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[実録]生存率10%、余命宣告。医学生のがん闘病記録。
★2年間のがん闘病記録
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はじめに違和感を覚えたのは2023年4月頃、当時は5年生で22歳の時でした。なぜか、夜寝ている時に大量の汗をかくようになったのです。もともと暑がりだった私は特に気にしてませんでしたが、その1週間後に首元が腫れてきました。この二つの症状から悪性リンパ腫という血液の癌の可能性があると思い、すぐ近くのクリニックを受診しました。
悪性リンパ腫には首元のリンパ節が腫れることに加えて、寝汗が酷くなるということを大学で学んでいたからです。血液検査の結果、腫瘍マーカーが上昇しており、すぐに自分が在籍する大学の付属病院で詳しい検査を行いました。
そして、忘れもしない2023年5月3日、学校のテストを終えた私に一つの電話が来て直ぐ病院に来るようにと指示がありました。
病院に到着し、先生から告げられたのは悪性リンパ腫(Tリンパ芽球性リンパ腫)という病名でした。この病気は進行がとても早く、治療をしなければ3ヶ月もたないということでその日に緊急入院という運びに。予想していたとはいえ、いざ告げられると頭が真っ白になり、涙が止まりませんでした。親に心配をかけまいと、ひとしきりトイレで泣いた後、電話で親に病気のことを伝えました。
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この日からは私の日常は一変しました。まず、1週間のステロイドパルス療法を行った後、辛い抗がん剤治療が始まりました。抗がん剤治療の副作用で髪の毛は抜けていき、強い吐き気と痛みが全身を襲う毎日でまるで地獄のような日々でした。
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そして、抗がん剤治療をを始めて2ヶ月後の2023年7月に抗がん剤の副作用で急性膵炎を引き起こしました。急性膵炎とは膵臓が炎症を起こし膵臓が分泌する膵液がお腹の中に漏れ出す病気です。膵液は本来、お肉などのタンパク質を溶かす働きを持っているのですが、人間の体もほとんどがタンパク質なのでまるでお腹の中を溶かされているような痛みが6時間ほど続きました。よく出産と同程度の痛みと言われています。このときは本当に痛くて病室でずっと叫んでいました。間違いなく人生で1番の痛みです。
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その後は1週間の絶飲食を経て、症状が回復しましたが、問題なのはこの急性膵炎を引き起こした抗がん剤が使えなくなるという点です。抗がん剤にも様々な種類があり、私の病気にはこの抗がん剤以外だと治る見込みがなかったのです。
そのため、私には骨髄移植という選択肢しか残されておらず、ここからドナー探しが始まりました。
骨髄移植のドナーの条件としてHLAとよばれる遺伝子の型が合致しているかどうかが挙げられます。なんとなく想像がつくと思いますが、この型が合えば会うほど拒絶反応が少なくなるという事です。
そしてドナー検索をしてみた結果、残念ながら該当者はいませんでした。しかし、早く治療を行わななければ、手遅れになる可能性があったので、HLAが半分合致した弟がドナー候補に選ばれました。
ドナーといっても痛い思いもしますし、多少のリスクもあります。そのため、少し緊張しながら弟にドナーになってくれないかと聞いてみました。すると、弟はなんの躊躇いもなく、もちろんいいよと笑顔で言ってくれました。本当に嬉しかったのを覚えています。
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そして、2023年9月7日いざ移植当日これは意外とあっけなく終わりました。それもそのはずで拒絶反応が出てくるのは一般的に移植から2〜3日後だったからです。私も例に漏れず2日後から40度以上の発熱が1週間以上続きました。そこからは嘔吐や下痢、皮疹、大量の口内炎など痛くて眠れない日々が続きました。
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しかし、2週間後の2023年9月25日、無事に弟の細胞が生着してくれました。そこからは先生が驚くほどに、移植による副作用が改善していき、移植から3ヶ月後である2023年12月に退院する事が出来ました。
そして、弟にはthanks for your stem cell(細胞をくれてありがとう)というメッセージカードを添えて財布をプレゼントしました。また、両親にはここまで支えてくれた感謝を手紙にして送りました。その日は家族全員が泣いていたのを覚えています。
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そこからの日々は毎日が天国のようでした。家族みんなで温泉旅行に行ったり、大学の友達と美味しいものをたくさん食べ歩きました。2024年4月に大学にも復学し、5月にあった総合試験も見事に突破、順風満帆な日々を送ってました。
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しかし、そんな日々も突然終わりを迎えます。6月頃、友達と温泉に行っていた時にふと首元を触ると少し腫れているような気がしました。初めは勘違いだと思い2〜3日経った後再び触ると腫れが大きくなっていました。直ぐに担当の先生に連絡をして詳しい検査をしてもらいました。
そして、今でも忘れません。家族みんなで夜にゲームをしていた時に大学病院から一つの電話があり、再発を告げられました。後に両親から聞いたのですが電話を聞いた私の顔が一気に真っ青になったのを見て悟ったそうでした。私は再発がいかに怖いかをわかっていたのでその電話を聞いた時、正直もうダメだなと思いました。
後日、両親と病院に行き先生から詳しい話がありました。そこで伝えられたのは治療をしても助かる見込みは10%程度という厳しい現実でした。私の人生がここで終わると思うと悔しくてたまりませんでした。そして、先生からやり残したことをやってくださいと言われた時、一番に思い浮かんだのはやはり血液内科医になって自分と同じような境遇の方を救いたいという思いでした。そのため、助かる見込みの少ない中あの地獄のような治療をまたやる覚悟を決めました。
前回と同様、私の病気に効く抗がん剤はもう無かったので、いきなり骨髄移植を行う方針となりました。そして、今回もドナー検索をしてみましたが、やはり該当者は見つかりませんでした。そのため、私の家族や親戚全員にドナー検査をして貰うことになったのです。
ここで適合する人がいなければ、私は治療が出来ず、ただ死を待つのみとなってしまいます。この検査結果が出るのに1ヶ月かかるらしく、この1ヶ月間は「何でも好きなことをしていい」と先生から伝えられました。私は人生最後の1ヶ月になるかもしれない、そう直感しました。
そこからの1ヶ月は家族と上高地へ旅行に行ったり、奈良へ1人旅に行きました。そこで奈良の大学に行った高校の友達と合流して、観光を楽しみました。ただ病気のことは友達に伝える事は出来ませんでした。もう自分の病気の事で誰かが悲しむ顔を見たくなかったからです。
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そして、奈良から帰ってきた頃から、食欲がどんどん少なくなり、ほとんどご飯を食べることが出来なくなってきました。病気が進行してきたためです。一日中、寝たきりとなり、やりたい事があるのに出来ない、そんな日々が続きました。
そしてついに、1ヶ月後ドナー検査の結果が出ました。結果は母方の叔父と適合している事がわかりました。さらに叔父はお盆の休みを全て使って、私の入院する病院まで来て細胞を提供してくれました。この迅速な行動のおかげで私の移植はとてもスピーディーに行われました。私にとって叔父はまさしく命の恩人です。
そして、移植の前日、先生から「今回の移植ではほぼ命のやり取りになる場面が来ます。いつでも連絡を取れるようにしておいてください」と告げられました。もしかしたら、家族と話せる時間もこれで最後かもしれないと思い、その日の夜、両親に電話でこう伝えました。
「自分を産んでくれて、ここまで育ててくれて本当にありがとう。今日まで本当に幸せでした。仮に生まれ変わって、また同じ病気になるとしてもお父さんとお母さんの家庭に生まれたいです。」
そう言うと両親も泣きながら私が息子で良かったと言ってくれたのを覚えています。そして、その夜は泣き疲れたのか、そのまま寝ていました。
2024年8月27日、移植当日は前回と同様、何事もなく終わったのですが、次の日から40度の発熱に加えて体と目が黄色になり、30分に一回嘔吐を繰り返すようになりました。この症状は黄疸といい、拒絶反応が肝臓に出ている証拠となります。さらに血液検査の結果、感染症も引き起こしており、まさしくいつ死んでもおかしくない状況だったそうです。
私はというとあまりの痛みや苦痛のために医療用麻薬を大量に使っていたので、現実か夢かわからない状況でした。夜中も医療用麻薬の副作用で全く眠れず、目の前に謎のおじさんが現れたり、自分が何人かに分裂する幻覚を見たりと本当に頭がどうにかなりそうでした。
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しかし、その時に支えてくれたのが看護師さんの方々でした。夜中に不安になり何度もナースコールを押す僕に嫌な顔を全くせず対応してくれました。今私が生きてるのは看護師さん達のおかげだと思っています。そんな日々が2週間程続いた後、なんと無事に叔父さんの細胞が生着しました。見事、命の危機を乗り切ったのです。
私の元々あった体重は58kgから39kgまで減っていました。そして、ずっと動けなかったため腰には褥瘡が出来てしまいました。褥瘡とは長い期間同じ体勢でいる事で、血行が悪くなり皮膚が壊死してしまい腰の骨が見えてしまう症状です。また、肝臓に障害を受けた事で腹水が溜まり、お腹はまるで妊婦さんのようになってしまいました。
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なにはともあれ、未来への一筋の光が見えたことに私と両親は喜びました。この地獄の2週間、両親は毎日神社に通い食事もほぼ喉を通らなかったそうです。そこまで心配してくれた両親にはやはり感謝しかありません。
そして、2024年10月に入り体調の方もだいぶ安定してきて食事も少しづつ取れるようになってきました。治療のことですっかり忘れていたのですが、10月には私の24歳の誕生日がありました。
誕生日当日、リハビリから帰って部屋の扉を開けるとそこにはいつもお世話になっている看護師の方々やリハビリ士さん、担当の先生まで勢揃いで出迎えてくれました。そして、部屋の壁にはhappy birthdayの文字があり、その瞬間恥ずかしながら号泣してしまいました。
看護師さんの方からはスタバの水筒を、歯科口腔外科の先生からはステッカーとメッセージカードを、血液内科の先生からは先生自らが執筆した本を頂きました。本の最後には「早く元気になって後を継げ」とそう書かれていました。私はこんな素晴らしい人達に恵まれた事を神様に感謝したことを覚えています。そして、この日は間違いなく私の人生にとって最高に幸せな一日でした
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ただ、2024年11月に入ると再び肝臓の値が悪くなりました。お腹が痛くなり、再び嘔吐を繰り返すようになったのです。私と両親はまた拒絶反応が出たのではないかと不安になりました。そして、検査の結果は胆石による急性胆嚢炎でした。これは拒絶反応とは関係なく、偶発的に起こったものらしく、手術が必要となりました。
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一般的には簡単な手術なのですが、移植を終えたばかりの私の体はこれに耐えれるかわからないという事もあり、大量の輸血をしながら手術を行いました。私は最後の試練だと思い、手術室に向かったのを覚えています。
結果は無事に成功、肝臓の値も改善していきました。お腹に傷は残りましたが勲章として逆に誇らしい気持ちになりました。
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2024年12月に入りリハビリの成果もあり少しずつ歩けるようになってきました。そしてなんと、12月31日と2025年1月1日に一時退院が許可されたのです。
そして、待ちに待った2024年12月31日、半年ぶりに家に帰る事が出来ました。特に印象に残っているのはやはり母親が作ってくれてたご飯で、食べると自然と涙が出てきました。この二日間は家族と今まで辛かった事や、楽しかった事、色々な話をしてまるで天国のようでした。
そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、再入院しました。といっても、この入院はリハビリがメインで、週末は自宅で過ごすという日々を現在まで送っています。実はこの文章も病院の一室から書いており、本退院は2月後半の予定です。
★おわりに
ここまで私の拙い文章読んでいただきありがとうございました。私の病気を通して得た経験や思いが少しでもあなたのお役に立てれば幸いです。
病気によって多くのものを奪われた私ですが、実は得られたものも沢山あります。それは、ここまで支えてくれた人達や医療関係者の方たちとの出会いでした。そのうちの1人でも欠けていたら今の私はいなかったと本気で思っています。
将来、医師としてこの方達と同じ職場で働けたらこんなに嬉しいことはありません。この場を借りて言うのも変かもしれませんが、私の為に尽力してくれた医療関係者や今まで支えて下さったみなさま、本当にありがとうございました。
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