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[2024.8.21追記有り:『須高』13号について]【注意喚起】『月刊ムー』(ワン・パブリッシング社)2024年9月号における「唯善の悪霊視」について


副住職の唯真です。

オカルト・サブカルを中心とした月刊雑誌、『ムー』
の今月号(2024年9月号/No.526)に当山や
御先祖唯善に関する記事があり、(『裏拍手の呪術』79p.)、
私たちに関することなので情報をお伝えさせて
頂きたく記事をまとめさせて頂きます。
(2024年8月12日、資料とお手紙を編集部まで郵送済)

まず、紙面で取り上げられている野田の常敬寺は、
戦国期、当山が焼かれた跡地に報恩寺が自身の末寺
「福専寺」を建て、それが江戸時代に、
当山と同名のお寺に西本願寺の命で変更されたもの
であり、唯善や当山との関係はまったくありません。

当山は戦乱から疎開し、信濃~越後へと
移動しました。

【跡地研究の詳細は↓の記事に】(お寺ブログ):
https://saikoinjyokyoji.livedoor.blog/archives/20039072.html

それを踏まえて、『ムー』の記事に関し、
唯善の寺院、唯善の子孫(私、唯真は唯善から
みて第28代目にあたります)として、
”誤った”情報につきまして訂正、そして注意喚起
をさせて頂きたく存じます。

野田常敬寺の坐像に関して記事を書かれた
ライターの吉田悠軌氏(ちなみに私は氏の前
からのファンでして、
「とうもろこしの会」podcastも聴いて
おります。それもあり、ショックでした)

「これは作者唯善が寺の跡取り争いに敗れ
破門された恨みを込め、
後から両手をすげ替えたものという」
(79p.)

とありますが、繰り返しますが
こちらの坐像を所蔵しているお寺さまは、
唯善とは関係がないものです。

(坐像に関しては常盤御前の念持仏、
守り本尊という説明がされているとは
思いますが、調べたところ手は後代の
補修で、これは江戸期に福専寺から常敬寺
に変える時、ムーで語られる「唯善の由緒」
【私は原文を確認していないので分かりません
が、そういったものがあるとすれば】を加えて、
唯善のお寺という体裁を整えるために、
創作された縁起が付与されたものと思います)

強くお伝えしたいのは、
当山には「唯善が怨んだ」等の記録はありません。

そして、唯善が対立していた本願寺にもありません。

そもそも、唯善上人は天皇からの庇護を賜り、
鎌倉将軍家から土地の寄進・伽藍の造営をして
頂き、ある種、真宗の当時の一宗派とも呼べる
規模を築きましたので、本願寺を「恨む」必要
がありません。
(持っていたとして、負の感情としては、
「悔しい」とか、そういう類だと考えます)

私が、こうした月刊ムーの(サブカル的)記事に
なぜ反応するかというと、

先祖唯善に「恨みを持った呪いのキャラクター」
という属性を付与される恐れ、

そうした土壌が生まれる・育まれる可能性が
あり(ロアー化)、
それは子孫として遺憾であり、
早い段階でしっかりと私たちが指摘する
必要があると思うからです。

記事では唯善の話題のあと、

(こうした”逆手”は)「死に繋がる呪い〜…」

でもあると続き、ある種の「誘導」が
されていると見受けられると思います。

僕自身、エンタメとしての
ネットロア、オカルト愛好家であり、
(男の子はUFOとか好きですね!!)
であるからこそ今回の記事にも
気づけたのですが、

そういう訳でして、内情といいますか、
都市伝説化の過程を知っているし、
肌身に感じていることなのですが、

「心霊スポットは根も葉もない、
単なる噂から生まれる」

ことがとても多いのです。

そのようなケースは、
たとえばYouTuber「THEつぶろ」氏の
オカルト調査隊チャンネルでも
細かく調べられており、
視聴されるとよく分かると思います。

御先祖が、もし呪いのキャラにでも
なったら本当につらいです……。

『ムー』という雑誌は、そうした趣味の方
から幅広く支持をされ、またなにより
影響力を持っています。

そうした雑誌の紙面で、
まるで私の御先祖の唯善上人を
呪いの術を使った「悪霊」や「怨霊」の
ように語る(騙る)のは、やめてください。

悲しいですし、迷惑です。

オカルトはあくまでエンタメであり、
楽しい(ポジティブ)ものであると
私は考えています。

オカルト(=よく分からないモノ、の意)
は、
「不思議なコトが世の中にはあるのかも!」
と夢想し、
ドキドキワクワクして楽しむもので、
誰かをあからさまに傷つけるものではない
と思っております。

合掌

[追記:2024年8月21日]↓

2024年8月16日に、ムー編集部より
御返事を頂きました。

(それに対する返信を2024年8月19日に
レターパックにて郵送済み)

記述内容について、様々な背景が
判明いたしましたのでお伝えいたします。

まず、私が指摘した

「これは作者唯善が寺の跡取り争いに敗れ
破門された恨みを込め、後から両手を
すげ替えたものという」

という記述、これの参考資料とした本を
教えて頂きました。

こちらは、

須高郷土史研究会『須高』13号(1981.9)

の内容を参考としたそうです。

また、ムー編集部からのお手紙には次のように
追加情報があり、引用いたしますと、

「記載内容については別紙も添付いたしますが、
千葉県野田市の常敬寺も阿弥陀像について
常敬寺の寺記は、

『これは仏像の儀軌に基づく
印相ではない。日本の古い咒術(呪術)である
天の逆手を打つ形をしている』とあります。

また、『天の逆手像』について、
『野望に敗れた唯善の怨念が伝わってくるような
阿弥陀像である』という記載もあります。

上記をもとに、記事原稿を制作しています。

月刊ムー記事の制作の際、意図的に
「唯善上人=恨みを持った人物」というイメージ
を作り上げたわけではありません」


とのことでした。

お手紙には、国会図書館・デジタル
アーカイブ(電子化)版の『須高』13号の
唯善に関するページがコピーされておりました。

(全文ではなかったので、
古書通販にて当該の『須高』を検索・発見、
購入いたしました。まだ届いていませんが、
今週中には確認できそうです)

そこで、私は次に、参考資料として
あげられていた『須高』を発行する
須高郷土史研究会に電話にてお話を
伺いました。

現、編集長さまから、その記事についての
詳細を知ることができましたので、
こちらにもまとめてみていきます。

(話の要約になります。電話での内容なので
うろ覚えや聞き違いがあるかもしれませんが、
その点ご了承願います)


まず、1981年の『須高』13号は
「真宗特集」として組まれた。

他の論考は実名で、著者名がはっきり
しているが、『ムー』の参考資料となったものは
巻末の附録記事で、匿名での記述となっており、
書いた人間を特定できない。

しかし、本文を読むに、その幅広い知識量からみて、
当時の初代編集長(『須高』創刊者)か、
郷土史家であった、お西(野田市常敬寺さん
と同宗派)の御住職のどちらかではなかろうか、
とのこと。

『須高』13号は、野田市常敬寺への
参拝記のエッセイで、

「郷土の山田地域と密接に関係する常敬寺」(147p.)

とあるのですが、郷土の山田地域と
密接な関係だったのは当山のほうで
(20年ほど寺基を山田に構えていた)、

お寺にまつわる伝承も残り、地元の方、
しかも郷土史に詳しい方々が
なぜ「郷土とは無関係な」野田の常敬寺へと
足を運んでいるのかが不明です。(これは私の感想です)

さらに『須高』13号の記述をみていきます。
先に引用したように「常敬寺の寺記」として、
印相が天の逆手という展開なのですが、
「寺記」とはなんなのか、歴史ある縁起なのか、
江戸後期や近代になっての記録か、歴代住職の所感
-現在でいえばこのブログのような-、それとも伝え聞きか、
どのような形態かは不明です。

文章を以下に引用しますが、文と文の繋がり
が不明瞭で、「ん?」と、どこか読み飛ばしたかな?
と思って二度見しました。
みなさま、どうでしょうか。

「これについて常敬寺の寺記は、
『これは仏像の儀軌に基づく印相ではない。
日本の古い咒術である”天の逆手”を打つ形をしている』
それでは『天の逆手を打つ』とはどんな場合であろうか。
古典の中にこれを探ってみたい」(148p.)

寺記とは……?

その疑問はひとまず置いておいて、
さらに記述内容について考えてみます。

「常敬寺阿弥陀像は千葉県の文化財に
指定されている。その報告書の中で、
『両手の甲を胸前で対向させる珍しい印相であるが、
両手先は共に後補であり、元は説法印を結んでいた
のであろう』と言っている」(148.)

「悪しきこと、異常なことを祈る場合の
呪術として、伊勢物語の中にも天の逆手が
用いられているのであろう。

さて常敬寺の阿弥陀像は手の甲を
向かい合わせて天の逆手を取っている。
この仏像はいったい
何を祈り、何を呪っているのであろう。」

「常敬寺阿弥陀像はあるいは唯善自身の
特別の依頼で天の逆手像が制作された
のかもしれない。いずれにもせよ、
野望に敗れた唯善の怨念が伝わって
くるような阿弥陀像である」
(『須高13号』149p.)

・・・・・・・・・

・・・・・・

・・・。

だんだんと分かってきました。

『ムー』の記述は、ほぼこの『須高』の
主張をなぞる形で引用(批判引用ではなく)
されており、『須高』13号の記述のほうが
より「言葉がキツい」ということでありました。

しかも、これだけの仮定で話を進めるのに、
事実確認の「裏どり」や、さらなる分野や
土地への調査、フィールドワークがされた
痕跡もなく、ただほとんど思い付きで
文章が進んでいます。

これには私は、大変驚きました。

なかなか、悲しい気持ちになります。

自論には自論で、ということでも
ありませんが、
この参拝記を読んだうえで
私の考えを書かせてください。

まず、「唯善の常敬寺」(子孫の寺)は
当山であります。

そのうえで、この

「唯善が敗けた恨みから呪術を使う」

という主張・伝承は、そもそもにして
私たちからは出てこない発想です。

唯善および当山は、天皇の庇護を受け、
鎌倉幕府将軍家から土地の寄進があり、
巨大な伽藍が造営されました。

塔頭が数多く建ち並び、複数の伽藍が
(恐らく回廊で)組み合わさり、
唯善の寺は大いにその威容を誇りました。

本願寺教団にくだるまで、100年以上、
唯善とその子孫は独立を保ち、いわば
当時の真宗の一宗派(中戸山一門)の
本山として東国に君臨しました。

ですので、そもそも唯善が本願寺に
対して「恨む」必要がないのです。

この、「唯善が恨んでどうこう」と
いうのは、これはだれの視点でしょうか?

これは「本願寺からみた唯善像」ですね。

私たちが持つ「唯善像」ではなく。

本願寺史が反映されたものです。

そしてその「寺記」があるのは、
当山の跡地に建った、
野田市の常敬寺さんだといいます。
(『須高』13号の記述より)

だったら、私はある意味で納得です。

なぜなら、当山の跡地に建った
福専寺を「常敬寺」という寺名に改めたのは、
西本願寺(寂如上人)だからです。

であれば、当然、そのお寺が語る唯善像は
本願寺からみたものになります。

(私がこんなにアチコチ必死なのは、
私が子孫だからです。それしか理由ないです)

つまり、この「寺記」がなんなのか、

それは寺名を変えた後に作った縁起なのか、
口での伝承なのか、『須高』13号を
読んだだけでは判りませんが、
ともかく、向こうのお寺さんから受けた
説明をもとに、そのまま原稿を書かれたの
ではないでしょうか。

献本をした可能性もありますし、
「呪い」とか「恨み」とか、
参拝記の内容がそれでは普通は
さすがにどんなお寺も顔をしかめそうですが、

それが「お寺さんからの説明」であれば、
堂々と書き、また自論を展開できるでしょうね。
(忘れがちなのですが、これは参拝記、
エッセイでの中での考察なのです)

色々と思う所が増えてしまったのですが、
ひとまず、まとめさせて頂きました。

御返信と資料をくださった
ムー編集部、お電話にて
当時の背景を教えてくださった
須高編集部の方々、有難うございました。

また、今後「webムー」にて、
今回の記事の加筆版が更新されるとのこと
でしたので、そちらも併せてお伝えさせて頂きます。

合掌

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