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【映画感想】ケイコ 目を澄ませて

≪見ようと思ったきっかけ≫
ボクシングをちょうど始めた時期だったので、ボクシング選手の映画に興味をそそられた。そして私はバケモノの子やビリギャルみたいに、努力をすることで結果を出すというプロセスが描かれた作品を好む傾向がある。この作品でもその過程が描かれるのではないかという淡い期待があり、見ることにした。

≪あらすじ≫
嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。 再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。 母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない想いが心の中に溜まっていく。そんな折、会長の健康を理由にジムが閉鎖されることが発表され、ケイコの心が動かされていく。

≪見た感想≫
ケイコは聴覚しょうがい者で耳が生まれつき聞こえない。だけどこの映画のいいところは、それがそこまで重要視されていない空気感があることだと思う。家族と手話で会話して、いろんな雑音がケイコには聞こえていなくて。見慣れた光景ではないけれど、全部なにか日常のどこかで。そこに何も違和感がない。そういうことがそこでは“普通”で、そこに居心地よさを感じたのかもしれない。
でも確かにこの映画を通してずっと感じていた。ケイコのシーンもそうだけども、会長も(三浦友和さん)、コーチ(三浦誠己さん)、松本(松浦慎一郎さん)、兄弟(佐藤緋美さん)、そのガールフレンド(中原ナナさん)もそうだし、ケイコが通ったジムも、河川敷もどこか見覚えがあるような、どっかに存在しているようなものだと思った。

だけどすべてが社会になじんでいるわけでもない。ケイコが通っていたボクシング場を会長が病気になったことで閉じることになった。そのとき耳が聞こえないことによっての次の引継ぎジムを見つけるのにコーチが苦労しているシーンがあった。まぁ結局見つかったのだが、家から遠いからということでケイコは断った。これはケイコを受け入れてくれるジムが近くにないということによる結果かもしれない。だけどその理由の中にコーチが耳が聞こえないことに対して嫌がった様子やあるいは特別扱いをしたから、というのがなくて安心した。(新しいコーチはiPadの音声入力を使って話し、寄り添っていた。しかしその優しさに聴覚しょうがい者だからという見方がなくて、あくまで人として話すために必要なことをした、という態度に覚悟もみられてとても良かった。)

この映画の中でケイコにとって厳しいこともあるのだが、優しさも溢れている。それが描かれた作品だと思った。

もう一つこの作品が好きなところは、映画の撮られ方にあると思う。ケイコは話さないけれど、表情や姿勢で感情が揺れ動いているのが分かる。そういった動作や感情を逃さずに切り取りながら、汲み取りながら、繋げていく。その映画のスタイルに新しい感覚を抱いた。


主旨から外れるかもしれないが、私はあることも考えていた。少し、言いたくはないのだが、、ケイコがやりたいことをやっているから、自分はもっといろんなことができると思った。だけどとても失礼だと思った。そうやって比べることでしか自分の可能性に気付けない自分が恥ずかしく感じた。同じように「アフリカの人は家もなくて、食べるものも十分にない。だから私たちは家があることや食べるものがあることに感謝しないといけない」、という考えがあるが、そういうのではなくて。何かと比べてではなくて、目の前にあるものに感謝する、という考えができたらどんなに素敵かと思った。

他の人の状況を見て、自分の状況を肯定し、今ここにあるものに気付くという点ではまだいい。だけどそれが結果的によくないことがある。例えばあの人に比べたらまだましだ。と思うことがある。そしてまだましだ。と思い込む時間が長くなり、深みを帯びると、どんどん自分が辛くなって、追い込まれて、しんどい沼にはまっていくこともある。だから主観的でいいのだ。もっと。辛いとか、嬉しいとか、何かに対する感謝も。この映画の中のケイコの感情のように、そこにあるものとして捉えられたらどんなにいいだろうか。と、そんなことを考えていた。

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