、音程もリズムも狂った歌声が鮮明になってくる。俺は瞬間的に手を引き抜いて、反対側を向く。誰かが千鳥足でたらたらと俺たちのそばを通り過ぎる。しばらくして、眠ったものと思っていた女がこちらに寝返りを打つ。俺は目をぱちくりさせながら神経を尖らせる。女が俺の背中にひたいを当てて体を丸める。これ以上逃げ場のない俺は、ひんやりしたロッカーにひたいを押し付けて息を整える。目をつむると、女の痩せた体が震えているのが伝わってくるが、俺は向きを変えない。ただ女の体温や息遣いを意識しながら夜をやり過ごす。
起き出してきた人々が広場の階段のあたりに座って炊き出しを待つ。電車やバスを待つ人たちのようにずっと別のほうを向いているが、灰色のワゴン車が三台現れると、テントの張られる場所に集まってくる。
大半の人たちはホームレスでない風を装う方法を身につけている。通行人や乗客の姿を真似ることができる。彼らは小さなリュックを背負って忙しそうに歩きまわったり、誰の目にもホームレスであることが明らかな人と距離を置く。しかし、俺には一目で分かる。好奇心を失った表情のせいで。彼らはこの場所に対しても、まわりに対しても、自分自身に対しても関心を持たない。心配したり、不安になることもない。彼らの顔は安らかで平和だ。全てを諦めずしては得ることのできないもの。俺はもう、そういう空っぽの表情を読み取ることができる。
明るくなって広場が混雑してきても女の姿は見えない。俺は女に名前を聞くことすらできなかった。しかし、名前を知っていることになんの意味があるだろうか。女は俺のキャリーケースを持っていってしまった。盗んでいってしまった。あくまで推測に過ぎないが、女をおいてはほかに疑いをかけるべき人がいない。カバンを失った今、ようやくそれが俺の全てであったことを悟る。たかだかカバンをひとつなくしただけなのに、俺の状況は果てしなく悪化している。ありとあらゆる不幸な予感が浮かんでは沈む。
残ったものといえば、ズボンのポケットに入れておいた財布と、携帯用ウェットティッシュが全部だ。財布には千ウォン札が二枚と、身分証、使えなくなったクレジットカードが数枚のみ。ウェットティッシュはもう三、四枚しか残っていない。知らない人にあまりにも簡単に隙を与えてしまった。脇が甘い自分の愚かさを責めるが、もう手遅れだ。なにも変えることはできない。後悔はいつも俺を裏切って、なにもかも取り返しのつかなくなった頃にのろのろとやってくる。
早朝から支援センターは混雑している。センターに出入りする人間は二つの部類に分けられる。黄色いチョッキを着た人とそうでない人。俺はなかなか中に入れずに、センターの前に停められたバイクやリヤカーをただちらちらと見ている。時間が経てば経つほどカバンを見つけ出すのは難しくなるだろう。そんな焦りさえも俺の背中を押すには足りない。最初からカバンは見つからないと断念できればよいのに。諦めや放棄というものを、なにも経験しないで身につけられたら楽なのに。俺はゴミ箱のまわりに集まる罪のない鳩たちを何度も蹴散らす。
センターの前を通り越して交番のほうへ歩く。入口でもじもじしていると、中に座っていた警官が振り向く。奥のベンチに男が一人横たわっている。上半身裸で眠るその男は、手足は痩せ細っているのに、唯一腹だけが異常に膨れあがっている。ホームレスだ。俺は確信する。
「なにかご用ですか?」
警官が顔を突き出して聞いてくる。ハエを追い払うような、かったるそうな声だ。俺は入口に立ってまごまごする。警官の声が大きくなる。
「こちらへどうぞ」
警官が手招きする。そして、その手でぎゅっと自分の頭をつかむ。疲労がこみ上げてくるのか、指を動かして長いことマッサージする。俺は一歩中に入って言う。
「カバンをなくしました」
「カバン、ですか。どこでですか?」
「中央地下道です」
「どんな状況でなくしたんですか?」
警官が少し大きな声を出す。苛立ちと疲労が混じっている。寝ている間になくなっていました。俺は声に出さずに言う。そんなことを言ったら警官はカバンを探してくれないだろう。見つからないのと探さないのは違う。警官がまくしたてる。なんの感情もこもっていない、きわめて事務的な口調で。俺はまごまごする。
「いつなくしたんですか?」
「今朝です。ちょっとほかに気をとられている間に」
「盗難に遭ったんですか? どんなカバンですか?」
「このくらいのキャリーケースです」
俺は手で腰のあたりを示す。
「中にはなにが入っていましたか?」
俺はすぐに答えられない。カバンに入っていたものを一つずつ挙げていったら、警官もすぐに感づいてしまうだろう。お仕事はなんですか。そうやって切り込んでくるかもしれない。俺のことを知ったら、全てのことが当然にみえてくるだろう。それがなんであれ。偶然で突然の事故ではなくて、起こるべくして起こったことだと思うはずだ。
「見つからないと困るんです」
俺は哀願するように言う。書類をかき回していた警官が顔をあげて応じる。気だるそうな表情をしている。警官が近くに来るよう手招きする。紙の束からビリッと一枚はがして、ボールペンをよこす。
「これに記入してください。身分証もお願いします」
名前、住民登録番号、年齢、住所、携帯電話番号、紛失経緯。鮮明に印刷された活字に目を通す。
「全部書くんですか?」
「簡単にでいいです。名前や住所などの必須事項だけで」
俺はしばらくボールペンを握り締めたまま、なにも書くことができないでいる。俺に書けるものといえば名前と年齢のみ。警官は下を向いてまた自分の仕事に没頭する。
俺は一生懸命女の顔を思い出してみようとする。残っているのは体臭や体温といった感覚だけだ。それらは目に見えるものよりはるかに具体的で鮮明なのに、誰にもはっきりと説明することができない。説明できないのはそれだけではない。なにもかも説明できないことだらけで、喉元が締め付けられる。息ができない。悔しさに、怒りがこみ上げる。
誰かが交番のガラス戸を開けて入ってくる。制服を着た別の警官だ。二人は昨夜の出来事を報告しあう。書類に目を落としていた警官が伸びをして立ち上がる。彼は同僚に確認すべき事柄を伝えた後、パンパンと帽子をはたいて交番を出ていく。カバンをなくした俺の話には言及すらしない。俺はボールペンを握ったまま、そこを出てくる。
「ちょっと」
警官に呼ばれるが振り返らない。ボールペンの芯をいじりながら考える。このボールペンで女を刺してやる。歯を食いしばる。女を見つけてやる。見つけ出して殺してやる。女に対する猛烈な怒りがこみ上げる。それが本当に女の仕業なのかも分からないのに、声に出してつぶやく。殺してやる。女であれ、誰であれ。一人じゃなくて十人、百人でもかまわない。ボールペンを折れるくらい強く握り締める。
いよいよ俺は、降参ですと両手を挙げてあの広場の真ん中に出ていくことになるかもしれない。全てを諦め観念することを学ぶ時が来たのだ。そんな不安に駆り立てられて、俺はやみくもに広場を歩きまわる。
ひょっとすると。
カバンを守り切れなかった俺は、あらゆる可能性をいっぺんに失くしたような顔をしている。しかし、カバンなどあったところでなにひとつ変わりはしないことを誰よりもよく知っている俺は、こういう瞬間をずっと予想してきたのかもしれない。予想していながらなんの備えもできなかった自分自身に対して抱く無力感から、こんな風に逃げているのかもしれない。熱を帯びた手の中で、握っていたボールペンがポキンと半分に折れる。
女を思い浮かべる。裏切られた、呪ってやる、恨んでやるなどと鋭い言葉をつぶやいてみるが、もしかしたらそれはカバンとは関係のない感情かもしれない。煮えたぎる感情の中で俺が考えるのは、女と過ごしたあの夜のこと。あの夜の記憶は消えない。あの夜のことは全て単に俺のカバンを盗むための嘘だったのかと考えると、怒りを覚える。俺は支援センターの近くをうろうろするが、最後まで入っていくことができない。
道路の向こうの大きなビルの壁にレーザーで次々と絵が映し出される。並んで歩いていく人たち、煙をもくもくあげて走る小さな列車、笑顔で両腕を広げた都市のマスコット。俺はピカピカ光って流れていく文字をぼんやりと見上げる。道路の中央に作られた停留所にバスがひっきりなしに停車する。バスは人々をひとつかみ降ろすと、またひとつかみ乗せて消えていく。横断歩道を渡って、駅に向かってせわしなく歩いてくる人たちが見える。
しかし、零時を過ぎれば、ひとつ、ふたつと明かりが消えて、広場の上に寂寞が舞い降りるだろう。全てのものが活気を失い、息をひそめる。ここが完全な闇に埋もれる時間が来るのだ。俺はそろそろその闇に耐える方法を身につけなければならない。慣れなければならない。それが可能かどうかに関係なく。ほかに方法はない。いろいろなものが少しずつ俺の選択の領域外に出ていっている。
朝になると、俺は駅舎を中心に大きく円を描いて歩きまわる。一周したら、今度はもう少し大きな円を描く。そうやって少しずつ半径を広げていき、駅舎に戻ってくる時は、地下道をくまなくチェックする。女の姿はもう四日も見えない。
駅を中心に道はかなり遠くまで伸びている。この通りは地上と地下につながり、公園とビルの林にまで張り出している。その範囲は毎日少しずつ広がっていくに違いない。
遠くから見ると、都市は病に侵されていて、人々は正体不明のウイルスを見つけ出すために、都市の肺腑にメスをいれ、引っかきまわしたりほじくり返しているようにみえる。昼間は都市全体が工事の騒音に包囲される。新しいものができると、それ以外のものはたちまち古くて汚いものになり下がる。だから、人々の繰り広げるそういう行ないは永遠に終わることがない。
俺はこの通りをぐるぐるまわるしかないのだろう。抜け出すことはできないだろう。そんな考えを払いのけるべく俺は猛烈に歩く。熱い汗が全身を伝って流れ落ちる。空きっ腹が鳴る。俺は空っぽのその空間に、怒りや憤りなどをひとつひとつ詰め込む。なんとしてもそういう激しい感情を失わないように努める。感情は、一日中生まれては消えてを繰り返す。
駅舎は一階と二階に分かれていて、大型テレビ六台が中央のホールに置かれている。俺は二階をくまなく探し、一階を隅々までまわる。トイレをのぞきもする。それから駅の正面出口を出て、まっすぐ大型スーパーに入っていく。店内は周辺のホテルに泊まる外国人や旅行客でにぎわう。俺はベンチやトイレのまわりを見てまわり、買い物客用のロッカーのあたりをうろうろする。ホームレスは昼の間そこに荷物を入れておく。食べ物の甘い香りとひんやりと心地よい空気にしばし心が和らぐが、そういうものに動じないよう、せっせと目を動かす。
後ろから子供が二人飛び出してきて、俺を押しのけて走っていく。誰かが置いていったカートが俺の腰に当たって止まる。カートにはカラフルなお菓子や牛乳、トイレットペーパーや食用油などが乱雑に入れられている。棚に沿って遠ざかる子供たちの後ろ姿を途中まで目で追い、カートを押して歩きだす。いや、実際には巨大化した空腹感が俺をどこかへと引っ張っている。俺はほかの客と同じようにカートを押して、試食の並ぶ食品コーナーへと近づく。
豆腐と餃子をつまんで食べる。ガツガツ食べてはいけないと思いながらも、どれも噛まずに飲み込んでしまう。味を感じるよりも先に、温かくてやわらかい質感が喉の奥に消えていく。眉間にしわを寄せたり表情を変える店員はいない。彼らはみな、俺のような客に充分に鍛えられているようにみえる。次々と食べ物を口に運ぶ。なにごとも最初は難しいが次は簡単だ。その次はもっと簡単になり、そのうちなんともなくなる。どんどんつまんで口に入れる。ここにあるものを全て平らげても空腹は満たされそうにない。
二度とここに来ることはないから大丈夫。カートに缶詰やチーズなどを放り込みながらつぶやく。今すぐにでもここを離れられるかのようにふるまう。そうやって、小さな紙コップを舌で舐めながらスーパーを出ようとした時、出口の店員に声をかけられる。
「お会計ですか?」
俺は反射的にカートから手を離し、あたりをきょろきょろする。カートは無意識に放り込んだ商品で半分くらい埋まっている。
「いかがいたしましょうか」
俺がまごまごしていると、店員の顔から笑みが消える。無駄なことを聞いたと後悔しているようだ。カートをそこに置いてスーパーを出てくる。店員は俺を引き止めたり、それ以上なにか聞くこともなく、カートを押して店内へと消えていく。
午後遅くになって、通りに細い雨が降る。小さな雨粒が浮遊して視界が白く曇る。べたつく首筋を片手で拭う。人々は雨をよけることなくあちこちで横になっている。頭のほうにだけ斜めに傘を立てかけたり、片手をひたいの上にかざして空を見上げている者もいる。ここの人たちはめったなことでは動いたり動じたりしない。驚いたりうろたえることもない。この程度の雨などどうということはないとばかりに通りに居座る。
歩道橋を渡ると駅の裏口だ。裏口を出ると大きな公営駐車場があり、駐車場のフェンスの下に陣取った人々がいる。彼らは終日暗くて人気(ひとけ)のないそこに大きなマットレスを敷いたり、小さなテーブルなどを持ち込んで、そこが自分の空間であることを示す。布団をかぶって眠っている者もいる。みな、広場に住む人間より荒々しくて気が強そうな印象だ。湿っぽい陰の中から鋭い眼光で俺を射抜く。俺は横断歩道を続けざまに三つ、四つ渡り、公園の中に入っていく。
雨脚が太くなる。両手を頭にかざして走る。公園は薄暗くひっそりとしている。公園全体が危険な緊張感に包まれているように感じる。大きな木の下に立って、体についた雨粒を払う。あちこちに黒いビニル袋のように転がった後ろ姿が見える。目を凝らすと袋の数はもっと増える。誰かが不用品を入れて投げ捨てていったかのように、彼らはあちこちで体を丸めて横になっている。みな、一日をやり過ごすために死闘を繰り広げているのだろう。この世の時間は全て彼らをよけて過ぎていき、彼らは無限に繰り返される一日の中に閉じ込められている。だから彼らはなんとしてでも眠りの中にもぐりこもうとする。そこで一日を、二日を、できることなら生涯を過ごしてしまいたいはずだ。しかし、通りに彼らの眠りを邪魔するものは数え切れないほど多い。
俺は少しずつ彼らに似てきている。そんな予感は俺を不安にする。不安は少しずつ大きくなる。誰だって彼らになり得る。俺もまた、彼らのうちの一人になってしまうのだろう。それは予想よりはるかに早いかもしれない。俺は罪もないカバンを責めながら歩く。雨は止まない。
公園を抜けてさらに歩く。通りは広くてきれいになる。明るい店が並ぶ前で人々は電話をかけたり、なにかを飲んだりして騒いでいる。夜中でも空気は熱く、熱気はそうそう冷めることはない。市庁、銀行、オフィスビルとホテルの前を通り越して、市場に入る。彼らはどこにでもいて、いつでもいる。俺は行き交う人波の中から、彼らのシルエットを迅速に、かつ正確に見つけ出す。女がここを抜け出したと確信することはできない。たかだかカバンひとつでこの広い通りから抜け出せるはずはない。そう思いつつも、俺は歩幅を広げてスピードを上げる。
ビルの警備員たちは俺を見逃さない。トイレでも使おうとしようものなら、すたすたと寄ってきて俺の前に立ちはだかる。
「なんのご用でしょうか」
丁寧だが断固とした態度で言う。大きくて頑丈なドアを押しもしないうちに追い払われ、地下鉄のトイレで小便をし、水道の水を飲む。ムカムカする。誰かが手洗い場の上に捨てていった飲み物を見つけて、すばやく飲み干す。冷たい氷が歯に当たる。渇きはなかなか癒えない。
駅の近くの大きな市場をまわって地下道をうろうろしている間に雨脚がさらに太くなる。地下道を抜けて駅の広場のほうに出てきた時、一気に土砂降りになる。ピカッと閃光が走り、その後に雷鳴がいくつも続く。俺は地下道の入口に立って呼吸を整える。地面を蹴ってどこかに逃げるように飛び散る雨粒。バシャバシャ、バシャバシャバシャ。けれども雨はいつまでも同じところを叩き続ける。
男の飼っているネズミは日増しに大きくなっていく。最初、十二匹いたネズミは、今は七匹だけだ。男はプラスチックの容器からネズミを取り出し、一日中なでたり、見つめ合ったりして時間を過ごす。食事の前にはご飯とおかずを入れてやり、思い出すたびに水をふりかけてやる。濡らした指先で水を弾き飛ばす男の目は慈愛に満ちている。
男はネズミの世話をし、俺はネズミの世話をする男を観察して午前中を過ごす。俺を見物しながらのろのろと時間を過ごす誰かもいるだろう。その中に女がいるかもしれない。俺はこまめに広場の隅々をチェックする。女を見つけてやろうという決意が終日頭を離れない。カバンに対する未練を全て捨てた気になった後でも、女に対する怒りは冷めない。俺はその怒りの火を消さないよう、一日に何十回も心を引き締める。
「見つからないってば」
ネズミの男がつまらなそうに答える。
「どうせ戻ってくるに決まってるんだから。来たら半殺しにしてやれ」
そう言ってケラケラ笑いもする。もしかしたらこいつは女の行方を知っているのかもしれない。女と組んで計画した可能性もある。しかし、何日経っても、男からは怪しいところがみられない。追求してもなだめすかしても男は一貫している。
時計台の針が正午に近づく。立ち上がる。男が手を振る。俺は階段を二、三段抜かしで飛び降りる。もしかしたら今日は見つかるかもしれない。男が教えてくれたネットカフェや宿屋に聞き込みをするつもりだ。
駅舎の裏につながる狭くて長い路地にひしめき合う安宿や長屋をしらみつぶしに調べる。そこには信じられないくらいたくさんの家が腐った歯のようにしがみついている。行き止まりと思った所からわき道が伸びて新たな路地が現れる。そこは迷路のようで俺はしょっちゅう道に迷う。そこの人々はドアを全開にして、好き勝手に行き来する時間を眺めている。窓ひとつなく、様々ながらくたで埋め尽くされた狭い部屋は、昼でも洞窟のように真っ暗だ。彼らは今にも崩れ落ちそうな町を孤独に支え合っているかのようにみえる。俺は誰彼かまわずこう聞く。
「新しく来た人、いませんか?」
もう少し具体的に説明することもある。
「女なんですけど。背が小さくて、キャリーケースを持っています」
うちわで扇いでいた老人らがこう答える。
「そんな人ならそこらじゅうにいるさ」
空中の一点を睨みつけて独り言のようにつぶやく人もいる。
「誰が入ってきて誰が出ていくかなんて知るかいね。そんなのいちいち覚えてないよ」
宿屋の主や若い人たちは呆れたような口調で言う。
「そういう人は一人や二人じゃないからね。一日でもずいぶん出入りがあるし」
もしかしたら女を見つけられるのではないか。昨日と同様またしても期待は外れるが、俺は路地の捜索を止めるまいと心に誓う。
駅に戻る前にドリームシティに寄る。このエリアで最も大規模なインターネットカフェ。昼間でも最低限の明かりしかつけないそこは、かび臭く濁った空気が充満している。席のない人たちが壁に頭をもたせかけてだらしなく座っている。
「こいつ、また来たな」
社長は半そでのシャツを肩の上までまくって豪快に言う。たくましい腕の筋肉が露出する。俺は女の人相と身なりを説明し、カバンの話をする。社長は退屈そうに欠伸(あくび)をして片方の肩を掻く。俺は、机やイスに乱雑に干された靴下やパンツなどを見ながら同じ言葉を繰り返す。なんというか、そこはネットカフェというより臨時の住まいのようだ。仕切りの影からイスに沈みこんだ背中や腰が見え隠れする。隅のソファから誰かがからかう。
「カバンじゃなくて女が必要なんだろ?」
タバコの白い煙の中に不快な笑い声が混じり込む。社長が俺の肩に片腕を乗せて、ガラスのドアを開ける。ドアには青いシートが貼ってあって外からは中が見えない。
「あのな、青年。ここではカバンがなくなることなんて普通のことなんだ。毎日ここでどれだけ変なことが起きているか知ってるか? カバンは自分で探すしかないな。さっさと諦めるなら尚良し」
俺は返事をしない。社長は俺を追い出すように外へと導く。
「もう来るなよ。ほかのことなら助けてやれるけどな。お互い疲れるじゃないか。分かるだろ?」
そして、ドアを閉める前にさらになにやら言い聞かせる。俺は聞かずに背を向ける。仕事が必要なら来い。働け。そのほうがカバンを探すよりよっぽど早い。社長の言葉を吐き出すようにぺっと唾を吐く。
日が暮れる前に広場に戻る。ネズミの男は街灯の光が届かない塀のほうに長々と寝そべっている。そして、顔の横に置いたプラスチックの容器を指でつついてニヤニヤする。ネズミたちは狭い容器の中を休みなく動きまわっている。俺は黙ってそばに行って座る。男も俺もなにもしゃべらない。
さらに時間が経つと、駅の周辺を見まわるセンターの職員らが親しげに近づいてくる。彼らは毎晩、駅の周辺をまわって様子を尋ねる。必要なものを持ってきてくれたり、役に立ちそうな情報を教えてくれたりもする。いずれにせよ、終日かんかん照りの下で無駄骨を折った俺としては、彼らと話をする力も残っていない。
「カバンをなくされたそうですね?」
駅に来た最初の日に歩道橋で会った女の職員が尋ねる。ネズミの男がはしゃぎだす。
「ねぇ、イさん。おいらのネズミ、どうしてくれる。しょっちゅう盗まれるんだけど」
職員が現れると、男は幼い子供のようにふるまう。とりわけ女の職員の前では、言葉遣いも行動も目に見えて幼稚になる。
「まさか、先生。誰がネズミなんて盗みますか。逃げたんでしょ。だから、美味しいものでも食べるのにお金を使ったらいいのに、どうしてネズミを飼うんですか、ネズミを」
「食べ物は糞(くそ)になって終わりだもの。ネズミはいつもおいらの隣にいるでしょ。こうして見つめてやって、かわいいねって声かけてやって。こういうのが愛でしょ、そんな珍しいことかな。女の人はこういうの好きでしょ。フフ」
「さあ、どうでしょう。あ、そうだ、先生はまだカバンが見つからないんですよね?」
職員は話を打ち切って俺の目を見る。俺は軽くうなずく。
「どうしてセンターに来ないんですか? こうしていないで仕事を探してみたらどうです? 助けになれると思うんですが。カバンは、働いてまた買えばいいでしょう」
「言うのは簡単だよ。なんのために働くの、大変な思いして。働かせるだけ働かせといて金はこれっぽちしかくれない。やめとけ。絶対にやめとけ」
ネズミの男が大きな声でぶつくさ言う。
「まあ、大変だなんて。先生はあの時、来もしなかったじゃないですか。事務所の掃除なんていくらもかからないのに。あの仕事でそれだけもらえるならお得でしょう。私なんてね、こうやって働いても、時給に換算するとあの時の先生より少ないんですよ」
「あの老いぼれ野郎はなんにもしないで金をもらってるのに」
「あの人は高齢じゃないですか。障害もあるし。それで補助金が出てるって知ってるじゃないですか」
「ああ、おいらにもそういう補助金が出るようにしてくれよ。頼むからさ」
「あれは誰にでも出るわけじゃないんですってば。それに、お金が入ったって、ぜんぶ道に捨てちゃうくせに」
「捨てるだなんて。おいらは猫にエサをやったんだ」
俺は二人の会話を黙って聞く。二人の言葉は俺を素通りし、俺は女を探さなくてはと考える。女を探したい。女を必ず探し出さなくては。
さらに何日かが過ぎる。
明るくなれば朝で、暗くなれば夜だ。時間の概念が簡略になっていく。夜になれば眠りを求め、目覚めればまた夜を待つ。一見、時間は流れ続けるようにみえるが、実際は同じ一日が果てしなく繰り返される。時間が感じられない。もしかしたら、今の俺にはそのほうがよいのかもしれない。俺はそんな風にここに適応していく。いや、ここが俺を手なずけている。
想像の中で、カバンはどんどん大きくなる。実際になくしたカバンのサイズとは関係なしに喪失感は深まり大きくなる。俺はそのぽっかり空いた空間を埋めようとする。煮えたぎる感情を押し込み、熱い状態を保とうとする。けれどもそれらはたちまち燃え尽きてしまう。果てることなどないかのようにめらめら燃えていた感情が消えてしまうと、俺は生気を失った老人のように広場を徘徊し、ほかの人たちと似たように行動するようになる。そうして、彼らとなにも変わらないということを認めるようになる。
朝が来れば、トイレに行って体を拭く代わりに、広場の列に並ぶ。順番が来たら、プラスチックのスプーンをもらって、器にご飯とスープをよそってもらう。腹を満たすにはまるで足りないが、ゆっくりと噛んで飲み込む。空腹にまかせて一気に平らげてしまわないように気をつける。
見知った顔が少しずつ増える。カートを押して現れるネズミの男。ズボンを何枚も重ね履きした松葉杖の老人。自転車にがらくたを吊るして歩く男。袋にペットボトルをぎっしり入れて歩く女。彼らはいつも昨日と同じいでたちで現れ、毎日同じ場所をぶらつく。
食事が終われば、駅のまわりを歩いて使えそうなものを拾い集める。一人の人間が日常を維持していくには、実にたくさんのものが必要だ。しかし俺は、それが本当に必要なものなのか、もっと詰めて考えなければならない。路上で所有できるものは限られる。全て担いで歩くわけにはいかないから。便利だが重いのより不便だが軽いほうがよいと思いながらも、ものを減らして捨てることになかなか慣れない。
骨の折れた傘などは比較的よく目にする。半分くらい飲み残した水やジュースを拾うのも難しくない。俺はものを入れるためのリュックをひとつと、古びた敷物、サンダルと野球帽を手に入れる。今すぐ必要な服や布団なんかは、そうそう捨てられていない。往来の多い駅周辺に捨てられたものは、たいがい誰かがすばやく持っていってしまう。俺はせっせと駅の周囲をまわり続ける。必要なものを金で買えないので、捨てられたものを探して休みなく動かなくてはならない。
時には、眠っている人や酔っている人に近づいて、小さな毛布やズボンなどを失敬してくることもある。女から学んだ方法だ。ここではものが絶えずぐるぐるまわっている。所有という概念は成立しない。一度入ってきたものは捨てられることなくこの広場を転々とするが、決して誰か一人の所有になることはない。誰でも持ち主になれるが、あくまで一時的だ。俺は罪悪感もなしにちょっとしたものを盗む。自分のものを奪われたので、誰かのものを奪うのも当然のことのように感じる。
夜には酒盛りを開く人たちの輪に加わる。酔いがまわると、時間が大股で俺を通り過ぎていく。時間のスピードがほかの人たちと公平になる。そういう時、心は限りなくおおらかで穏やかになる。長い影を引きずって家路につく人たちの後ろ姿が不憫にまで思えてくる。さらに酔いがまわると、空気中を漂う匂いと騒音がなりを潜める。怒りや羞恥といった、俺が一人で耐えなければならない感情は姿を消し、興奮した生意気な度胸がよみがえる。
「なあ、青年。君はまだ若いじゃないか。なんだってできるってわけよ」
舌のもつれた誰かの言葉が俺をその気にさせる。全身の細胞がえいっと起き上がるような気になる。そんな時、俺はなんだってできる人間になる。自信に包まれて俺は浮き立つ。
「おれだって若い頃は勝ち組だったんだ。言ったっけ? 俺は公務員を十五年もしていたんだぜ」
いつだって、おごる人間が一番よくしゃべる。酒代を出した者はしゃべり、おこぼれに与(あずか)る者は聞く。相槌を打ってやれば彼らは有頂天になる。有頂天になって、財布の金が底をつくまで一晩中酒をふるまう。
「いい加減にしろよ」
俺は酔いがまわるのを待って、因縁をつけて彼らと殴り合いを繰り広げる。
「てめえ、この野郎」
口では罵っても、彼らはまともに体を支えることすらできない。よたよたして、どうにか重心を取ってもどうせすぐに転ぶ。俺はパンチやキックで彼らを制圧する。制圧されない人間はいない。彼らは年を取って衰弱している。俺は周囲の耳目を引くほどに騒ぎ立てる。大声で罵る。人々の注意が集中する瞬間を逃さずに、相手の頭や腹に拳を打ち込む。倒れた体めがけて怒鳴りながら蹴りを入れる。一緒に飲んでいたやつらが後ずさりすると、俺は顔をあげてぐるりと見まわす。暗闇の中で瞬きする瞳に向かってこう牙をむく。
「いいな。俺を怒らせたらぶっ殺すぞ」
警察に取り押さえられたり、センターの職員が駆けつける前に、残った酒とつまみを持ってそこを抜け出す。彼らだって俺をどうすることもできないだろう。どうせケンカに割って入ったり、あれこれ訓戒するだけで放免ということを知っている俺は、だんだん大胆になる。
日に日に路上での日常は楽になる。俺はもう、広場が見渡せる旧駅舎の近くに陣取って横になることができる。びくびくする気持ちは雪のように溶けてなくなる。もはや周囲をきょろきょろすることもない。誰一人として、俺にどけと大声をあげる人はいない。そんなことを言ってくるやつは誰だって殺してやる。俺は不安やおそれといった感情を怒りでぐるぐる巻きにする。それは日増しに大きく強固になる。
夜には、盗んだものを枕元において寝る。光を遮るために帽子で顔を覆う。それでもすぐには寝付けない。骨の折れた傘、サンダルなどを守るために絶えず殺意を転がし続ける。拳程度の大きさのそれが顔ぐらいになり、体ほどにもなるまで。俺は怒りとおそれ、不安と恐怖の上でそれを何べんも転がし、巨大化させる。
そして、ある日の晩、広場の真ん中で女を発見する。
午前から広場の一角に大きなテントがふたつ張られる。無料健診の日だ。白衣を着たスタッフが長いテーブルの席につくと、大学生らがホームレスを呼び集める。すぐに長い列ができる。健診の後に配られる冷たい水とパンのためだ。
「特にどこか痛いところとかありますか?」
テーブルの幅が狭いので、女の医者と顔が触れそうなくらい近い。俺はイスを後ろに引いて少し離れて座り直す。俺の体から立ちのぼる悪臭が医者を不快にするかもしれない。いや、彼らはなにも気づかないふりをして、平気なふりをするだろう。けれど俺は、俺に我慢している彼らの表情を発見し、それを見なかったふりをしなければならないのがつらい。
「ありません」
「では、歯を見ますね。あーんしてください」
医者が体を少し起こして、あーんと口をあける真似をする。その間に列に並んだ人たちの間で小競り合いが起きる。大学生らは、先に水とパンをよこせと駄々をこねる人たちの対処に困り、途方に暮れる。彼らは、今日が済んだらもう会うこともない学生たちに遠慮がない。水とパンの箱が積まれたところに来て引き下がらない者もいる。医者がもう一度言う。
「あーんしてください」
俺は息を止めて口を開ける。
「虫歯がありますね。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。ご存知でしたか?」
俺は馬鹿みたいに口をあけたままうなずく。
「近くの歯医者に行ってすぐに治療してください。ひとつはちょっと深刻ですね」
医者が器具で歯をコンコンと叩くたびに俺は身をすくめる。検査はほんの十分で終わり、医者は俺の体の状態について簡略に説明する。まだ若いので比較的健康だ。路上で寝起きする生活は健康を害する。手をよく洗え。栄養素をまんべんなく摂取して、睡眠をしっかり取れ。酒とタバコはやめろ。定期的に歯医者に行け。医者の言葉は雑音のように俺を素通りする。もらったパンと水をその場で立ったまま食べてしまう。
無料健診は夕方遅くまで続く。日が暮れる頃になると、人々はパンをつまみに酒盛りを始め、俺は適当な群れに紛れ込む。今日は自活勤労〔労働能力のある低所得者に労働の機会を提供する政府の自立支援プログラム〕をするハンさんのおごりだ。彼は一日に四時間、広場のゴミを拾ったり花壇を管理する報酬として、市から一定の額を受け取る。その金で考試院(コシウォン)〔二畳程度の小部屋に共同の台所と浴室等がついた施設で、もとは司法試験や公務員試験をめざす学生がこもって勉強するための場所〕や長屋の家賃を払い、路上生活を卒業するために努力することが支援の条件だが、彼は夜遅くまでそこに帰らない。部屋代を使い込んで金がないという理由で路上で寝泊りする。
「えー、あそこじゃ寝られないよ。今までこんなに広いところで寝てたのに、あんな狭いところで寝るなんてムリ」
酒をおごってもらう側は彼をハン社長と呼んでおだてるが、実は彼がひっそりとした闇を避けて通りに逃げてくるのだということを知っている。電気の光と騒音、人波が途絶えることのない通りに慣れた人々は、闇と静寂に耐えることができない。眠りにつく直前、完全に一人きりになるその短い瞬間に、自らと対面しなければならないのがつらいのだ。俺はさっさと酒を飲み干して、人々が声を荒立て始める頃、その場を後にする。シャッターの下りたショッピングモールを通り越し、スーパーの正面出入り口の前を通る。すると、そこに女がいる。
階段のわきの花壇に上半身をもたせかけて座っているのは、間違いなく女だ。マッコリのビンが散らばり、トッポッキやスンデ〔豚の腸に春雨やもち米等を詰めた黒いソーセージ〕のようなものが地面でぐしゃぐしゃになっている。かびくさいマッコリの臭いが鼻をつく。女の近くをうろついていた三、四人の年取った男が俺の顔色を伺う。女は眠っているようでもあり、気を失っているようでもある。高い花壇の影の下、女の姿は小さい。風が女の体をひょいとすくい上げて、あちこち運んでいけそうなくらいだ。俺は危なっかしげに空中を漂う黒い袋を思い浮かべる。
カバンは見当たらない。すでにずっと前に、どんな形であれ売ってしまったに違いない。地面に転がるあの酒とつまみは、俺のカバンと交換したものである可能性が大きい。そんな風に、俺は女に対する怒りを燃え上がらせようと必死になる。しかし、俺の中をぎっしりと埋め尽くしていた怒りは、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。俺は消え入りそうな怒りをなすすべもなく眺める。
年寄りたちを目で追い払った後、女の身のまわりをあさる。荷物は小さな紙袋ひとつだ。紙袋をひっくり返すと、くるくる巻いた薬の袋がひとかたまりと生理用ナプキン二枚、プラスチックのコップと歯ブラシ、歯磨き粉が地面にこぼれ落ちる。女のポケットから数枚のレシートを引っ張り出す。全て酒を買ったものだ。日付に見当をつけてレシートを地面に投げ捨てる。女は目を覚まさない。いや、もしかしたら、すでに起きているのかもしれない。
片手で女の顔をまっすぐに起こす。しばし垂直に立った頭はすぐに片方に倒れる。濡れた髪の毛が女の頬に引っ付いている。酒の臭いが空気中に広がる。俺は女の肩や脚をつかんで揺する。膨れあがった腹を除けば、女の体は薪のように痩せこけている。火種を近づければ今にもぱちぱちと燃え上がりそうだ。
「くそっ」
俺は、独り言を言って息を大きく吸い込む。酔いを保っておくために、紙コップに残っていた酒を一気に飲み干す。今よりも過激にならなくてはならない。体内に散らばる火種を集めて、どうにかして怒りを燃え上がらせようとする。女は俺のカバンを盗んだ。それは俺の全てだった。俺をこんなにしたのはこの女だ。女のせいだ。俺は女に全ての容疑をかぶせる。
「起きろ。起きろってんだ、このアマ」
エンジンがかかったように俺の中のなにかがもぞもぞと動き出す。声が大きくなり、熱がこみ上げる。
「この泥棒め。起きろ。起きろって言ってんだろ!」
女の頬を張り飛ばす。首が片側に折れ、女の体が地面に突っ込む。
「起きろよ!」
声を荒げ、女の髪を鷲づかみにして揺らす。消えたと思っていた怒りが徐々に息を吹き返すのが分かる。この怒りの正体はなんなのか。考えを整理する間もなく、怒りは俺を飲み込んで自制心を失わせる。俺は片手で女の髪をつかみ、もう一方の手で頬を張り飛ばす。頬をねらった手のひらは、女の目を叩き、鼻を叩き、首筋へと移っていく。たちまち女の顔が熱を持つ。
あの晩の記憶がよみがえる。女を腕に抱いたときの感覚がまだそっくり残っているという事実が、俺を耐えがたい気分にする。あの晩の感触はまだ指先を離れていなかった。規則正しい心臓の音と、頭皮の油の臭いなど。もともとそこになかったかもしれないものまで俺は細かく反芻して思い浮かべてきたのかもしれない。女が丸ごと捨てていったあの晩の記憶を、俺はひとつも忘れていないのが悔しい。
女の髪をつかんで地面に頭を叩きつける。いや、叩きつけようとする。今この瞬間、女を殺すことも可能だ。俺のカバンを盗った泥棒だから殺しても構わない。俺は盗まれたカバンの重みでほかの考えをぐっと抑えつけようとする。女が目を開ける。片方の目は辛うじて開くが、もう片方の目は完全に開かない。まぶたが腫れ上がっている。
「カバン。俺のカバンを返せ!」
女の耳元でがなり立てる。
「ちくしょう。俺のカバンを返せ。俺のカバン。このクソアマ!」
女の髪を引っ張って罵声を浴びせる。女の表情が妙な具合に歪む。殴られまくったボクサーのように女の顔はボコボコだ。片方の手で女の髪をつかみ、もう片方の手を振り上げる。
「あげる。あげればいいんでしょ」
髪をつかまれた女の頭が力なく空中に揺れる。俺は女の口許に耳を寄せる。
「このアバズレ、てめえ、俺のカバンをよこせ。俺のカバン!」
俺の問いかけに関係なく、女は落ち着き払って言う。当惑したり不安がる様子はない。冷静で揺るぎのない声。女が言葉を続け、俺はそれを聞くために結局口をつぐんでしまう。やがて女の言葉が正確に俺の耳に届く。
「あげる。あげる。一回あげる。あげるってば」
どうにか自力で立っていた女の首がまたガクリと前に折れる。
女を背負って広場を横切る。まもなく駅構内の電気が消され、立入りが制限されるだろう。明け方に始発が動き出す時間まで、駅に通じる地下道の出入り口も閉鎖される。俺は光の届かないほうを選んで速度をあげる。女の体はきびがらのように軽い。だらりと垂れた女の髪からすえた臭いがする。じっとりした髪の毛が首や肩にまとわりつく。俺は何度も足を止めて、視界をさえぎる女の髪を背中の後ろに流す。女は俺の肩に顔をうずめて微動だにしない。
なるべく駅から遠いところまで行かなくてはならない。真夜中の公園であれば適当だ。女をどうするつもりなのか決めてもいないのに急ぎ足になる。明かりの消えた店の前を通って横断歩道を渡り、ガードの下をくぐる。息が上がって体が熱くなる。顔を伝って流れ落ちる汗のために、しきりに瞬きをする。
つまり、全ては思っているより簡単かもしれない。どうせ女の顔や身なりは闇に埋もれて見えないだろう。女は俺のカバンを盗んだ。カバンを売って、中に入っていたものまで処分したならば、かなりの額を手にできたはずだ。女はその金を全部使ってしまったに違いない。いま俺が頂戴できるものは、唯一、女の体だけだ。それは正当な対価だ。俺は自分の望んでいる結論を出すために延々と考え続ける。女の唇の端から粘っこいよだれが垂れる。俺の首を伝うよだれに血が混じっている。俺は信号を無視して二車線道路を走って渡る。
公園は暗くひっそりしている。ひんやりと湿っぽい空気が肌に触れる。俺は人がいそうなところをチェックして、さらに奥へと踏み込む。適当な場所があるはずだ。きっとあるはずだ。俺は自分に確かめるように何度も言う。
だいぶ経って女を下ろす。公園の最も奥のフェンスが張られた場所。フェンスの向こうには線路がごちゃごちゃに絡み合っている。さほど遠くないところに駅が見える。いまだ消えていない明るい光。俺は女の体が側溝に触れないように少し奥へ押しやる。巨大な銅像が真っ黒い背中をこちらに向けてひとり立っている。おかげでここはほかの所よりも暗い。あたりを見まわす。今は目に入らなくても、間違いなく、この闇に姿を隠している人が何人もいるはずだ。夜露で芝と土が湿っている。
女の脚を広げ、その間に膝をついて座る。簡単にズボンだけ下ろす。急ごうと思いながらも、なぜか俺は女の体をただじっと見下ろしている。小石や砂が膝や脚に突き刺さる。全ては予想通りだ。公園は暗くて人気がない。女は抵抗しない。何回でも俺を受け入れるつもりのように安らいだ姿勢だ。
歩いている間じゅう興奮していた体が急速に冷める。俺は体の熱が引いていくのを敏感に感じ取る。パンツの中に手を入れて性器を触ってみる。長いこと履き替えていないパンツが湿っぽい。せっせと手を動かす。なだめるようにさすり続けても、だらりと伸びた性器は勃ちあがる気配がない。焦れば焦るほど、体は言うことをきかない。濡れた芝の上に横たわった女がのんびりと言う。
「遠慮しないで。さ、どうぞ」
俺は答えない。
「カバンはなくしちゃった」
女は一言も謝らない。フェンスの向こうで最終の高速列車が警笛を鳴らして過ぎていく。ヘッドライトの強烈な光が女と俺を照らし出す。女と俺はほぼ同時に目をつむる。闇に慣れた目は、突然襲いかかる光に耐えることができない。周囲が最も明るくなる時、俺たちは完全に真っ暗になる。
女が体を動かす。頭をあげ、地面に手を突いて上体を起こす。俺は地面にささったように不動のままでいる。このまま女が行ってしまったとしても、引き止められないだろう。考える。ただずっと考える。考えているだけではなにもできないことを知りながらも、熱い唾を飲み込むことしかできないでいる。パンツの中に女の手が入ってくる。女がゆっくりと手を動かす。俺は女の髪や体が放つ臭いをかぐ。洗い流すことのできない通りの臭いが女の体を隙間なく埋め尽くしている。臭いは一枚二枚と女を包み、しまいにひとつに混じり合って固いカチコチの皮膚と化したかのようだ。
下半身が疼く。口の中が熱い。俺は口を開けたまま、声ひとつ出せずにいる。そうして、女の手の中から広がるエネルギーが全身に行き渡るのをただ感じ取る。女は咳をして唾を吐きながらも手を休めない。
「口ではできないよ。血が出てて痛いの。さっき切れたんだと思う」
こんな風にも言う。
「疲れた。あとは自分でやって。早く眠りたい」
そして、湿った芝生の上に再び横になってしまう。女が手を引っこめると、膨れあがっていたエネルギーが早急にしぼんでいく。女がさっきのように脚を広げる。手足を広げて横たわる女は死人のようにみえる。いや、死が訪れても受け入れるようにみえる。
「私、眠っちゃうかもしれない。やらないの?」
俺はパンツの外に突き出た性器を持ってぐずぐずする。そして背を向けて座り、機械的に手を動かす。やがて、石と土の混じった地面に唾のような精液があふれ出る。俺はしばらくそのまま座って息を整える。もう電車も通らない。四方は静まり返り、俺はその静けさに押しつぶされたようにうなだれる。
ズボンをあげる。女はもう眠っているかもしれない。こっそりここを出ていくだろう。片膝をついて体を起こす。細かい石が膝に突き刺さる。俺は脚についた砂を手で払い落とす。女が寝言のようにつぶやく。
「寒い」
俺は中腰になって手を伸ばしてみる。指先に触れる女の足首が冷たい。短いズボンから突き出た女の下肢が震える。両手で女の脚をさすって、また座り込む。俺の手のひらは熱いのに、女の脚はなかなか温かくならない。
「寒い。すごく寒いの」
女がつぶやく。俺は片手でつかめそうな、女の痩せた黒い脚をなで続ける。女も俺もなにも言わない。女と俺は互いに目も合わせずに、ゆっくりと過ぎていく暗い夜の底を浚(さら)っている。
恋人同士
俺と女は支援センターの前で午前中の時間を過ごす。俺は事務所には入らずに、やや離れたところに立って女を待つ。最初は歩道橋の入口あたりでうろうろしていたが、次第にセンターの裏手を徘徊するようになり、今ではセンターの前のベンチに座って女を待つまでになった。嘘みたいに、なんていうことはない。
女はそこからコーヒーも持ってくるし、パンももらってくる。熱いお湯を注いだカップラーメンを持ってくることもある。しかしコーヒーに少し口をつけるだけで、ほかのものは食べない。全部俺にくれて、それで終わりだ。今日女がもらってきたのは、ビスケット二袋と豆乳一パック。女は豆乳にストローをさしてよこす。
「少し飲んだら?」
「私はいい。あんた、飲みなよ」
女は俺が飲んでいるところをぼんやりと眺めて、すぐに広場のほうに視線を移してしまう。昼間の広場は混雑しているが平和だ。しかし引き潮のように人々の姿が消えていくと、そこは飢えた獣のように獰猛になる。日の光の下、女の顔には生気がない。古くなったパンの表面のようにくすんだ顔色をしている。あごのあたりから両頬にかけて小さな赤いブツブツができている。そばに座る人々は、俺たちをじっと観察するだけで、下手に声をかけてこない。
ついこの間、ある男が女に気付いてにやにや笑いかけてきたことがあった。手を後ろで組み、小首をかしげて笑顔を投げかけてきた。人と目を合わせないようにずっと地面ばかり見下ろしていた俺は、頭をあげて、男の目をまっすぐ見据え、胸倉をつかんで地面を転げまわった。男の顔から笑みが消えるまで殴ったり蹴ったりする間、男が大声で叫んでいた言葉を、いまや誰もが記憶している。俺と女が夜ごと肌を重ね合わせてあえぎ声をあげ、空き缶やペットボトルが飛んできてもおかまいなしということを知らない人はいない。女と俺が過ごした夜は、丸裸にされて明るい広場に投げ出されて久しい。そして、俺はそれ以上そのことについて考えない。
終日特になにも食べなくても、女の腹はいつも膨れている。妊娠したように盛り上がったその腹が気になるが、俺はなにも聞かない。聞かないことはもっとたくさんある。そして増える一方だ。しかし、いずれ女が自分から話すだろう。そのはずだ。俺は確信する。
正午を過ぎ、空気が熱くなる。女と俺は涼しいところを探して一緒に歩く。センターを過ぎて広場を横切り、駅舎から遠ざかると、女がそっと俺の手を取る。女の手は小さくて固い。女が俺の手をぎゅっと握って歩く。体の大きさから見れば俺が女を引っ張って歩くようにみえるが、方向を決めるのは女だ。女の背丈はようやく俺の肩に届くくらいだが、俺よりはるかに多くのことを知っている。
「暑い?」
女が汗をかいた俺の手のひらをなでてつぶやく。疾走する車が女の声を掻き消す。
「大丈夫」
俺は顔を伝って流れ落ちてくる汗を肩先で拭う。なぜか俺はだんだん女に従順になっていく。俺たちは道路を渡って、大きな警察署の前を通る。誰かがヘテ〔日本の狛犬に類似する想像上の獣で、正邪を見分ける能力を有するとされる〕の銅像の前にしゃがみこんでいる。蒸し暑い日にもかかわらず厚ぼったいコートに全身くるまっている。ヘテの足もとに頭を突っ込んだ後ろ姿は、伝説の雪男のように大きくずっしりしている。そこから流れてくる悪臭が通りを漂う。女が言う。
「十四億の女だ。あの人、知ってる?」
俺は軽く首を振る。女は、誰彼かまわず十四億返せと怒鳴り散らす女の様子を描写する。いつだったかそんな場面を見たことを思い出す。怒りに抗いきれず、ベンチの上に立って、空中を指さしてしきりにがなり立てていたようにも思う。十四億を持っていた女は今、警察署の前に置かれたヘテに向かって毎日祈りを捧げる。十四億を返してくれと。ぶつぶつと祈る声は、滑稽でもあり不憫でもある。十四億どころか十四万ウォン、一万四千ウォンすら俺には残っていない。しかし、俺は不幸だと思わない。少なくとも、ヘテの前にうずくまる女よりはましだと感じる。その女が十四億を持っていたとしても羨ましがらない自信がある。俺は馬鹿みたいな仮定をして一人で笑う。
「だけど、本当に十四億あったのかな?」
女がウィンクする。そんな時、女は幼い子供のように無邪気だ。堅固な沈黙の中に座って孤独に耐える年老いた女人ではなく、物怖じせずに年を重ねる少女のようにみえる。そんな女の姿が好きだ。
「本当じゃないかな。百億、千億じゃなくて、十四億だもの」
女はただくすりと笑う。そして、いつの間にか物怖じしない少女から無口な老女に戻っている。ぼんやりと前だけ見ている女は、冷たい水の中に頭を突っ込んで、過ぎていく記憶をひとつずつ眺めているかのようだ。俺が絶対に見ることのできない女の遠い過去が、女の目の前をゆっくりと過ぎていく。それは俺だけの錯覚かもしれない。それでも俺は不安になる。
俺たちは大きな銀行のビルを通り越して、遊歩道の入口に立つ。遊歩道に沿ってのぼっていく道にはホテルがある。カジノを運営するホテルの入口には、昼間でも常に車が混み合う。ホテルを過ぎると図書館があり、図書館を過ぎると大きなタワーに到達する。俺の脚では一時間ちょっと。女の脚では二時間ちょっとかかるだろう。もしかしたら三時間くらい。いや、女は歩いてそこまで行けないかもしれない。
「あとで、私のことおぶってあのてっぺんまで連れてって」
女はタワーの頂上を指さしてウィンクする。片方の目が軽く閉じられる時、女の表情は天真爛漫だ。一度としてきれいだとか、美しいといった言葉を声に出して言ったことはないが、この瞬間だけは、そんなこそばゆい言葉を言ってみたくなる。しかし、言葉はなかなか口から出ない。俺はすぐさま女に背中を差し出す。一気にそこまで駆けあがれそうなくらいに胸が高鳴る。とても激しく。
「後でね、後で」
女は背中におぶさる真似だけして降りる。いたずらっぽく背中で何度も女の行く手をさえぎってみるが、女は手で払う。そして、再び俺の手を握る。
俺たちはホテルの裏手の藤棚の下に並んで座る。たまにタバコを吸いにくる職員がいるだけで、閑散としていて涼しい。山を伝って下りてきた風が肩や脚をくすぐる。雨が降る前のようにどんよりと空気が重い。俺たちは駅舎を屏風のように取り囲んだアパート団地やオフィステル〔冷蔵庫や洗濯機等が完備した、オフィスとしても住居としても使える建物〕を見上げる。巨大な木のように、それらは毎日少しずつ大きくなっているように感じる。新しく道路が敷かれ、手のひらのように小さい車が終日道をならす。きっと、あの高い建物の間のどこかに、淀んだ日陰の風景の中に、びっしりと部屋の密集したふきだまりのようなところがあるはずだ。俺は狭くて蒸し暑い部屋を想像する。女と並んで横にさえなれるならどこだって構わない。女の指先をなで、手首や首を揉んでやる。女の首が自然と下に垂れる。
「昨日、よく眠れなかったみたい」
女が何度も寝返りを打つ間、深い眠りに落ちていた俺は申し訳なくなる。女と夜を過ごして以降、俺はどんどん鈍感になる。女が俺の鋭い感覚を全て持っていってしまったようだ。うるさくて暑い夜でも目を覚まさずにぐっすり眠る。
「気づかなかった。ごめん」
「あんたはまだ若いから。よく眠れて当然」
女が答える。俺は指先に力を込める。
「痛い。もうちょっと下。ここ」
女が指で肩を指し示す。俺は女の肩を揉み、背中の真ん中を親指でぎゅっと押す。丸くて小さな骨が指に触れる。できることなら、女の持つ全ての骨をこんな風に触ってみたい。鼻の頭に汗が噴き出る。
「もういいよ。疲れたらやめていいよ」
俺はやめない。今俺にできることはこれくらいしかない。女が独り言のように言う。
「あんたはここにずっといたらだめ。まだ若すぎる。はやく方法を探さないと」
「今でも充分だよ」
「バカなこと言わないの」
女は母親のように言う。そしてきっぱりと忠告する。俺は黙って聞いている。
「今夜一晩だけ寝たら、明日は行きなさい」
「どこに?」
「どこでもいいから。あんたは働けるじゃないの。お金さえ稼げばどこへだって行ける。あんたは私なんかに構ってたらだめ」
俺は答えない。女の首を揉んでいた手が、女の胸のほうに滑り込む。女が体をまっすぐにして、俺の腕をつかむ。あたりを見まわしていた女がゆっくりと俺の手を自分のTシャツの中に入れる。女の柔らかい乳房が手の中に入ってくる。遠慮がちに手を動かす。女の体が微細に反応する。今や俺はそんな微細な変化に気づくことができる。
「平気?」
女が聞く。俺は瞬時に理解する。こんなに年を取ってみすぼらしい自分で平気なのか。女は確認しようとする。
「どうして。どうしてそんなこというの?」
俺の声が大きくなる。女はTシャツの中の俺の手をそっとつかんで引き出す。
「ここ、涼しいね」
俺は答えない。俺たちはひっきりなしにホテルに出入りする車と、建物に並んだ窓を見ている。一晩でいいから、あのホテルの部屋で、女と一緒に眠りたい。女も似たようなことを考えているはずだ。俺たちは約束でもしたかのように、口をつぐんでそんな想像に浸る。昼は長く、女と一緒にいると昼はさらに長くなる。
俺は終日夜を待つ。早く夜になれ。夜を待つ気持ちは日に日に切実になる。女に対する感情が抑えようもなく大きくなっている。俺は感情が育っていくのをそのまま放置する。ときには、手をかけなくても勝手に育つものがある。
「今、何時くらいかな?」
女が尋ね、俺は大きなビルの影に目をやる。影が道路の真ん中まで長く伸びている。
「四時か五時くらいだと思う」
「暗くなるのはまだ先だね」
女は残っている昼の長さを測るように目を細める。女が待っているのは俺ではなく、意識が朦朧とするまで酔うことだ。今夜は飲まないでほしいと思うが、俺は黙って口をつぐむ。女がベンチの端に足を伸ばし、俺の膝の上に横になる。俺は女の丸いひたいを静かになでる。そうして、かがんでひたいの上にそっとキスをする。
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『中央駅』(キム・ヘジン著 / 生田美保訳)は11月12日(火)発売予定。
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