できると思っている程度より、もう少し自分を信じて:妻のリクエスト特集
フランス語版では“Puisque je pense, j'existe.”と書くこの有名な言葉は、多分、哲学をあまり知らない方でも聞いた覚えはあるでしょう。
日本語では、「我思ふ、ゆえに我あり」と訳されています。
この言葉が哲学者たちに及ぼした影響は莫大なものであって、私ごときがそれを説明するには、物足りないでしょう。
しかし、言葉のままの意味として受け止めることは誰でもできます。
私は考えている。だから私は存在する。
今日の物語はここから始まります。
子供の頃、二輪の自転車を初めて乗った時、自然に乗れた方々もいると思いますが、なかなかバランスが取れなくて、こけたり、足を立ててしまった経験がある方も、少なからずいるともいます。
こけて、こけて、怖くて足を離すことすらできない。
その時、こう言うでしょう。
「もう無理!ダメ、できない!」
しかし、そこで終わって、今でも自転車が乗れないと言う方は少ないと思います。
「大丈夫、できる!」
そう言って、応援してくれる人がいるからです。
しかし、応援してくれる人は厳密に言うと、言うだけであって、何もやっていないのです。
結局のところ、誰がアドバイスをして、誰がなんと言ったって、あなたが、自転車を漕ぎ始めて、バランスの取り方を覚えたのです。
自信とは自分を信じることです。何を信じるかというと、自分の能力、自分の才能、自分のできること、自分の強みだけではないです。
自分の弱いところ、自分の限界、自分に関する全ての情報に対する信頼です。
「私、それできる!」
この言葉を自信に満ちたと思うのは当然です。
「私、それ無理」
こう言うのも、一種の自信だと思う方は少ないでしょう。
しかし、これも自信なのです。自分のできないところについての信頼なのですから。
世間でいわゆる、「自信を持って!」と言う言葉は、「(できると)自分を信じて」の略なのです。だから、自信のある人というと、なんでもできそうな人というイメージになっているのです。
厳密に今日言いたいのは「自信を持つこと」に対するものではなくて、「少し強がってみること」です。
強がりって、日本では相当悪言葉になっています。虚栄心、虚勢、強がり、全部同じ場面で使っていますから。
しかし、結局、皆様の求めている「自信を持って」という言葉は、言い換えると「少し強がってみて」と同じ言葉なのです。
ネガティブに捉える理由がないと、個人的に思います。
多くの方が、「自分は成功経験がないから、自信がない」とか言います。
しかし、その考え方は、世間でいう、自信のある方に失礼な言葉かもしれません。
まず、あなたは何が成功だと思っているのでしょうか?
人は現在生きているだけで、結構な成功をしています。死ぬほどの事故に遭っていなくて、死ぬほどの事件にも巻き込まれていない、かつ、食べていけている。
それがなんで成功体験になるんだ?
ここが大きなポイントなのです。
世間でいう自信がある人は、成功に対するハードルが低いです。
例えば、ギターを習っているとしましょう。
ギターがどんなに奥深い楽器か、自分の才能、キャパシティはどれぐらいか、できるか、どこまで引けるのだろう。理論では……
こう考えていると、始まりすらできないのです。
世間でいわゆる自身のある人は、まず、「私、引けるかも!」と思って、簡単なコードから弾き始めます。
そして、だんだん、少しずつ自分の能力を大きく見積もって、その目標になるまで、練習を繰り返し、プロにはなれなくても、コードぐらいは弾けるようになります。
それで、彼らは「あ、成功した」と思うのです。
自分の能力、キャパシティを大きめに見積もっていないと、できないことです。
そうです。結局のところ、「成功体験がない人」は、なんでそうなるのかというと、
「始まりすらできていない」かつ「目標が高すぎる」
ということなのです。
私自身は結構、強がる人です。
頭もそんな良くないかもしれませんが、「私、国立大学で修学できるぐらいは、強い」と思い込んで、少しずつ目標を立てて、国立大学、決して難しいところではないですが、入れました。それを失敗だと思っていません。
そして、中学時代。好きなバンドができて、バンドがやりたくなりました。
しかし、私は楽器を持っているだけで、弾けなかったのです。
一緒に組んだメンバーも同じ状態でした。しかし、やりたい、できると思い込み、強がった結果、少しずつ引けるようになって、ついには学祭の時、簡単な曲だけど完璧に披露し、最高バンド賞までもらいました。
しかし、簡単すぎる曲だからと言って、成功ではないとも思っていません。
つまるところ、自分が信じている能力の自分より強い自分を仮定して、思い込むことが強がりになる方法といえます。
自分の能力、キャパシティなんて、他人は分かりません。測定する客観的なツールもないです。自分が考えている自分こそ、実際している自分です。
IQが低かった。私は勉強できない。
IQなんか所詮入隊基準知能検査です。私のお父さんは90のIQで企業の研究所長までなれました。
筋肉がないから、あれは持てない。
筋肉なら、いくらでもつけられます。道具を使うのも手でしょう。
やったことないから、できない。
これが最も馬鹿馬鹿しいです。誰でも最初がありますからね。
全然デカルトの意図から離れているかもしれません、しかし、私はCogito ergo sumで考えたのです。
自分が考えているという事実以外は、なんでも不明瞭で、客観的なものなんて存在しない。
そうなると、せっかくだから、自分をもっと強く見積もろう。どうせ、私の能力なんて、私しか考えられないから。