承認欲求という病
◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。『スマホ時代の哲学』の著者である谷川嘉浩さんと『ここじゃない世界に行きたかった』の著者である塩谷舞さんによるトークイベントに参加してきました。哲学者と文筆家である御二人の対談テーマは「承認欲求の燃やし方」。思考が膨らむ非常に面白い対談でした。忘れないうちに印象深かった話と自分自身が考えたことを書いておこうと思います。
1.承認欲求とは何か
まず最初に谷川さんは『スマホ時代の哲学』において敢えて承認欲求という言葉は使わなかったと言っていた。その理由に解像度の低さがあげられた。承認欲求という言葉はネガティブなニュアンスで語られがちである。「承認欲求満たしたいだけじゃん」とか「承認欲求高すぎるよね」とか他人を攻撃する文脈で使われることに終始しているように思える。自己肯定感と似ているようで違う。自己満足ともちょっと違う。承認欲求という魔物の正体を考えていきたい。
「承認を得る」というと公式のお堅いイメージがある。承という字は了承する、承諾する、継承する、伝承する、承知する、承るなどに使われる。OKするだけでなく受け継ぐニュアンスも含まれている。認という字は、認識する、認知する、確認する、認可する、認定する、公認する、黙認する、認めるなどに使われる。同じようにOKするという意味と分かっているのようなニュアンスもあるのだろうか。英語ではapprovalと訳し、承認の他に賛成や同意の意味も含まれていた。要するに誰かにOKもらいたい、同意を得たいってこと?
となると次は誰から承認を得たいか、さらにどんな承認を得たいかという問いが生まれる。友達から、親から、好きな人から、憧れの人から、有名人から、不特定多数の人から、はたまたそれ以外か。いいね!が欲しいのか、リプライか、フォローか、リアクションか、好意か、人気か、名誉か、何なのか。承認欲求とはSNSやスマホ時代が生んだ現代のデジタル病なのか。食が豊かになったことで引き起こされた痛風と同じか。
迷った時は木を見ず森を見よう。あることに気付く。子どもは承認欲求モンスターである。「お父さん見て!」と何が描かれているのか分からない絵を見せられる。ここで「すごいねぇ」と称賛を送るか、「何の絵なの?」と質問するか、「おー汽車ぽっぽか!」と当てずっぽうを言うか、「へー赤いクレヨンで大きく描いたんねぇ」と見た事実を言うか、「長い時間、集中していろんな色と形を描けたね」と過程を認めるか。
一番最初の称賛を送ると承認欲求を満たしたことになるのだろうか。多分ほとんどの親は我が身忙しさに「すごいね」の一言で返しているんじゃないかと思う。要するにいいね!ボタンを押しただけである。
一応、教育者であるので私は上記の全てをその時々でいろんな反応を示すようにしている。「見て!」って言ったら「すごいね!」って言ってくれる。「ああすれば、こうなる」を避けたいのだろう。こうして考えると「見て!」に対して色んな受け答えができるんじゃないだろうか。要するに承認する側のバリエーションを豊かにしていくことがデジタル版承認欲求の病理に効果がある気がしてきたのである。
赤ちゃんは泣くことで周囲にかまってもらい承認欲求を満たす。子どもも承認欲求を満たす行為を介して人間関係を構築していく。ともすれば、承認欲求とは人間誰もがいつでも持っている普遍的なものなのかもしれない。ただ、スマホ時代になり、SNSが発達した今ではそれが魔物化している。可愛く言えばこじらせている。だからこそ自分の承認欲求との上手い付き合い方を考えていくことがメンタルヘルス的には良いのではないだろうか。
2.承認欲求は手放せるのか
承認欲求そのものは既に述べたように誰しもが持つものでそれ自体が悪ではないと思う。しかし、デジタル版承認欲求では、スマホの世界で他者に囲まれながら接することのできな孤独さやさみしさを抱いたり、インフルエンサーに憧れを抱いて四苦八苦するも自己の差異を痛感して苛まれたりする。ここでも、スマホを通じて他者とつながることが悪いことではない。むしろ便利でありがたいことばかりだ。一方、憧れを抱いたり夢をもったりすることやそれに向かって努力することも悪いことではないと思う。
頑張って華やかに見せようとする虚しさや自分より凄い人と比べて感じてしまう無能感。他者や周囲と自分の思惑とのズレ。評価が得られない悔しさ。
人は評価が好きである。いいね!やフォロワーの数を気にしたり、アンチコメントがこないように配慮したり。本来活躍できるフィールドは無限にあるはずなのになぜか、TwitterやInstagram、YouTubeといったレッドオーシャンに身を投じ、イモ洗い状態の中で他人とどう差別化を図ろうかを思案する。結局、憧れのインフルエンサーの二番三番百番煎じを演じて以下ループである。
ここでの評価はインターネット上での評価である。もう一度森を見よう。インターネットに住まう自分とローカルに住まう生身の自分がいる。あまりにもスマホを酷使しすぎて錯覚しがちだが、本来生きる身体があるのはローカルである。デジタル版承認欲求において、自分の職業にリンクさせる必要はない。(そう言いながらこのnoteも職業にリンクさせている)
また、疲弊したのならローカルに引き返せばよい。ローカルで孤独することは生きる問題に直結してしまう。ローカルに居場所がないからインターネットの世界に住まうというのが数年前の言説だったが、今その順逆が変わってきている。インターネットに居場所がないからローカルを大事にする。こっちの方が健康的な感じがするのは自分だけだろうか。
そう考えると、身体の伴った生活で、家族やリアルに会う友達、地域などのつながりを大事にする。ローカルの本来の承認欲求を満たすことによってデジタル版承認欲求を燃やすことができるのかもしれない。
◆ぐるぐる考えていくうちにまとまりのない文章を書いてしまいました。それだけ谷川さんと塩谷さんのトークは示唆に富んだものだったと思います。まだ言い足りない部分もありますが2000字を超えたので一旦終わりにします。素晴らしい時間と言葉の贈り物をくださったお二人に感謝。
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